53歳でラーメンの世界に飛び込んだ「元プロミュージシャン」
東京・巣鴨の地にひっそりと暖簾を掲げる「麺創庵 砂田」。福島の白河ラーメンをベースとした淡麗ながら記憶に残る一杯を求めて訪れる多くのファンが開店前から列を作る。だが、この人気店が誕生するまでの道のりは、一般的なラーメン店のそれとは大きく異なる。店主・砂田裕史さん(61)がラーメンの世界に飛び込んだのは、なんと53歳。
音楽の世界から始まり、起業、失敗、サラリーマン生活と、波瀾万丈の人生を経ての遅咲きデビューだった。
裕史さんが音楽を志したのは、中学生の頃。ギターを手にし、「音楽で食っていく」という目標を早々に胸に決めていた。「高校は行かずに東京へ行きたい」――そう親に告げたが、さすがに認められず、兵庫県立西宮高校へ。そこには県立で唯一“軽音学部”があったのだ。
「高校は“音楽ができるから”行っただけです(笑)。親との約束でしたから」(裕史さん)
卒業後、念願の東京へ。専門学校ではギター、作曲、アレンジを学び、仲間とバンドを組んでは解散を繰り返す試行錯誤の日々が続いた。やがて20歳頃からプロデビューを目指す本格的な活動をスタートさせる。
デビューが決まったのは27歳。バンドは6人編成だったが、レコード会社から「作詞や作曲ができる3人だけでデビューさせる」と告げられる。
「仲間を切るようでつらかったです。でも、プロの世界の現実を見せつけられましたね」(裕史さん)
曲がテレビ番組に採用され、堂本剛に楽曲提供するも厳しい世界
ユニット名は「festa mode」(フェスタモード)。裕史さんの書いた曲がTBSのワイドショーのエンディングテーマに採用され、順風満帆なスタートを切る。当時から付き合っていた玲子さんとはデビュー後の1993年に結婚をした。
アルバム3枚、シングル11枚、ベストアルバム1枚。約6年の活動で全国を回った。だが、それでも食べ続けるのは難しいのが音楽の世界だ。ユニット解散後、裕史さんは作曲家として事務所に所属する。その後、堂本剛に楽曲提供をするなど活躍の場が広がっていった。
だが一方で、受け取るはずだったギャラが支払われないなど所属していた事務所は資金繰りに窮し、崩壊した。
「音楽を続けるべきか、初めて真剣に悩みましたね。しかし、この頃には自分の興味はインターネットに向かっていました」(裕史さん)
