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ごめんねスレッタ・マーキュリー─不穏な雲行き(後編)─ – Telegraph
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ごめんねスレッタ・マーキュリー─不穏な雲行き(後編)─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─不穏な雲行き(後編)─


※オリキャラ含む登場人物が不憫な目に合っているのでご注意ください




 あまり眠れなかったせいで鈍く痛む頭を抱えながら、エラン・ケレスは今後の動き方を見定めていた。

 最近姿を見せなくなっていた上役の男が、突然エラン達のいるアパートの近くに姿を現したのはつい昨日のことだった。偶然とは思えない。あの男はしっかりとエラン達の借りている部屋の場所を見定めていた。

 ペイルの追手…の可能性はあるだろうか。

 この辺りはベネリットとは関係のないグループの傘下で、上役の男も一族の中にきちんと組み込まれている。

 だから直接の関係はないと思うのだが、どこかで繋がっているということは、あり得るだろうか。

 場合によっては月末を待つまでもなくすぐに仕事を辞め、この土地から離れた方がいいのかもしれない。

 けれどもし、ベネリットとはまったく関係のない理由でこちらを探っているのだとしたら、あまり性急に事を進めるのもよくない気がする。

 先日の上役の言葉を思い出す。紹介してくれ、と彼は言っていた。エランの妹と思われている女性の存在を知り、彼は興味を持ったのだ。

 直接会ったことのない女性の為に、不快な暑さも我慢して家の前を監視する。理由としては弱いし、今までの男のイメージともかけ離れている。

 だが絶対にないとも言い切れない。断言できるほどエランは上役の男のことなど知らないのだから、当然だった。

「………」

 エランはふっと息をついた。結局は今すぐに判断するには材料が足りない。

 昨日の様子では、いきなりアパートに襲撃に来る可能性は低いように思える。結局彼は1時間もしないうちにあの場を離れて、その後は戻ってこなかった。

 少し不安ではあるが、とりあえず今日のところは仕事に行き、もう少し判断材料を増やした方がいいだろう。

 エランの頭に役員の男の顔が思い浮かぶ。…最優先で接触すべき人物だ。

 あの有能で人のいい男は、上役の男の思惑や行動をどこまで把握しているんだろうか。



 上役の男はいつも昼近くに出勤するが、役員の男の方は通常の出勤時間にはもう来ているようだ。ただし途中で仕事を抜け、上役の男をわざわざ迎えに行くこともあるらしい。

 ほとんど付き人のように世話をしているが、まだ双方ともに少年だった頃からの付き合いらしく、本人たちも周りも特に疑問には思っていないようだ。

 エランは作業時間が始まる前に事務室へと行き、出勤したばかりの役員の男に後で時間を作ってもらえるよう頼んでみた。

 すると役員の男は快く応じてくれ、午前中には会いに来てくれることになった。彼はエランの作業時間が分かっているようだ。これで上役の男が来る前に一度は話ができるだろう。

 あとはクーフェイ老に時間が取れないことを前もって言っておくことにした。あの老人は怒るだろうが、役員の男との話し合いの方が大切だ。

 工作機械の所へ行って、まだ仕事を始める前のクーフェイ老に話しかける。

「あの、クーフェイさん」

「んぉ、何だ新入りか。お前から話しかけて来るたぁ珍しいな」

「すいません。今日の午前中、時間を空けることが出来なくなりました。役員の方と話し合いがあるんです」

「………」

「ですので…」

「あぁ、いい、いい。行ってこい。その方が雲もどうにかなるだろう」

「雲、ですか?」

「お前の顔にかかってるモンだ。その話し合いとやらで晴れるか知らんが、何もしないよりはいいだろ」

「はぁ…」

 不思議な事を言っているが、この地方特有の言い回しか何かだろうか。とりあえず後でごねられることはなさそうなので、それはよかったと思っておく。

 クーフェイ老に報告したところで始業時間になった。エランはモビルクラフトの元へ向かうと、いつものように手早く仕事を済ませていった。



「おーい、カリバン。来たっすよー」

 もうすぐ仕事が終わるというタイミングで、役員の男がこちらへとやって来た。

 エランは荷物を移動し終えると素早くコクピットの点検をして、モビルクラフトを所定の位置へと戻すと操縦席の外へ出た。

「すいません、わざわざ来てもらって」

「いいんすよ、ちょうど暇してたから。会議用の部屋を借りたからそこで話そう」

 そう言って、移動した先はエランが最初に面接に来た部屋だった。

 ここへ来たときはまさかこんなことになるとは思ってもいなかった。最初は短期のライン工をするつもりで来たのだ。

 少なくともモビルクラフトの運転をしたり、上役と知り合いになったり、ましてやトラブルになったりすることは想定していなかった。

「…で、話ってなんすか?」

「これは本人以外にはあまり話さないで欲しいんですが───まずはこれを見てください」

 役員の男が切り出してくれたので、エランは自分の端末を出してその映像を男に見せた。

 画像は荒いが、こちらを暗い顔で見上げている上役の男の姿が映っている。

「若?え、この画像ってどこから撮ったんすか?」

「家から撮った画像です。自分は仕事をしていた時間帯でしたが、家には人がいるので…」

 詳しく断言せずに言うと、役員の男は家人が撮ったものだと勝手に納得してくれた。

 事情を聞かせて欲しいと言うので、更に家の前に1時間近くいたこと、その間ずっとアパートの部屋の辺りを見上げていたことなどを話していく。

 話が進むうちにだんだんと役員の男の眉間に皺が寄っていき、珍しく難しい顔つきになっていった。どうやら男の行動は、彼も想定外だったらしい。

「家には妹さんがいるんですもんね、映像を撮るくらいだからきっと怖かったんだろうな。しかしこれは…。ちょっと今から若の家に行って、話を聞いてくるっす。場合によっては説教しなきゃ」

「その前に、彼が何を考えて家の前にいたのか分かりますか?」

「ぁあー…。そうっすよね、不気味っすよね。若が何を考えてるのかオレも時々分からなくなるけど、これは分かるっすよ。たぶんカリバンと仲良くなりたいんだと思う」

「僕と?」

「若はああ見えてヒーローが大好きなんすよ。初めて会った時のカリバンがあんまり格好良かったんで、少しでも近づきたくなったんだろうな。その手段がカリバンがいない家に突撃するってのが、思い付きで行動しがちな若っぽいけど」

「………」

「若はああ見えて臆病だから、妹さんをどうこうしようとは思ってないと思うっす。でも怖がらせたのは事実だから、それをちゃんと伝えないと」

「………」

「じゃ、さっそく行ってくるっす」

 そう言って役員の彼は会議室を出て行った。エランは先ほどの彼の言葉を考える。

 上役の男が自分と仲良くなりたくて、家にまで来た。その推察は合っているんだろうか?

 エランは軽薄なことばかり言う上役の男のことを、人のいい役員の彼ほど信じられそうになかった。


 モヤモヤするものを抱えたまま午後の仕事をしていると、指導役の男がエランを呼びに来た。

 どうやら役員の彼に頼まれたらしい。仕事はあらかた終わっているので、後は通常の重機で対応するとのことだった。

 エランは指導役の男に礼を言うと、先程の会議室へと向かった。

「失礼します」

「あ、カリバン、仕事中に呼び出してすまなかったっす。若を連れて来たっすよ」

「………」

 見ると少し目元を赤くした上役の男が不貞腐れたような顔で座っていた。

 その表情はアパートを見上げていた時とは違いずいぶんと人間味のあるものだったので、エランは何となくホッとしながらも末席に座った。

「若、お話するんでしょ?」

「………」

 口を開かない様子に、役員の彼はため息を吐いた。

「…もう。ごめんなカリバン、若は妹さんがどうしても見たくて、ついアパートの前に行っちまったらしいんす」

「………。それが家の前にいた理由ですか?」

 やはりスレッタが目当てだったのだ。

 途端にきつい目つきになるエランに対して、役員の彼が慌てたように弁明してきた。

「別に若は手を出そうとしてた訳じゃないっすよ。若は女の人が大好きだけど、さすがに知り合いの身内に手を出したことはないっすから、今回だって…」

 ね?若、と役員の彼が言うと、黙っていた上役の男がようやく口を開いた。

「…この間、ナイトマーケットでカリバンを見たんだぁ。顔は見えなかったけど、女の子も一緒だった。その子がカリバンの言ってた妹なのか知りたくて」

「だからアパートを伺っていたと?非常識です」

「………っ」

 エランの固い口調で何かを確信したのか、上役の男は一度顔を上げてこちらの顔を見ると、次いで顔を俯かせてぼそりと呟いた。

「やっぱり、あれが噂の『妹』さんなんだぁ…」

「…だとしたら何ですか。何にせよ、彼女をあなたに会わせる義理はない。もう家には近づかないでください」

 続けてエランがぴしゃりと言うと、上役の男は一瞬泣きそうな顔をした。随分と甘やかされている様子なので、あまりキツイ言い回しをされたことがないのだろう。

 本来ならエランの立場ではまずい口の利き方かもしれないが、あと1週間もしないうちにやめる立場なのだ。構いやしないと思えた。

「別に…」

 男が口を開く。

「べ、別に俺は、会ったこともない女の子に懸想するほど暇じゃないんだ。ただ隠されたら余計見たくなるだろぉ?だから、昨日はたまたま近くにいたから、もしかして姿を見れるんじゃない?って思って行っただけ。そう、魔が差しただけ。ちょっと頑張って待ってみたけど、すごく、すごく暑かったしもう二度としない。こいつにもカリバンにも怒られるしさ~…、ほんとっ…やめときゃ、よかった……」

 最後のほうは涙声になっている。エランは白けた目で見ていたが、人のいい役員の彼は同情したようだった。彼は困ったように眉を下げつつも、一生懸命優しい声で、こちらにせめてもの義理を通させようとしている。

「若、ほら、謝るんでしょ?」

「ぐ、ぅ…、カリバン、家に行ったのは悪かったよぉ。もう君の嫌がる事はしないから、仲直りしようよ、ね?また一緒にご飯を食べよう?」

「………」

 仲直りするほどの関係が僕らの間にあったのか、と言おうとしたが、さすがに大人気ないと思ったエランは何も言わなかった。

 ただ頷いて、「もう家には近づかないと約束してくれるなら」とだけ伝えた。

 上役の男はほっとしたようだが、エランの心は冷めていた。

 こいつは何にせよ、スレッタ・マーキュリーに近づこうとしたのだ。もしかしたらそのまま手を伸ばすつもりだったのかもしれない。興味本位だろうが何だろうが、到底許せることではなかった。

 お人よしの役員の彼に守られているせいか、この男は物事を甘く見ている節がある。口では調子よく謝っているが、いつまたスレッタに興味が向くか分かったものではない。

 エランは怒っていた。

 だからこの男に対して、必要以上に敵対的な態度を取っていた。



「おい、その顔はなんだ」

 次の日、クーフェイ老と会った途端に言われた言葉がこれだった。

「顔、ですか?」

「昨日ので晴れてるかと思えば、酷くなってるぞ」

「?はぁ…」

 一瞬顔料が取れてしまったのかと思ったが、特にそういう訳でもないらしい。首を傾げていると、老人は呆れたようにため息を吐いた。

「みみっちく頑なになってねぇで、もっと周りに目をやりやがれ。このガキ」

「………」

 珍しい事に何かの忠告のようだった。怒ってばかりの老人に言われることだろうかと一瞬思ったが、人生の先達の言葉なので、ありがたく拝聴しておくことにする。

 エランは老人の言葉に頷くと、未だに何のために教わっているのか分からないアナログ機械を動かし始めた。

 樹脂をくり抜きながらも、クーフェイ老くらいに年を取ると、他人の荒れた心も一目見て分かるようになるのだろうかと、そんなことを考えていた。


 その日は食堂には行かなかった。次の日も、その次の日も食堂には行かなかった。

 頑なになるなと言われたばかりだが、昨日の今日で上役の男に会いたくなかったのだ。クーフェイ老も何も言っては来なかった。

 昼食は朝に買ってきた出来合いのモノを休憩スペースで食べることにした。あの男が食堂に来ていたかどうかはどうでもいいと思えたが、それに付き合うだろう役員の彼へは少しの申し訳なさがあった。

 男がアパートの前に来た日から、監視カメラの映像は今までよりも時間を掛けて確認するようにしている。今のところはあの男の姿はないが、スレッタを外に連れ出すのも憚られて、彼女はもうずっと家に閉じ込められたままだった。

 最近のスレッタは目に見えて気が塞いでしまっている。

 どうにかしてやりたいが、外に出て万が一にでもあの男に目を付けられたらと思うと、どうしても躊躇してしまうのだ。

 それに加えて、コントロールが利かない自分の性衝動にもイライラしていた。

 できるだけ以前と態度が変わらないようにスレッタと接するべきなのに、滲み出る自身の下心を彼女に知られたらと思うと怖かった。それが原因で嫌われたり、軽蔑されたくはなかったのだ。

 本来なら彼女に嫌われるのが当然の犯罪者のくせに、随分と贅沢なことだと思う。

 結果として彼女との日々のやりとりは最低限になり、外へ行こうと誘うこともできない有様になっていた。

 外の懸念と、内の懸念、今や2つの原因により彼女はアパートに閉じ込められている。せめて片方だけでも解決して、彼女を外に連れ出してやりたい。

「………」

 エランはため息を一つ吐いて、次の日には久々の食堂に行くことにした。


「か、か、カリバンッ!、こっちだ、こっちッ」

 食堂に行くと、待ち構えていたように上役の男が声を掛けてきた。正直気が向かないが、申し訳なさそうな面持ちをしている役員の彼がいる手前、無視をするわけにもいかなかった。

 エランは数日ぶりに会った調理員の女性に挨拶しながらも、ほどほどに盛ってもらった昼食を持って男のほうに近づいて行った。

「お久しぶりです」

「あ、あぁー…、ひ、久しぶり。今までどうしてたんだ。珍しく、その、食堂に来なかったみたいじゃないかぁ」

「少し用事があって、休憩スペースで食事をとっていたんです」

「そ、そうなんだぁ…」

「………」

「………」

 元々エランは口数が多い方ではない。男の方もそうなのか、二人だけだとすぐ無言になる。

「カリバン、来てくれて嬉しいっす。この間は本当に悪いことしたっすね。家族はあの後大丈夫だったんすか?」

 間を持たせるように、役員の彼が声を掛けてきた。エランが嫌がるからか、『妹』という単語を出さずに気遣ってくれる。

「大丈夫です。ありがとうございます」

「今度お詫びのしるしに何か持ってくるっす」

「お気遣いなく」

 大袈裟にするつもりはなかったので、この話題はこれくらいにしておく。

 その間もエランは注意深く男の方を見ていたが、特に妹の話に興味はなかったのかつまらなそうにサラダを突いていた。

 エランは男の様子に少しだけ肩の力を抜く。

 家の前にいたのは本当に、興味本位の気まぐれだったようだ。それも甲斐甲斐しく世話をしてくれる人に怒られたので、さすがに懲りたのだろう。

 気が楽になったエランは、ちょうどいいので改めて挨拶をすることにした。この妙な関係に区切りを付けたかったのもある。

「思えば色々とお世話になりました。あと少しの間ですが、よろしくお願いします」

「───え?」

「あ」

 エランの言葉に二人の男がそれぞれ声を上げた。ビックリしたような顔をしている。

「カリバン、仕事辞めちゃうの…?」

「はい、最初からそういう契約でした」

「う、嘘だぁ。だって、カリバンは貴重なモビルクラフトの操縦者じゃないかぁ」

「それは臨時の仕事です。本来は単なるライン工で、それも欠けた人員の穴埋めです」

 言いながら、失敗したなとエランは思った。

 たぶん男はエランが仕事を辞めることを聞かされていなかった。

 ゴネるのが分かっていたから、役員の彼はエランが辞めることをわざと伝えていなかったのだろう。

 気遣いを無駄にしてしまったと申し訳ない気持ちで見ると、彼は冷汗をかいて焦っているようだった。その様子にさらに申し訳なさが募ってくる。

「い、いつ、いつ辞めるの?来月?再来月?」

「……今月末です。もうそういう契約になっているので、覆ることはありません」

「うそ…」

「噓ではありません。色々とありましたが、勉強にはなりました。今後はあまり会う事もないかと思いますが、お元気で」

 もう面倒くさくなったエランは、最後に別れの挨拶を告げてそれきり口を閉じた。

 一緒に昼食を取る約束は果たした。だからもういいだろうと、エランはこれを最後に食堂での昼食は取らないことにした。

 上役の男が特にペイルとも関係なく、本当に興味本位の気まぐれでスレッタに近づこうとしていたと分かり、ある意味安心していたのだ。

 男のおどおどした態度もその判断を後押しした。侮ってもいい相手だと、エランは無意識に決めつけてしまっていた。

 クーフェイ老に忠告を受けていたのに、この時の自分は周りを見ることを止めてしまっていたのだ。


 その日の午後に、男はエランの元へとやって来た。

 初めは拙い言葉で引き留めようとしていたが、エランが頑として頷かないと知ると、すぐにエランの次の行き先を聞き出そうとしてきた。

 抜け出したことに気付いた役員の彼が連れ戻しに来なければ、そのままずるずるとそばに居続けていたかもしれない。

 ここに来て、自分は相当気に入られていたのだと自覚することになった。けれどそれを知ってもプラス方面に心が動くことはない。

 むしろ男の目の奥に自分に対する欲望が見え隠れするのを見て、ひどく怖気が走っていた。騒がしく纏わりつこうとする男に苛立ちすら覚えてしまう。

「おう、若が騒いでいたようだな」

「クーフェイさん」

 逆に大人しくなったのはクーフェイ老だ。

 難しい顔をしてこちらを見てくるが、あれだけポンポンと飛び出していた小言が近頃はまったく聞けなくなった。

「最近口数が少ないですけど、どうかしたんですか?」

「どうしたもこうしたも…。もう成るようにしかならん。ここまで来たらどうにもできん」

 そんな不思議なことを言いつつも、小言自体は健在のようで上役の男に何かを言うこともあるようだった。…大抵は逃げられていたが。


 そうして更に次の日、やはり上役の男が邪魔をしに来た。あれから散々に怒られたのか、昨日よりは大人しい様子だった。

「……ねぇ、カリバン。やっぱり最後に妹さんに会わせてよ」

 けれど、次に出てきたその言葉に、まだ諦めていなかったのかとエランは驚いた。

「カリバンが俺を嫌いなのはもう分かってる。でも、だからこそ、妹さんに一度会ってみたい。一目見るだけでもいい。俺が見たことが本当だったか、それだけでも確かめたいんだ…」

 具体的な理由を何も言わず、訳の分からないことを喋っている。

「ねぇ、カリバン。お願いだよ…」

 兄が駄目なら妹を。エランの耳にはそういう軽薄な言葉に聞こえていた。

 だから。

「お断りします」

 やはり自分はそう言うしかなかった。

「───そっか」

 ぽつりと呟いた声は、何かがぽっきりと折れたように頼りないものだった。

 そうして役員の彼の迎えがないままに、男は静かに帰って行った。

 その力ない様子を見て、エランは安堵を覚えていた。ようやく諦めてくれた、そう思ったからだ。

 久々の外出へとスレッタを誘ったのは、その日の夜のことだった。



「カリバン、今日で仕事が終わりっすね。もしかしたら午後は会いに来れないかもしれないから、コレご家族と食べて……って、どうしたんすか?」

 スレッタと外出した次の日、エランは憔悴したまま最後の仕事に行き、昼前の空いた時間に来てくれた役員の彼に驚かれていた。

「菓子折りありがとうございます。大事に食べさせてもらいます。…あの、そんなに元気がないように見えますか?」

「うん、何となくっすけど。若と話してる時のイライラしてる感じでもないし、しょぼんとしてるように見えるっていうか」

 エランは彼の言葉に目をぱちりと瞬かせ、ごくわずか、ほんの少しだけ口角を上げた。

「喧嘩じゃないんですけど、昨日、ちょっとした意見の相違があったんです」

「ご家族さんと…?」

「そうです」

 頷きながら、エランは昨日のことを思い出していた。


 久々に手を繋ぎ、外出をしたスレッタは嬉しそうにしていた。途中までは本当に、一点の曇りもなくナイトマーケットを楽しんでいた。

 途中で上役の話もしたが、それは単純にスレッタが外に連れ出されなかった理由を聞きたがったからであり、エランにとってはすでに終わっている話だった。

 空気が変わったのは、スレッタが唐突にあるアイディアを口に出してからだ。

 ───本当の家族になりましょう。お嫁さんと旦那さんという形で、本当の家族になるんです。

 それはエランにとって夢のように都合がいい、まさしく悪夢のような提案だった。

 スレッタはエランとは違いとても頭の良い人だ。先の事をきちんと考え、実現可能なものからコツコツと積み上げていく堅実さがある。

 だからその提案は、できることが限られている彼女にとっての、精一杯の未来のプランなのだとすぐに分かった。

 そのことに思い当たった瞬間、エランは自分が恐ろしくなった。

 まるで彼女を罠にかけたようだと思ったからだ。

 彼女を閉じ込め、袋小路に追い込んで。その奥にほんの少しの抜け道を作り、自ら飛び込んできた彼女を捕まえる。…わざとではないが、結果的にそうなっている。

 エランの気分次第で、スレッタが選んだのだからという大義名分のもとに、それしか選べなかった彼女を好き放題することもできる。まるで悪魔のような所業だった。

 書類上だけでも関係が出来てしまえば、いつかは誘惑に負けて彼女に無理強いをする日がきっと来る。今は可能性でしかないが、エランにはいつか迎える確定した未来のように感じられた。

 だからその申し出は受け入れられないときっぱりと拒否をした。自分の欲望から彼女を守るためには仕方がなかった。

 …けれど彼女は泣いていた。

 スレッタの近くにはエランしかいないのに、そうなるように仕掛けたのは自分なのに、彼女のすがる手を拒否して───泣かせてしまったのだ。

 でも、どうすればよかったんだろう。

「彼女のことを幸せにして、守ってあげたいのに、上手くいかないんです…」

 エランは珍しく弱音を吐いた。なんとなく、お人よしの彼になら聞かせてもいいかと思ったのだ。

「反抗期とかっすか?やっぱりお兄ちゃんって、大変なんすねー…」

 少し的外れな、けれど本気で言っていると分かる彼の言葉に、エランは今度こそくすりと笑った。

「あなただって、大変でしょう。血縁者ではないけれど、毎日世話をしてるじゃないですか」

「あ、若?それ若のことっすね?へへ、まぁ大変っす。でも仕方ないっす」

「子供の頃からの付き合いとか」

「そうっすね。オレは本来なら若の兄貴の補佐になるような年なんすけど、兄貴の方とはソリが合わなかったんすよ。でも弟の若とは気が合ったから、そっちと遊んでたらいつの間にか付き人みたいになってましたね」

「嫌にはならないんですか?」

「そりゃね、たまにぶん殴りたくもなるけど、たぶん若もオレのことそう思ってるだろうけど。でもやっぱり、可愛いんすよねぇ」

 変な意味じゃないっすよ!と言う彼の言葉を聞きながら、エランは年上の従兄のことを思い出していた。記憶の中の〇〇兄も、いつもこんな風に優しくしてくれていた。

 何の解決もしていないのに、彼と話していると気が楽になってくる。ついでにあれだけ嫌っていた上役の男のことも、少しは許していい気になってくる。

「………」

 手の中の菓子折りを見る。女の子が好きそうな、甘そうで可愛らしいお菓子だった。

 スレッタにこれを渡して、心配して優しくしてくれた役員の彼のことを話して。そうしたら、少しは元気になってくれるだろうか…。

「あの…」

 エランが彼にお礼と、ついでに上役の男に冷たくして申し訳なかったと謝ろうとしていると、遠目にクーフェイ老の姿が見えた。

 老人はこちらを一目見ると、何故かすごい勢いで向かってくる。走るのは禁止されている工場内なので、エランは面食らった。

「おいッお前!それはどうした!」

「わッ、ビックリした!何!クーフェイ爺さんっすか?」

「…どうしたんですかクーフェイさん。『それ』とはどういう意味ですか?」

「いや、待て、待て…。この雲は違う。違うはずだ。原因はなんだ…?どうにかなるか…?」

 老人はこちらを見ながらも目の焦点が合っていないように見える。さらにぶつぶつと呟いている様子に、役員の彼と顔を見合わせた。

 もしかして、とうとうボケてしまったのだろうか。…そんな失礼なことを考えていると。

「おい、若はどこにいる!?」

 急にいつもの調子に戻ったクーフェイ老が、突然役員の彼に掴みかかっていた。

「ええぇ!?何すか急に!え、若っすか!?」

「そうだ、若だ!今すぐ連絡を取れ!」

 訳が分からないっす!と言いながら役員の彼が端末を取り出す。

 その姿を見ること無く、クーフェイ老は今度はこちらに矛先を向けて来た。

「おい!新入り!仕事なんぞどうでもいい!今すぐ家に帰ってやれ!今すぐだ!」

 その切羽詰まった様子、言われた内容に、エランは急速に焦燥感が湧いてくるのを感じていた。

「若が電話に出ないっす。ちょっと早いけど、家に行って来る。カリバンも早引けできるよう手配しとくっすよ」

 彼も異様な雰囲気を感じたのか、即座にクーフェイ老に従う姿勢を見せた。それに後押しされて、エランは荷物を手に取るとすぐに工場を出た。

 途中で端末を取り出し、早足で移動しながらスレッタに連絡をする。

 長い長いコール。

 けれど彼女は出てくれない。


 コール音に急き立てられるように、いつの間にかエランは走って家へと向かっていた。






共感と死


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