普連土学園中学校・高等学校
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| 普連土学園中学校・高等学校 | |
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| 北緯35度38分46.8秒 東経139度44分27.9秒 / 北緯35.646333度 東経139.741083度座標: 北緯35度38分46.8秒 東経139度44分27.9秒 / 北緯35.646333度 東経139.741083度 | |
| 国公私立の別 | 私立学校 |
| 設置者 | 学校法人普連土学園 |
| 設立年月日 | 1887年 |
| 共学・別学 | 女子校 |
| 中高一貫教育 | 完全一貫制 |
| 課程 | 全日制課程 |
| 単位制・学年制 | 学年制 |
| 設置学科 | 普通科 |
| 学期 | 2学期制 |
| 学校コード | C113310300106 (中学校) D113310300113 (高等学校) |
| 高校コード | 13536E |
| 所在地 | 〒108-0073 東京都港区三田4-14-16 |
| 外部リンク | 公式ウェブサイト |
普連土学園中学校・高等学校(ふれんどがくえん ちゅうがっこう・こうとうがっこう、Friends School)は、東京都港区三田に所在し、中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校。
高等学校において、生徒を募集しない完全中高一貫校。
概要
1885年にフレンド派布教のために宣教師ジョセフ・コサンドが来日し、当時アメリカ合衆国に留学中だった内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのキリスト友会(クエーカー、フレンド派)の婦人伝道会が女子教育を目的として日本での学校創設を決め、コサンド宣教師を責任者に1887年(明治20年)にフレンド女学校として開校した。現在でも日本国唯一のキリスト友会の教育機関である。校名の「普連土」[注 1]の当て字は、津田仙(津田塾大学の創立者津田梅子の父)が、「普(あまね)く世界の土地に連なる」、転じて「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いから命名したとされる。2021年現在の学校長は青木直人である。教育理念の核として、クエーカーの言葉である内なる光と神の種子を掲げている。
1968年に建てられた中等部校舎は建築家大江宏の代表作として知られ、2003年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれた。また、東京都選定歴史的建造物にも選ばれている[1]。
沿革
- 1882年(明治15年) - 米国フィラデルフィア市の友会派(クエーカー)により「友會婦人外國傳道協會」を設立。
- 1885年(明治18年) - 新渡戸稲造と内村鑑三の助言により日本での学校設立を決定し、コサンド夫妻を派遣。
- 1887年(明治20年) - フレンド女学校開校。12月初代校長海部忠蔵就任(~1911年退任)。
- 1889年(明治22年) - 三田功運町聖坂上(現所在地)に新校舎落成。津田仙により「普連土女学校」と命名される。
- 1900年(明治33年) - フレンド派から離脱したコリンズに代わり、宣教師ギルバート・ボールズが来日し理事長職を務める[2]。
- 1902年(明治35年) - 失火により校舎焼失。
- 1903年(明治36年) - 授業再開、新校舎落成。
- 1923年(大正12年) - 後援会発足。
- 1928年(昭和3年) - 校旗・校服(セーラー)制定。
- 1943年(昭和18年) - 校内モンペ着用、戦時中の敵性語規制に伴い「聖友女学校」に改名[3]。
- 1944年(昭和19年) - 学徒動員令、学校工場開設。
- 1945年(昭和20年) - 空襲により校舎全焼。
- 1946年(昭和21年) - 9月授業再開。
- 1947年(昭和22年) - 給食復活、学制改革により新制中学校開設。「普連土女学校」の旧名に復帰。
- 1948年(昭和23年) - 新制普連土学園高等学校を開設、第一期校舎落成。
- 1951年(昭和26年) - 学校法人に組織変更、二期制を採用。
- 2006年(平成18年) - 新校舎完成。
ギルバート・ボールズ
初代校長で伝道責任者のジョセフ・コサンドに代わって2代目となった宣教師ギルバート・ボールズ(Gilbert Bowles, 1869-1960)は、アイオワ州の農家でクエーカー教徒の一家に生まれ、教員養成学校やフレンド派学校を経て教師となり、その後クエーカー教徒でアメリカ平和協会(en:American Peace Society)員(のち会長)のベンジャミン・ツルーブラッド(en:Benjamin Franklin Trueblood)の講演に感化され、彼が学長を務めていたウィリアム・ペン・カレッジ(en:William Pen College)に入学、シカゴ大学で博士号を取得後、すでに東京のフレンド女学校で働いていた妻ミニー(1868-1958)と1898年に結婚し、1900年に一家で日本に派遣された[4]。伝道活動とともに、1906年に大日本平和協会、1910年に在日アメリカ平和協会と二つの平和団体設立に関わったほか、排日移民法反対の一助として1915年に日本の国籍法に関する英文解説書を出版[2]。1941年にハワイに転居し、第二次大戦後は日系人の強制収容被害者を慰問するなどした[4]。
ミニーとの間に4人の子を儲け、二男のゴードン・ボールズ(Gordon Townsend Bowles、1904-1991)は、アーラム・カレッジ(en:Earlham College)、ハーバード大学で学んで人類学博士となり、ハワイのビショップ博物館での遺骨分析でグッゲンハイム奨励金を受け、米国国務省極東局勤務を経てシラキュース大学の人類学教授となった[4]。
校歌
作詞・室生犀星 作曲・川村信義
1. 春秋すぎてまたかへる
学びの庭の日のひかり
夏冬きたり去りゆけば
学べるひとは育ちゆく
2. 主のみこころに添いゆかば
学べる胸も清まらん
正しき道をゆくときの
ひとの瞳のうつくしき
3. わが学園に咲く花は
甍のうえの月のごと
匂いは永遠(とわ)に充ちゆきて
ひかりあふるる希望(のぞみ)なれ
制服(校服)
交通
出典 : [5]
- 電車
| 路線名 | 最寄り駅 | 出口 | 徒歩所要時間 |
|---|---|---|---|
| 都営地下鉄三田線 | 三田駅 | A3 | 7分 |
| 白金高輪駅 | 2番 | 10分 |
- バス
| 運行事業者 | 乗車駅 | 系統・ルート | 下車停留所 |
|---|---|---|---|
| フジエクスプレス | 品川駅 | 高輪ルート | 「三田三丁目」、徒歩1分 |
| 都営バス | 渋谷駅 | 田87 | 「三田五丁目」、徒歩1分 |
| 東急バス | 東京駅南口 | 東98 |
主な卒業生
- 佐藤千夜子(歌手)
- 酒井チエ(詩人、作詞家)
- 倉野麻里(テレビ東京アナウンサー)
- 新珠三千代(女優)
- 森周子(社会政策学者、高崎経済大学教授)
- 難波康子(登山家)
- 保木本由起(声優)
- 遠藤玲子(フジテレビアナウンサー)※一時在籍
- 小林麻美(元女優、歌手、モデル)
- 三ツ橋敬子(指揮者)
- 坂崎千春(絵本作家)
- 近藤麻理恵(片づけコンサルタント)
- 高橋怜奈(医師、プロボクサー)
- 坂本真由美(ピアニスト)※中等部卒業
- 宮沢明子(ピアニスト)
- 長田育恵(劇作家)
脚注および参照
- 注釈
- ^ 旧制時代は「晉聯土學園(女學校)」と表記。
- 出典
- ^ “東京都選定歴史的建造物詳細 81~90 | 東京都都市整備局”. www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp. 2021年9月18日閲覧。
- ^ a b ミッションボードと排日移民法戸田徹子、山梨県立女子短大紀要、38号、2005年
- ^ 『官報』 1943年3月22日
- ^ a b c Bowles family correspondence Tricollege Libraries
- ^ “アクセス”. 普連土学園中学校・高等学校. 2025年2月28日閲覧。
関連項目
外部リンク
固有名詞の分類
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