事情通・久松剛がいち早く考察
最近HOTな「あの話」の実態〝流しのEM〟として、複数企業の採用・組織・制度づくりに関わる久松 剛さんが、エンジニアの採用やキャリア、働き方に関するHOTなトピックスについて、独自の考察をもとに解説。仕事観やキャリア観のアップデートにつながるヒントをお届けしていきます!
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最近HOTな「あの話」の実態〝流しのEM〟として、複数企業の採用・組織・制度づくりに関わる久松 剛さんが、エンジニアの採用やキャリア、働き方に関するHOTなトピックスについて、独自の考察をもとに解説。仕事観やキャリア観のアップデートにつながるヒントをお届けしていきます!
2029年を目途に、日本最大級の自動車メーカー、トヨタが東京にAI開発拠点を立ち上げると発表しました。
この動きの背景には、日本の製造業が抱える“深い課題”と、世界規模で激化するAI人材獲得競争が見え隠れしているように感じています。
海外とは異なる日本の道路環境、規制産業としての自動車業界の制約、地域間で偏在する人材市場──さまざまな現実を前に、なぜ今、東京で、AI開発に本腰を入れるのか。
その背景と、これから製造業でキャリアを築こうとするエンジニアが直面するリアルを、掘り下げていきたいと思います。
博士(慶應SFC、IT)
合同会社エンジニアリングマネージメント社長
久松 剛さん(@makaibito)
2000年より慶應義塾大学村井純教授に師事。動画転送、P2Pなどの基礎研究や受託開発に取り組みつつ大学教員を目指す。12年に予算都合で高学歴ワーキングプアとなり、ネットマーケティングに入社し、Omiai SRE・リクルーター・情シス部長などを担当。18年レバレジーズ入社。開発部長、レバテック技術顧問としてキャリアアドバイザー・エージェント教育を担当する。20年、受託開発企業に参画。22年2月より独立。レンタルEMとして日系大手企業、自社サービス、SIer、スタートアップ、人材系事業会社といった複数企業の採用・組織づくり・制度づくりなどに関わる
目次
今回のAI拠点設立には、少なくとも以下のような三つの構造的な課題が背景にあると考えられます。
アメリカのように道幅が広く、高速道路中心のインフラと違い、日本の道路環境はかなり複雑です。道が細かったり、舗装されていない路地、センターラインが消えかかった田舎の山道が普通に存在します。「テスラで墓参りに行くとパンクする」という話もあるほどです。
こうした特殊な環境に対応するには、ローカルLLMや高度な画像認識を駆使できるエッジAIが不可欠ですが、そうした技術を扱える人材の確保は容易ではありません。
自動車の走行に関するAIのソースコードを改変する行為は、道路運送車両法で定められた保安基準に影響を及ぼす可能性があるため、広義の改造と解釈され、国土交通省への届出や認可が必要になる可能性があります。
安全性の担保という観点では妥当な制度ではあるものの、開発サイクルが遅くなる一因となりやすいという声も聞かれます。
「PoC(概念実証)で終わるプロジェクトが多い」といった指摘が出るのも、こうした制度や文化的な背景によるものかもしれません。
三つ目の理由は、IT人材の地域的な偏在です。
IT人材、とりわけAI領域の人材は、東京に集中する傾向があります。
東京には東大を筆頭に優秀校が集中しています。次点として大阪や福岡にもそれぞれ優秀な理工系人材の供給源がありますが、多くの方が東京に流れてしまうことが課題になっています。
また、地方の場合、初任給の水準が他の都市と比較して相対的に低めであることも、採用上のボトルネックになっているようです。
製造業では今、どんなIT・AI人材が求められているのか。AI技術の進化に伴い、その定義も大きく変化しているため、ここで一度整理してみたいと思います。
従来の分類では、主に以下の3タイプが主流でした。
1.大学で体系的にデータサイエンスを学び、論文執筆経験を持つ人材
2.ビッグデータ処理の実務経験からAI領域に移行した人材
3.一般的なプログラマーからデータサイエンティストに転身した人材
ここに近年加わっているのが、新たなタイプのAI人材です。
それは、ChatGPTやDeepSeekのような外部エンジンを活用する「生成AIエンジニア」です。2023年にChatGPTが2022年11月に外部公開されると共に、急速に広がったLLMですが、この流れ「AI人材」の区分に一石を投じている格好になっています。大学でもLLMの利用は広がっており、27新卒を対象にしたスカウト媒体を見てもLLMを絡めた研究テーマに取り組んでいる方が増加しています。
従来のデータサイエンティストが数学や統計学を元にアルゴリズム開発をしてきたことに対し、生成AIはRAG(検索拡張生成)やプロンプトへの具体的な指示出しなどが肝になります。あるAI企業では、これまで数学や統計学を駆使していたAI人材が、一斉に日本語と格闘し始めたという話もありました。例えば、ある人材系企業では「全社員対象のAI活用」を推進していますが、情報系や理系出身者ではなく、国文学の博士号を持つ人材が最も優れた出力を出したという話もあります。
こうした事例が示すように、求められるスキルが多様化し、プログラミング能力だけでなく、言語化能力やドメイン知識の重要性が増しています。
当面のAI人材における生成AIの影響は、「AI人材」の定義が多様化することに依る母集団形成の困難さにあるでしょう。本当に欲しいAI人材はどのようなスキルセットを持ち、どこに居るのかを適切に戦略立てられなければ、昨年や一昨年と比べても非常に困難な採用になるでしょう。
では、AIエンジニアとして製造業に進むことは、キャリアとして正解なのでしょうか?
短期的に成果を出したいなら、やはりWeb業界やベンチャー企業の方が合理的だと私は考えます。冒頭にお話したように、製造業は国土交通省の規制や企業文化の保守性もあり、Web企業と比較して、製品化までのスピード感では差異があります。実装したコードがすぐに製品に反映されるテスラや中国企業とは開発からリリースまでの時間に差が出てしまいます。
また、企業文化や待遇面での課題もあります。製造業の多くは、メンバーシップ型雇用や年功序列といった従来の雇用形態が根強く残っており、高待遇を提示するWeb企業やベンチャー企業に比べて、給与体系や評価制度におけるミスマッチが生じやすい傾向があるからです。戦略的なデジタル子会社を設け、給与制度や評価制度を切り離すことが現実的でしょう。
また、Web業界では当たり前となっている柔軟な働き方も、製造業では難しい場合が多く、開発環境や文化の違いに戸惑うエンジニアも少なくないでしょう。リモートワークやフレックスだけでなく、作業服が必須であるケースもあり、採用のボトルネックになりやすいです。
私も製造業におけるDX人材採用を手掛けてきましたが、中途採用の場合はメーカー間転職がギャップが少なく、そうでない場合は紹介予定派遣や新卒採用を検討する必要がありました。
当然ですが、製造業で働くメリットも大いにあります。最大のメリットは、日本の基幹産業である「ものづくり」に貢献できる点です。
日本を代表する産業に関わりたい、日本の道路環境という特殊なフィールドで世界にない自動運転を実現したい、そういった志があるならば、製造業は魅力的な選択肢になります。日本の悪路という「世界でもっとも難しい環境」で鍛えられるAI技術は、将来的に他国では生まれ得ない強みとなるからです。
また、国土交通省の規制が開発スピードを遅らせる要因となる一方で、こうした規制環境が存在することは、現場で無理なスピードや過剰な負荷がかかりづらいという側面もあります。開発の質や安全性にじっくり向き合える環境がある──そう捉えることもできるかも知れません。
AI人材の獲得競争は激化の一途を辿っており、特にトップクラスのAIベンチャーや大手IT企業では、非常に高い採用要件と待遇が提示されています。
以前の記事でもお伝えしましたが、あるAIベンチャーの採用要件は、「トップカンファレンスへの論文採録、ベンチャー企業での商業プログラミング経験、ビジネス感度、そしてコミュニケーションスキル」が挙げられています。
ただ、GoogleやAWS、Microsoftなどの外資系大手IT企業も欲しがる人材であるため、提示する年収レンジ1200万円から1500万円であることを念頭に置かなければなりません。
このような状況下で、国内の大手製造業が本気でAI人材の採用を本格化させるとするならば、この人材獲得競争にも大きな影響を与えることは間違いありません。
特に新卒採用の文脈では、大手企業が持つ「ブランド力」は絶大です。景気が不透明な状況では、たとえベンチャー企業が大手の倍の待遇を提示したとしても、親から「知らないベンチャーより大手の〇〇に行きなさい」と勧められ、大手を選ぶ学生は存在するでしょう。いわゆるオヤカク面での強みです。
では、高待遇を用意できれば「万事OK」かと問われると、そうとも言い切れないのがAI人材の採用の難しさです。
人材獲得競争が激化する中で、企業が直面する最大の課題の一つは、獲得したAI人材にいかにして長期的に活躍してもらうかという点です。
ご存じの通り、AI領域の進化は非常に速いです。一生懸命キャッチアップしていた技術やナレッジが「一瞬にして陳腐化」することも日常茶飯事でしょう。一般的なプログラマーと比較しても、AIエンジニアにははるかに多くの学習量が求められ、常に最新の技術動向を追いかけ、自身のスキルをアップデートし続けることが求められます。
そうした厳しい状況に置かれていることを、会社側も自覚し、彼らに学習機会や研究環境を提供し、成長を支援する体制を整えることが不可欠になってきます。
例えば、「このスペックのPCを買いたい」と言っても、「なぜそんなものが必要なのか?」といった交渉から始まるような、ITに対する理解不足が根強い企業文化は、Web業界で柔軟な開発環境に慣れたエンジニアにとっては大きなストレスです。
それに、製造業の多くは、アジャイル開発のような現代的な開発手法が浸透しておらず、IT独特の文化(勉強会での発表や論文執筆など)が隔絶されがちな環境も、AI人材の定着を難しくする要因となりえそうです。
ジョブ型で採用されたAI人材は、過去の実績ではなく“現在の成果”で評価される世界にいます。高待遇に見合う成果を出し続ける必要があるため、企業側も彼らの成長と活躍を支える仕組みづくりが不可欠です。
そのためには、評価制度だけでなく、学習環境・開発体制・柔軟な働き方など、組織全体の文化や制度のアップデートが求められます。
日本の道路環境、日本語のドキュメント、日本市場のニーズ。こうした条件は、ある種の“地の利”であり、製造業で働くことのユニークな価値になります。
そうした環境で、世界に通用する技術を生み出したいのであれば、製造業でキャリアを築く価値は十分にあります。
ただし、そこには「開発スピードの遅さ」「社内文化の壁」「待遇と制度設計の難しさ」など、さまざまなハードルも存在します。
それでも日本のものづくりを支え、社会インフラとしてのモビリティを進化させたいという意志があるなら、これほどやりがいのある領域はないでしょう。
文/一本麻衣、編集/玉城智子(編集部)
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