※本稿は、本郷和人『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
明治天皇が呆れた「長州藩士」の節操のなさ
明治時代のリーダーたちの中でも、とりわけ女性関係が派手だったのが伊藤博文です。
パートナーがいる女性にも遠慮なく手を出してしまう節操のなさで、あまりに愛人が多いため「掃いて捨てるほどいる」という意味から、一時は「箒」というあだ名をつけられてしまったほど。その奔放さゆえに、明治天皇から「いい加減にしろ」と叱られたという逸話まで残っています。
伊藤博文の面白い逸話は、まだあります。彼は鹿鳴館での舞踏会の最中、馬車の中で日本初の「カーセックス」を実践しようとしたという伝説の持ち主でもあります。
その相手は、岩倉具視の娘で大垣藩主戸田家に嫁いだ社交界の花・戸田極子でした。このスキャンダルは、当時の新聞にすっぱ抜かれてしまいましたが、ここからが伊藤博文のユニークなところ。
なんと戸田家の当主をウィーンの全権大使に任命し、極子の名誉を巧みに回復させたのです。
そのおかげで極子はウィーンの社交界で日本文化を紹介する名物夫人となり、戸田家の子孫の方々は現在もウィーンフィルの楽団員として活躍し、日本でも公演を行っています。
5000円札の顔、津田梅子の正体
さて、これほど女性好きだった伊藤博文ですが、長く親交を持ちながらも、手を出さなかった女性がいました。
その女性こそが、のちに津田塾大学を創設する才媛・津田梅子です。岩倉使節団に同行し、6歳で渡米した津田梅子は、のちに日本の女子教育の先駆者となります。同じく岩倉具視使節団の一員として同行していた伊藤博文は、彼女にとって幼い頃から親しみやすい兄のような存在だったのでしょう。
18歳で帰国した津田梅子は日本語が不自由で困っていましたが、そのとき、真っ先に彼女に手を差し伸べたのが伊藤博文でした。梅子は伊藤家で英語教師となり、その後、伊藤の紹介で明治の上流階級の娘たちに英語を教えることになります。
しかし、梅子は特権階級の子女へ教育を行うことで満足せず、再度渡米し、アメリカのブリンマー大学で学士号を取得。帰国後に津田塾大学を設立することになりました。
現代でいえばキャリアウーマンの先駆けともいえる梅子ですが、当時はまだ女性は家庭に入るのが幸せと思われた時代でもあります。そのため、家族からは何度も結婚をすすめられたそうですが、あまりのしつこさに、家族に対して彼女が「私の前で結婚の話をしないでください!」と怒りを爆発させた手紙も残っています。
