サトラップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/12 08:12 UTC 版)
サトラップ(英語: satrap)は、メディア王国、アケメネス朝ペルシア帝国、そしてその後継国家などに存在した州の総督である。総督、太守、知事などと訳される。
現代では、サトラップという用語は覇権国に事実上従属する支配者を指すために比喩的かつ軽蔑的に用いられることがある。
語源
サトラップという語は、ギリシア語のサトラペース(ギリシア語: σατράπης satrápēs)に由来し、これはさらにメディア語のフシャスラパー(ワン)(メディア語: *xšaθrapā(van-)<xšaθra-(王権、王国)+pā(守る者)+-van-(接尾辞) 「王権、王国の守護者」)に由来する[1]。これの古代ペルシア語形はフシャサパーワン(古代ペルシア語: xšaçapāvan-)である。パルティア語ではフシャスラプ/シャフラブ(パルティア語: xšaθrap/šahrab)、中期ペルシア語ではシャサブ/シャフラブ(中期ペルシア語: šasab/šahrab)、ペルシア語ではサートラープ(ペルシア語: ساتراپ sātrāp)またはシャフラブ(ペルシア語: شهرب šahrab)またはシャフルバーン(ペルシア語: شهربان šahrbān 「都市の守護者」)という。インドではクシャトラパ(サンスクリット: क्षत्रप kṣatrapa)という。タナハ(旧約聖書)のエステル書(3:12・8:9・9:3)、エズラ書(8:36)、ダニエル書(3:2・3:3・3:27・6:1・6:2・6:3、最も一般的)などでは、サトラップという用語がアハシュダルパン(ヘブライ語: אֲחַשְׁדַּרְפָּן aḥašdarpán)として現れる。
サトラップが支配する領域のことをサトラピー(英語: satrapy、サトラッピともいう)またはサトラペイア(ギリシア語: σατραπεία satrapeía サトラペイアー 「サトラップの領域」)という。しかし、古代ペルシア語ではサトラペイアに相当する語は見当たらず、帝国の構成単位としてダフユ(古代ペルシア語: dahyu- 「国、邦」)という語が用いられている。ペルシア王はそれらの諸邦を統治する諸邦の王でもあった。ダフユという語はデ(ペルシア語: ده deh 「村」)に発展した。サトラペイアは州、属州、太守領、行政区、徴税区などと訳される。
歴史
メディア王国とペルシア帝国
サトラップ制度の最初の大規模な運用は、紀元前530年頃のキュロス2世によるアケメネス朝ペルシア帝国の成立期にまで遡るが、この制度の起源は少なくとも紀元前648年のメディア時代にまで遡る。
キュロスによるメディア征服の時代まで、メディア王は征服した地を従属王や総督を通して統治していた。メディア王国とペルシア帝国の主な違いとしては、ペルシア文化において王権が神性と不可分、つまり王権は神により与えられたものであったことがある。キュロスに任命された20人のサトラップは、決して王ではなく、王の名において支配する副王であった。しかし、現実の政治においては多くのサトラップが自らの独立した権力基盤を築くためにあらゆる機会に付け入った。ダレイオス1世は実質的なサトラップ制度を確立し、その数を23に増やし、年間の貢納額を定めた(ベヒストゥン碑文)。
サトラップは行政官として支配する地域を管理した。これは一族や代々の家臣が支えていた。サトラップは税を徴収し、地方の役人や従属部族や都市を統制した。加えて司法権も委ねられ、民事・刑事上のあらゆる問題を裁いた(ネヘミヤ記3:7)。また、治安維持についても責任を負うため、サトラップは交通網を確保し、盗賊や反逆者に対処せねばならなかった。
サトラップはペルシア人の評議会の補佐を受けており、評議会はサトラップと政策上の意見を交換したり、請願を行うことができた。この評議会は地方の住民の参加が認められており、王直属の書記官や密偵(王の耳)、特に毎年調査を行って恒久的な統制をもたらす監察官(王の目)によって統制されていた。
各サトラップの権力には更なる抑制策が設けられていた。書記官に加え、主席財務官(古代ペルシア語: ganzabara ガンザバラ)、州と要塞の正規軍を管理する将軍はサトラップから独立しており、直接王に定期報告を行っていた。サトラップは自らの軍隊を所有することが認められていた。
大きなサトラペイア(州)はしばしばより小さな管区に分割された。その長官はサトラップともヒュパルコス(ギリシア語: ὕπαρχος hýparkhos 「副統治者」)とも呼ばれた(ギリシア・ローマの著述家による)。大きなサトラペイアのサトラップは繰り返し交代させられ、しばしば2つのサトラペイアが同一人物に与えられた。
サトラペイアは度重なる征服の結果であったため(本拠地は特別な地位を持ち、州の義務である貢納を免除されていた)、主要サトラペイアと下位サトラペイアは共にかつての国家や民族・宗教アイデンティティによって定義されることが多かった。ペルシア帝国の成功の鍵の一つは、征服した人々の文化と宗教に対する開放的な姿勢であった。そのため、王がすべての臣民の要素を融合させて新たな帝国様式を築こうとした際、特に首都ペルセポリスにおいてペルシア文化は最も大きな影響を受けた。
帝国中央の権威が衰えると、サトラップはしばしば実質的な独立を享受した。これは、特に当初の規則に反してサトラップを軍管区の総司令官に任命することが慣例となったために起こった。そして、サトラップ職が世襲となったことで、中央の権威に対するサトラップの脅威は無視できなくなった。サトラップの反乱は紀元前5世紀半ばから頻発するようになった。ダレイオス1世は多くのサトラップの反乱の鎮圧に明け暮れ、アルタクセルクセス2世の治世下でも帝国西方で時折公然とした反乱が起こった(サトラップ大反乱)。最後の大規模な反乱はアルタクセルクセス3世によって鎮圧された。
ヘレニズム時代
サトラップの制度と名称は、ペルシア帝国を征服したアレクサンドロス大王によって維持された。そしてその後継者であり帝国を分割したディアドコイとその王朝、特にセレウコス朝もまたそれを受け継いだ。セレウコス朝では、サトラップは一般にストラテーゴス(将軍)として位置づけられたが、その管轄領域はペルシア時代に比べてはるかに小規模であった。これらサトラップの多くは後続の帝国、特にローマ帝国によってほとんどその地位を失った。
パルティア帝国とサーサーン朝
パルティア帝国は、大きな所領を持つ大貴族の上に王が君臨し、貴族たちの寄り合いの要素が強い帝国であった。七大貴族と呼ばれる七氏族が存在し、貴族は兵役と貢納の義務を王に負っていた。都市は自治を認められ王に一定の貢納をしていた。サーサーン朝はパルティア帝国よりかなり中央集権的だった。パルティア時代の従属王国と自治都市は王の都市すなわち直轄都市に置き換えられた。王に派遣された直轄都市の官吏は軍事的要衝に駐屯する守備隊と同じくシャフラブ(サトラップ)と呼ばれた。シャフラブは所在する都市だけでなくその周辺の地域も支配した。
インド
インドに存在したサカ人の支配者たちは、2つの地域(サウラーシュトラとマールワー、パンジャーブとマトゥラー)でクシャトラパ(サトラップ)または大クシャトラパ(サンスクリット: mahākṣatrapa マハークシャトラパ)を称した(それぞれの支配者たちを西クシャトラパ、北クシャトラパと呼ぶ)。
- ^ “ACHAEMENID SATRAPIES” (英語). Encyclopaedia Iranica. 2026年1月5日閲覧。
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