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ハスティンとは? わかりやすく解説

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ハスティン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/27 09:45 UTC 版)

イタリア、ルナにおけるハスティン、約859年。『フランス通史』初版(1862年)、著者:シャルル・ラリュール

ハスティン古ノルド語: Hásteinn、Hastingus、Anstign、Haesten、Hæsten、Hæstenn、Hæstingとも記録され、別名Alsting)は、9世紀後半のヴァイキング首長であり、数度の略奪航海を行った。

日本では、クルセイダーキングスシリーズの登場キャラクターとしてでも有名である。

生涯

若年期

ハスティンの出自に出自については、ほとんど分かっていないが、アングロサクソン年代記では、ハスティンはデンマーク人だったと記されている。11世紀の年代記作者Raoul Glaberによれば、ハスティンは現在のフランスにあたるトロワ地方で生まれた可能性がある。しかし、この説は彼をデンマーク人とする諸資料と矛盾するようにみえる。

しかし、歴史家Michel Dillangeは、これらの見解は共存し得るとしている。その根拠として、800年頃、カール大帝ザクセン地方での反乱を防ぐため、多くのザクセン人デンマーク人フランスなどに移住させた。ハスティンは810年頃にこうした移住者の一家の生まれであり、後に自らの出自を知ってスカンディナヴィアに戻り、ヴァイキング首長として頭角を現したという可能性も考えられるためである。ハスティンは西フランク王国への数々の襲撃に関与したとされている。さらに、859年地中海への大規模な襲撃を指揮した。

イベリア半島と地中海沿岸地域への襲撃

859年から862年にかけて、ハスティンは盟友であった剛腕のビョルンと共同で遠征隊を率いた。62隻の艦隊ロワール川から出航し、地中海沿岸諸国を襲撃した。

当初、襲撃は順調に進まず、ハスティンはアストゥリアス人に敗北し、その後859年にはニエブラでコルドバの後ウマイヤ朝アミール国イスラム教徒にも敗れた。その後、アルヘシラス略奪モスクを焼き払い、さらに北アフリカ沿岸のイドリス朝を荒らし回った。続いてオリウエラバレアレス諸島ルシヨンへと後ウマイヤ朝への襲撃を拡大。ネコールについては、8日間占領した。

ロワール川へ戻る途中、彼は北アフリカに立ち寄り、そこで数人のアフリカ人奴隷を購入し、アイルランドで売却した。ハスティンの艦隊はで40隻を失ったと推定され、帰路のジブラルタル海峡ではさらに2隻をメディーナ=シドニアの近海で失ったが、それでもパンプローナを略奪した後、20隻でロワール川へ帰還した。

西フランク王国との対峙

住処であるブルターニュ地方に戻ったハスティンは、866年ブルターニュ王国と同盟を締結し、西フランク王国に対して対抗した。

ハスティンは、ヴァイキングブルターニュの連合軍の一員として、シャトーヌフ=シュル=サルト近郊のブリサルトの戦いロベール豪胆公を討った。867年にはブールジュを荒らし回り、翌年にはオルレアンも襲撃した。

ハスティンは882年までロワール地方に留まっていたが、ついに禿頭王シャルル2世によって追放され、部隊をセーヌ川沿いのピカルディに移した。そこでハスティンは、ピカルディの彼の領土が脅かされるまで滞在した。

イングランドへの襲撃

ハスティンは892年、二つの軍団のうちの一つを率いてブローニュからイングランドに渡った。彼の軍勢は二つの軍団のうち小規模な方で、80隻の船で上陸し、ケントの一部を占領した。もう一つの軍団は、250隻の船で同じくケント占領した。ウェセックス王アルフレッド大王は両軍が合流するのを防ぐためウェセックス軍を二つの軍団の間に配置した。ハスティンは劣勢を感じてハスティンは二人の息子洗礼させることを含む和平に合意し、ケントを離れてエセックスへ向かった。もう一つの軍団は893年春の終わりにハンプシャーバークシャー襲撃した後、ハスティンの軍団との合流を試みたが、アルフレッド王の息子エドワード率いる軍に敗北した。生存者は最終的にエセックス州南東でハステイン軍に合流した。

その結果、ハスティンは二つの軍勢を統合し、エセックスにある要塞化された陣営へ撤退させた。彼はこの陣営を拠点としてマーシアへの襲撃を行った。しかし、主力部隊が遠征中に、東ウェセックスの民兵部隊要塞を攻撃し、守備隊を撃破した。要塞は陥落し、ハスティンの息子たちを含む家族はが捕らえられた。艦隊拿捕された。ハステインは新たな要塞をエセックス州東部に築き、軍勢を再編成すると、イースト・アングリア王国デンマーク王国というデンマーク人国家から増援を要請した。その後間もなく、『アングロ・サクソン年代記』によれば、ハスティンはアルフレッドと会談した。おそらく家族の解放を協議するためであったと考えられている。 ハスティンは二人の息子を返還された。アングロ・サクソン年代記によれば、これはヘイステインの息子たちが893年初頭に洗礼を受けたからである。

しかし、交渉はほとんど成果を上げなかった。その直後、ハスティンはテムズ川流域からセヴァーン川沿いに再び襲撃を開始したからだ。ハスティンはウェールズの諸王国からの援軍で増強されたマーシアウェセックスの連合軍に追撃され続けた。やがてはハスティンの軍勢はバティントンと呼ばれる地で包囲された。数週間後に続くバティントンの戦いでは、ハスティンの軍勢は多くの犠牲を出しながらも突破し、自軍の要塞へ撤退した。

年代記によれば、数週間が過ぎた後異教徒(ハスティンの軍団)の一部は飢えで死んだが、その頃までに馬を食べ尽くした者たちは要塞を突破し、川の東岸にいた者たちと戦いを交えた。しかし、何千もの異教徒が倒され、残る者もすべて敗走したとき、キリスト教徒(イングランド軍)は死の地の支配者となった。その戦いで高貴なるオルデアと王の廷臣の多くが戦死した。893年半ば、ハスティンの軍勢は陣営をイースト・アングリアからチェスターの廃墟となったローマ帝国が築いた要塞へと移した。ハスティンは要塞を再建し、北部マーシアへの襲撃拠点とする計画を立てていたようだ。しかしマーシア王国たちは別の策を講じた。要塞包囲し、周辺地域から家畜を撤去・回収し作物を破壊することで、ハスティンの一行を飢えさせ追い出そうとしたのである。

893年後半、包囲された軍はチェスターを離れ、南ウェールズへ進軍し、数ヶ月にわたり、南ウェールズのいくつかの王国に襲撃を行った。894年半ば、彼らはおそらく海路で去った。チェスター地域へ戻った後、ノーサンブリアイースト・アングリアといったデンマーク人勢力の拠点を含む迂回ルートを経て、マーシー島にある要塞へ到達したからである。

894年後半、南東イングランドへ移動したハスティンの軍は、テムズ川を遡ってリー川に築いたまで船を牽引した。しかし895年半ば、アルフレッド率いるウェセックス王国軍が到着し、リー川の両岸に二つのを築いてテムズ川と海へのハスティンの進路を遮断した。ハステインの軍は陣営を放棄し、家族をイースト・アングリアへと避難させた後、敵対勢力の追撃を受けながらウェスト・ミッドランズを横断し、セヴァーン川沿いの地へ再び行軍した。彼らは896年初頭から中頃までそこに留まったが、やがてハスティンの軍は解散した。元兵士たちはイースト・アングリアノーサンブリアへ撤退したが、『アングロ・サクソン年代記』によれば、無一文の者たちは船を調達し、セーヌ川経由でアウストラシア地方への略奪に乗り出したという。

彼の遺産

ハスティンは896年頃に歴史から姿を消した。当時すでに老齢で、数年前にイングランドに到着した際には「ロワールとソンムの精力的な恐るべき老戦士」と評されていた。彼は史上最も悪名高く成功したヴァイキングの一人であり、ヨーロッパと北アフリカの多くの王国にまたがる数十の都市を襲撃した。

彼はキリスト教世界の多くの人物から非常に恐れられており、ある批判的な修道士はこのように述べている。

この男は呪われた人物だった。凶暴で、非常に残酷で、野蛮で、有害で、敵対的で、陰険で、好戦的で、暴虐で、信頼できなく、横柄で、気まぐれな、無法者だった。死をもたらす、粗野で、策略に長け、戦争屋で、裏切り者で、悪の扇動者で、そして根っからの偽善者で...

聖クエンティンのドゥードゥ。Gesta Normannorum(ノルマン人の偉業)。第1巻・第3章。

彼は、一時的にチャンネル諸島を支配したヤール・ヘイスティングと同一人物と見なされている。

脚注

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