ガスパール・ディグレゴリオ
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ガスパール・ディグレゴリオ(Gaspar DiGregorio, 1905年 - 1970年6月11日)は、アメリカ合衆国のマフィアでボナンノ一家の古参メンバー。1965年、ニューヨーク五大ファミリーのトップ会議であるコミッションにより、ボスに据えられた。
来歴
シチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォ生まれ。1921年に渡米し、ブルックリンのウィリアムズバーグに住み、兄弟で酒の密輸を行っていた。1925年、シチリアから移住して間もないジョゼフ・ボナンノを密輸団に引き入れた。1930年、カステランマレーゼ戦争ではボナンノと共にサルヴァトーレ・マランツァーノの親衛隊となり、武装して酒の密輸トラックを護衛した。1932年のボナンノの結婚式ではベストマンとなり、ボナンノの息子のサルヴァトーレ(ビル・ボナンノ)の名づけ親だった。ステファノ・マガディーノの妹を妻にしていたが死に別れて再婚し2人目の妻との間に娘がいた。1929年、市民権を取得した。1934年、殺人容疑で逮捕されたが無罪放免された[1][2][3]。
1930年代前半、ボナンノがボスに就任すると、カポ(幹部)に昇進した。1940年代は、ブルックリンで衣料店を経営した。1957年、全米からマフィアが参集したアパラチン会議では、ジョン・ボンヴェントレと共に現地の地元警察に拘束された[2][3]。
1964年2月、ファミリーの相談役ジオヴァンニ・タルタメッラが病気で引退したため、ボナンノは息子のビルを相談役に据えた。ディグレゴリオはこの昇進人事に反発して、マガディーノに苦情を言いに行ったと伝えられた。縄張り問題でボナンノと冷戦状態になっていたマガディーノから、ボナンノに造反するようそそのかされ、ファミリーの会議を欠席するなどしたためファミリーを破門された。マガディーノはディグレゴリオを新ボスにすべくコミッションの根回しを始め、1965年2月までにコミッションにボスに任命された。本人は長年の病気のため気が進まず、1966年1月のビル・ボナンノ暗殺未遂事件を機にファミリーは2つに分裂して抗争したが(バナナ戦争)、事態を収拾することができないまま、1966年後半、ボスの座を配下のポール・シャッカに譲った。1967年秋、シャッカのボス承継がコミッションに認められた。1970年、心臓発作で死去した[1][2][4]。
生涯一度も有罪にならなかった。いつも目立たず、バナナ戦争で一躍時の人になったが、捜査当局は、彼を「スリーパー」と呼んでいた[3]。
出典
- ^ a b Gaspar DiGregorio (1905-1970)The American Mafia
- ^ a b c Bios. of early Bonanno members Mafia Membership Charts
- ^ a b c The Shoot-Out of Troutman Street: The Mafia At War GangsterInc, 18 February 2020
- ^ JOSEPH BONANNO Biography
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