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訓読万葉集 16
訓読万葉集 巻16 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―
巻第十六 ( とをまりむまきにあたるまき )
有由縁 ( よしあるうた ) 、また雑歌 ( くさぐさのうた )
昔娘子 ( をとめ ) 有りけり。字 ( な ) をば櫻兒 ( さくらのこ ) と曰ふ。時に二 ( ふたり ) の壮子 ( をとこ ) 有りて、共に此の娘 ( をとめ ) を誂 ( と ) ふ。生 ( いのち ) を捐 ( す ) てて格競 ( あらそ ) ひ、死を貪りて相敵 ( いど ) みたりき。ここに娘子、なげきけらく、「古 ( いにしへ ) よりこの方、一 ( ひとり ) の女 ( をみな ) の身、二 ( ふたり ) の門 ( をとこのいへ ) に往適 ( ゆ ) くといふことを聞かず。方今 ( いま ) 、壮子の意 ( こころ ) 、和平 ( にき ) び難し。妾 ( あれ ) 死 ( みまか ) りて相害 ( あらそ ) ふこと永 ( ひたぶる ) に息 ( や ) めなむには如かじ」といひて、すなはち林に尋入 ( い ) りて、樹に懸 ( さ ) がり経 ( わた ) き死にき。両 ( ふたり ) の壮子、哀慟血泣 ( かなしみ ) に敢 ( た ) へず、各 ( おのもおのも ) 心緒 ( おもひ ) を陳べてよめる歌二首 ( ふたつ )
3786 春さらば挿頭 ( かざし ) にせむと吾 ( あ ) が思 ( も ) ひし桜の花は散りにけるかも
3787 妹が名に懸かせる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに
或ひとの曰く、昔三 ( みたり ) の男 ( をとこ ) 有りて、同 ( とも ) に一 ( ひとり ) の女 ( をみな ) を娉 ( つまど ) ひき。娘子 ( をとめ ) 字 ( な ) をば縵兒 ( かづらのこ ) と曰ふ* 嘆息 ( なげ ) きけらく、「一 ( ひとり ) の女の身、滅 ( け ) 易きこと露の如し。三 ( みたり ) の雄 ( をとこ ) の志 ( こころ ) 、平 ( にき ) び難きこと石 ( いは ) の如し」。すなはち池の上 ( ほとり ) に彷徨 ( たちもとほ ) り、水底に沈没 ( しづ ) みき。時に壮士 ( をとこ ) 等、哀頽之至 ( かなしみ ) に勝 ( た ) へず、各 ( おのもおのも ) 所心 ( おもひ ) を陳べてよめる歌三首 ( みつ )
3788 耳成 ( みみなし ) の池し恨めし我妹子 ( わぎもこ ) が来つつ潜 ( かづ ) かば水は涸れなむ
3789 あしひきの山縵の子今日行くと我に告 ( の ) りせば早く来 ( こ ) ましを*
3790 あしひきの山縵の子* 今日のごといづれの隈 ( くま ) を見つつ来にけむ
昔老翁 ( おきな ) 有り、竹取 ( たかとり ) の翁 ( をぢ ) といふ。此の翁、季春之月 ( やよひばかり ) に、丘に登りて遠望 ( くにみ ) するとき、羮 ( あつもの ) を煮る九箇 ( ここの ) 女子 ( をとめ ) に値 ( あ ) へりき。百 ( もも ) の嬌 ( こび ) 儔 ( たぐ ) ひ無く、花の容 ( すがた ) 止 ( ならび ) 無し。時に娘子等、老翁 ( をぢ ) を呼び、嗤ひて「叔父来て此の鍋火 ( ひ ) を吹け」と曰ふ。ここに翁、「唯々 ( をを ) 」と曰ひて、漸 ( やや ) ゆきて、座 ( しきゐ ) の上 ( ほとり ) に著接 ( つ ) きたりき。しまらくありて娘子等、皆共に含咲 ( したゑ ) み、相推し譲りけらく、「誰 ( たれ ) そ此の翁を呼びし」。すなはち竹取の翁のいふ、「非慮 ( おもひ ) の外に神仙 ( ひじり ) に偶逢 ( あ ) ひ、迷惑 ( まど ) へる心敢 ( た ) へがたし。近く狎れし罪、謌を以 ( もち ) て贖 ( あがな ) ひまをさむ」。即ち作 ( よ ) める歌一首 ( ひとつ ) 、また短歌 ( みじかうた )
3791 緑子の 若子 ( わくご ) 髪には たらちし 母に抱 ( うだ ) かえ
すきかくる* 這ふ子が身には 木綿肩衣 純裏 ( ひつら ) に縫ひ着
頚 ( くび ) つきの 童 ( わらは ) が身には 結ひはたの 袖つけ衣 着し我を
吾 ( あ ) に寄る子らが* 同輩 ( よち ) には 蜷 ( みな ) の腸 ( わた ) か黒し髪を
真櫛持ち 肩にかき垂れ* 取り束 ( たが ) ね 上げても纏 ( ま ) きみ
解き乱し 童に成しみ 紅の 丹つかふ色に*
馴付 ( なつ ) かしき 紫の 大綾の衣
住吉 ( すみのえ ) の 遠里 ( をり ) の小野の 真榛 ( はり ) もち にほしし衣に
高麗 ( こま ) 錦 紐に縫ひつけ ささへ重なへ なみ重ね着
打麻 ( うつそ ) やし 麻続 ( をみ ) の子ら あり衣の 宝の子らが
打栲 ( うつたへ ) 延へて織る布 日さらしの 麻手作りを
重裳 ( しきも ) なす 重 ( しき ) に取り敷き* ほころへる* 稲置娘子 ( いなきをとめ ) が
妻問ふと 吾 ( あ ) にそ賜 ( たば ) りし 彼方 ( うきかた ) の 二綾下沓 ( ふたやしたくつ )
飛ぶ鳥の 飛鳥壮士 ( をとこ ) が 長雨 ( ながめ ) 忌み 縫ひし黒沓 ( くりくつ )
さし履きて 庭に立ち 往きもとほれば* 母刀自 ( おもとじ ) の* 守 ( も ) らす娘子が
ほの聞きて 吾 ( あ ) にそ賜りし 水縹 ( みはなだ ) の 絹の帯を
引帯 ( ひこび ) なす 韓帯 ( かろび ) に取らし わたつみの 殿の甍に
飛び翔ける すがるの如き 腰細に 取り飾らひ
真澄鏡 取り並め懸けて おのが顔 還らひ見つつ
春さりて 野辺を廻 ( めぐ ) れば 面白み 吾 ( あれ ) を思へか
さ野つ鳥 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば
なつかしと 吾 ( あれ ) を思へか 天雲も い行き棚引き
還り立ち 路 ( おほち ) を来 ( け ) れば うち日さす 宮女 ( みやをみな )
刺竹 ( さすだけ ) の 舎人壮士も 忍ふらひ 還らひ見つつ
誰が子そとや 思はれてある かくそしこし*
古の ささきし吾 ( あれ ) や はしきやし 今日やも子らに
いさにとや 思はれてある かくそしこし*
古の 賢しき人も 後の世の 鑑 ( かがみ ) にせむと
老人 ( おいひと ) を 送りし車 持ち帰り来 ( こ ) し
反し歌二首
3792 死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪 ( しろかみ ) 子らに生ひざらめやも
3793 白髪し子らも生ひなばかくのごと若けむ子らに罵 ( の ) らえかねめや
娘子ら和 ( こた ) ふる歌九首 ( ここのつ )
3794 はしきやし老夫 ( おきな ) の歌におほほしき九 ( ここの ) の子らや感 ( かま ) けて居らむ
3795 恥を忍ひ恥を黙 ( もだ ) りて事もなく物言はぬさきに吾 ( あれ ) は寄りなむ
3796 否 ( いな ) も諾 ( を ) も欲 ( ほ ) りのまにまに許すべき貌 ( かたち ) は見えや吾 ( あれ ) も寄りなむ
3797 死にも生きも同じ心と結びてし友や違 ( たが ) はむ吾 ( あれ ) も寄りなむ
3798 何すとか違ひは居らむ否も諾も友の並々吾 ( あれ ) も寄りなむ
3799 あにもあらぬおのが身のから人の子の言も尽くさじ吾 ( あれ ) も寄りなむ
3800 旗すすき穂には出でじと思 ( しぬ ) ひたる心は知れつ吾 ( あれ ) も寄りなむ
3801 住吉の岸の野榛 ( ぬはり ) に* 染 ( にほ ) へれどにほはぬ吾 ( あれ ) や媚 ( にほ ) ひて居らむ
3802 春の野の下草靡き吾 ( あれ ) も寄りにほひ寄りなむ友のまにまに
昔壮士 ( をとこ ) と美女 ( をとめ ) と有りき 姓名不詳 。二親 ( ちちはは ) に告 ( しら ) せずて、竊 ( しぬ ) ひ交接 ( あ ) ひたりき。時に娘子の意 ( こころ ) に、親に知らせまく欲 ( おも ) ひて、歌詠みて、其の夫 ( せ ) に送れるその歌
3803 隠 ( こも ) りのみ恋ふれば苦し山の端ゆ出で来る月の顕さば如何に
右、或ヒトノ云ク、男答ヘ歌有リトイヘリ。未ダ探リ求ムルコトヲ得ズ。
昔壮士 ( をとこ ) 有りけり。新たに婚礼 ( よばひ ) して、幾時 ( いくだ ) もあらぬに、忽ちに駅使 ( はゆまつかひ ) と為りて、遠き境に遣はさる。公事 ( おほやけごと ) 限り有り。会ふ期 ( とき ) 日無し。ここに娘子、感慟悽愴 ( かなし ) みて、疾病 ( やまひ ) に沈臥 ( こや ) れりき。年累 ( へ ) て後、壮士還り来て、覆 ( かへりこと ) 命 ( まを ) し了 ( を ) へて、乃ち詣 ( ゆ ) き相視るに、娘子の姿容 ( かほ ) 、疲羸甚異 ( いたくみつれ ) て、言語 ( こととひ ) 哽咽 ( むせ ) びき。時に壮士、哀嘆流涙 ( かなし ) みて、裁歌口号 ( うたよみ ) せる、其の歌一首
3804 かくのみにありけるものを猪名川の奥 ( おき ) を深めて吾 ( あ ) が思 ( も ) へりける
娘子臥しながら夫 ( せ ) の君の歌を聞きて、枕より頭を挙げて声に和ふる歌一首
3805 ぬば玉の黒髪濡れて沫雪 ( あわゆき ) の降るにや来ますここだ恋ふれば
今按フニ、此ノ歌、其ノ夫使ハサレテ、既ニ累載ヲ経、還ル時ニ当テ、雪落ル冬ナリキ。斯ニ因テ娘子此ノ沫雪ノ句ヲ作メルカ。
娘子が夫 ( せ ) に贈れる歌一首*
3806 事しあらば小泊瀬山の石城 ( いしき ) にも隠 ( こも ) らば共にな思ひ我が背
右伝云 ( いひつて ) けらく、時 ( むかし ) 女子 ( をみな ) 有りけり。父母に知らせずて壮士 ( をとこ ) に竊 ( しぬ ) ひ接 ( あ ) ひたりき。壮士その親の呵嘖 ( ころび ) をかしこみて、稍 ( やや ) 猶予 ( いざよふ ) の意 ( こころ ) 有り。此に因りて娘子斯の歌を裁作 ( よ ) みて、其の夫に贈与 ( おく ) れりといへり。
前 ( さき ) の采女 ( うねべ ) が詠める歌一首*
3807 安積山 ( あさかやま ) 影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾 ( あ ) が思 ( も ) はなくに
右の歌は伝云 ( いひつて ) けらく、葛城王 、陸奥 ( みちのく ) の国に遣はさえし時、国司 ( くにのみこともち ) あへしらふこと緩怠 ( おろそか ) なりければ、王 ( おほきみ ) の意 ( こころ ) に悦びず、怒色顕面 ( おもほでり ) まして、飲饌 ( みあへ ) を設 ( ま ) けしかども宴楽 ( うたげ ) をもしたまはざりき。ここに前 ( さき ) の采女風流 ( みさを ) 娘子有りて、左の手に觴 ( さかづき ) を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝 ( みひざ ) に撃ちて、此の歌を詠みき。ここに王の意 ( こころ ) 解脱 ( なご ) みて、終日 ( ひねもす ) に楽飲 ( うたげあそ ) びきといへり。
鄙 ( いや ) しき人のよめる歌一首*
3808 住吉の小集楽 ( をづめ ) に出でて正目 ( まさめ ) にも* おの妻すらを鏡と見つも
右伝云 ( いひつて ) けらく、昔鄙しき人あり 姓名未詳也 。時に郷里 ( さと ) の男女 ( をとこをみな ) 、衆集 ( つど ) ひて野の遊びせりき。是の会集 ( つどひ ) の中 ( うち ) に、鄙しき人夫婦 ( めを ) 有り。其の婦 ( め ) 容姿 ( かほ ) 端正 ( きらきらし ) きこと衆諸 ( もろひと ) に秀れたり。すなはち彼の鄙人 ( をとこ ) の意 ( こころ ) 、妻 ( め ) を愛 ( うつく ) しむの情 ( こころ ) 弥 ( いや ) 増さりて、斯の歌をよみて美貌 ( きらきらしき ) を讃嘆 ( ほ ) めたりき。
娘子が恨みよみて献れる歌一首*
3809 商 ( あき ) 返し領 ( し ) らせとの御法 ( みのり ) あらばこそ吾 ( あ ) が下衣返し賜 ( たば ) らめ
右伝云 ( いひつて ) けらく、時 ( むかし ) 幸 ( うるはしみ ) せらえし娘子有り 姓名未詳 。寵薄 ( こころうつろへ ) る後、寄物 ( かたみ ) を還し賜りき 俗ニかたみト云フ 。ここに娘子、怨恨 ( うら ) みて聊か斯の歌をよみて献上 ( たてまつ ) りき。
娘子が恨みてよめる歌一首*
3810 味飯 ( うまいひ ) を水に醸み成し吾 ( あ ) が待ちし代 ( かひ ) はかつて無し直 ( ただ ) にしあらねば
右伝云 ( いひつて ) けらく、昔娘子有り。其の夫 ( せ ) に相別 ( わか ) れ、年を経て恋ひわたりき。さる間に夫の君、更に他妻 ( あだしつま ) を娶 ( え ) て、正身 ( みづから ) は来ずて、徒 ( ただ ) に苞 ( つと ) を贈 ( おこ ) せりき。此に因り娘子 ( をとめ ) 、此の恨みの歌を作みて、還し酬 ( おく ) れりき。
娘子が* 夫の君を恋ふる歌一首、また短歌
3811 さ丹づらふ 君が御言と 玉づさの 使も来ねば
思ひ病む 吾 ( あ ) が身ひとつそ ちはやぶる 神にもな負ほせ
卜部 ( うらべ ) 座 ( ま ) せ 亀もな焼きそ 恋 ( こほ ) しくに 痛き吾 ( あ ) が身そ
いちしろく 身に染みとほり むら肝の 心砕けて
死なむ命 にはかになりぬ 今更に 君か吾 ( あ ) を呼ぶ
たらちねの 母の御言か 百 ( もも ) 足らず 八十 ( やそ ) の衢 ( ちまた ) に
夕占 ( ゆふけ ) にも 卜 ( うら ) にもそ問ふ 死ぬべき吾 ( あ ) がゆゑ
反し歌
3812 卜部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも
或ル本ノ反シ歌ニ曰ク、
3813 吾 ( あ ) が命は惜しくもあらずさ丹づらふ君によりてそ長く欲りせし
右伝云けらく、時 ( むかし ) 娘子有り 姓ハ車持氏ナリ 。其の夫 ( せ ) 年を逕 ( へ ) て徃来 ( かよ ) はず。時に娘子、息の緒に恋ひつつ、痾疾 ( やまひ ) に沈臥 ( こや ) れりき。日に異 ( け ) に痩羸 ( みつ ) れて、忽ち臨泉路 ( みまか ) りなむとす。ここに使を遣はして、其の夫の君を喚ぶ。来て乃ち歔欷 ( なげ ) きつつ斯の歌を口号 ( よ ) みて、登時 ( すなはち ) 逝没 ( みまか ) りき。
壮士 ( をとこ ) が娘子の父母に贈れる歌一首*
3814 真珠 ( しらたま ) は緒絶 ( をだえ ) しにきと聞きしゆゑにその緒また貫 ( ぬ ) き吾 ( あ ) が玉にせむ
答ふる歌一首
3815 真珠の緒絶はまこと然れどもその緒また貫き人持ち去 ( い ) にけり
右伝云けらく、時 ( むかし ) 娘子有り。夫の君に棄てらえて他氏 ( ひとのいへ ) に改め適 ( ゆ ) きき。時に壮士有りて、改め適くを知らずて、此の歌を贈遣 ( おく ) りて、女 ( をみな ) の父母 ( おや ) に請誂 ( こ ) ひき。ここに父母の意 ( おも ) ひけらく、壮士委曲 ( つばら ) なる旨 ( さま ) を聞 ( し ) らじとおもひて乃ち彼の歌に報送 ( こた ) へがてり、改め適きし縁 ( よし ) を顕はせりきといへり。
穂積親王の誦 ( うた ) はせる歌一首*
3816 家にありし櫃 ( ひつ ) に鍵さし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて
右の歌一首は、穂積親王 の宴したまふ時、いつも斯の歌を誦 ( うた ) ひて恒賞 ( あそびくさ ) と為たまへり。
河村王の誦ひたまへる歌二首*
3817 柄臼 ( かるうす ) は田廬 ( たぶせ ) のもとに我が背子はにふぶに笑みて立ちませり見ゆ 田廬ハたぶせノ反
3818 朝霞鹿火屋 ( かひや ) が下に鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも
右の歌二首は、河村王の宴せる時、琴弾きて、即ち先づ此の歌を誦 ( よ ) みて、常行 ( あそびくさ ) と為たまひき。
小鯛王 ( をたひのおほきみ ) の吟 ( うた ) ひたまへる歌二首*
3819 夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末 ( うれ ) の白露思ほゆ
3820 夕づく日さすや川辺に作る屋の形 ( かた ) をよろしみうべそ寄り来る
右の歌二首は、小鯛王の宴の日、琴を取る登時 ( すなはち ) 必先 ( まづ ) 此の歌を吟詠 ( うた ) ひたまひき。小鯛王ハ、更 ( マタ ) ノ名ハ置始多久美 ( オキソメノタクミ ) トイフ、斯ノ人ナリ。
兒部女王 ( こべのおほきみ ) の嗤 ( あざ ) けりの歌一首
3821 うましものいづく飽かじを尺度 ( さかど ) らし角のふくれにしぐひ合ひにけむ
右、時 ( むかし ) 娘子有りき 姓ハ尺度氏ナリ 。此の娘子、高姓 ( たふとき ) 美人 ( うましをとこ ) の誂 ( つまと ) ふを聴かず、下姓 ( いやしき ) 醜士 ( しこを ) の誂ふを許 ( き ) きき。ここに兒部女王、此の歌を裁作 ( よ ) みて、彼 ( そ ) の愚 ( かたくなし ) きを嗤咲 ( あざ ) けりたまふ。
古歌 ( ふるうた ) に曰く
3822 橘の寺の長屋に吾 ( あ ) が率 ( ゐ ) 寝し童女 ( うなゐ ) 放髪 ( はなり ) は髪上げつらむか
右ノ歌、椎野連長年ガ説ニ曰ク、夫レ寺家ノ屋ハ、俗人ノ寝処ニアラズ。亦若冠ノ女ヲ称 ( イ ) ヒテ放髪丱 ( ウナヰハナリ ) ト曰ヘリ。然レバ腰ノ句已ニ放髪丱ト云ヘレバ、尾ノ句重ネテ著冠ノ辞ヲ云フベカラザルカトイヘリ。改メテ曰ク、
3823 橘の照れる長屋に吾 ( あ ) が率ねし童女放髪に髪上げつらむか
長忌寸意吉麻呂 が歌八首 ( やつ )
3824 さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津 ( いちひつ ) の桧橋 ( ひはし ) より来む狐 ( きつ ) に浴 ( あ ) むさむ
右の一首は、伝云 ( いひつて ) けらく、ある時衆 ( ひとびと ) 集ひて宴飲 ( うたげ ) す。時に夜ふけて狐の声聞こゆ。すなはち衆諸 ( ひとびと ) 奥麿を誘 ( いざな ) ひけらく、此の饌具雑器 ( くさぐさのうつはもの ) 、狐の声、河橋等の物に関 ( か ) けて、歌よめといへり。即ち声に応 ( こた ) へて此の歌を作めり。
3825 食薦 ( すこも ) 敷き青菜煮持ち来 ( こ ) 梁 ( うつはり ) に行騰 ( むかはき ) 懸けて休むこの君
右の一首は、行騰 ( むかはき ) 、蔓菁 ( あをな ) 、食薦 ( すこも ) 、屋の梁 ( うつはり ) を詠める歌。*
3826 蓮葉 ( はちすば ) はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋 ( うも ) の葉にあらし
右の一首は、荷葉 ( はちすば ) を詠める歌。
3827 一二 ( ひとふた ) の目のみにあらず五つ六つ三つ四つさへあり双六 ( すぐろく ) のさえ
右の一首は、双六 ( すぐろく ) の頭子 ( さえ ) を詠める歌。
3828 香 ( こり ) 焚ける* 塔にな寄りそ川隈の屎鮒 ( くそふな ) 食 ( は ) める甚 ( いた ) き女奴 ( めやつこ )
右の一首は、香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠める歌。
3829 醤酢 ( ひしほす ) に蒜 ( ひる ) 搗き合 ( か ) てて鯛願ふ我にな見せそ水葱 ( なぎ ) の羹 ( あつもの )
右の一首は、酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠める歌。
3830 玉掃 ( たまばはき ) 刈り来 ( こ ) 鎌麻呂室の木と棗 ( なつめ ) が本を掻き掃かむため
右の一首は、玉、掃、鎌、天木香 ( むろ ) 、棗を詠める歌。
3831 池神の力士舞かも白鷺の桙 ( ほこ ) 啄 ( く ) ひ持ちて飛び渡るらむ
右の一首は、白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠める歌。
忌部首が数種 ( くさぐさ ) の物を詠める歌一首*
3832 からたちと棘原 ( うまら ) 刈り除 ( そ ) け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自 ( とじ )
境部王の数種の物を詠みたまへる歌一首 穂積親王ノ子ナリ
3833 虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍 ( みつち ) 捕り来む剣大刀もが
作主 ( よみひと ) しらざる歌一首
3834 梨棗 ( なつめ ) 黍 ( きみ ) に粟つぎ延ふ葛 ( くず ) の後も逢はむと葵 ( あほひ ) 花咲く
新田部親王 に献れる歌一首
3835 勝間田 ( かつまた ) の池は吾 ( あれ ) 知る蓮 ( はちす ) 無ししか言ふ君が鬚なき如し
右或る人つたへけらく、新田部親王、堵 ( みさと ) に出遊 ( いでま ) して、勝間田の池を見 ( め ) して、御心の中に感 ( め ) でたまひ、彼 ( そ ) の池より還りまして、忍ひかねて、婦人 ( をみな ) に語りたまはく、今日ゆきて、勝間田池を見しに、水みちたたへて、蓮花 ( はちす ) 灼 ( て ) りかがやけり。その怜 ( おもしろ ) さかぎりなし。ここに婦人、此の戯歌 ( たはれうた ) を作みて、すなはち吟詠 ( うた ) ひきといへり。
侫人 ( ねぢけびと ) を謗 ( そし ) れる歌一首
3836 奈良山の児手柏 ( このてかしは ) の両面 ( ふたおも ) にかにもかくにも侫人の徒 ( とも )
右の歌一首は、博士消奈公行文 ( せなのきみゆきふみ ) の大夫 ( まへつきみ ) がよめる。
荷葉 ( はちすば ) を詠める歌一首*
3837 久かたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む
右の歌一首は、伝云 ( いひつて ) けらく、右の兵衛 ( つはもののとねり ) 有り姓名未詳。 歌作みすることに能 ( た ) へたり。時に府 ( つかさ ) の家酒食 ( さけさかな ) を備設 ( ま ) け、府官人等 ( つかさびとたち ) を饗宴 ( あへ ) す。ここに饌食 ( け ) を盛るに、皆荷葉 ( はちすば ) を用ふ。諸人酒酣 ( たけなは ) にして、歌ひ舞ひ、駱駅* 兵衛 ( つはもののとねり ) を誘ひて、其の荷葉に関 ( か ) けて、歌を作めといへり。すなはち声に応 ( こた ) へて斯の歌を作めり。
心の著 ( つ ) く所無き歌二首
3838 我妹子が額 ( ぬか ) に生ひたる双六 ( すぐろく ) の事負 ( ことひ ) の牛の倉の上 ( へ ) の瘡
3839 我が背子が犢鼻褌 ( たふさき ) にせるつぶれ石の吉野の山に氷魚 ( ひを ) そ下がれる 懸有ハ、反シテ云ク、さがれる
右の歌は、舎人親王、侍座 ( もとこびと ) に令 ( のりご ) ちたまはく、もし由 ( よ ) る所無き歌を作む者有らば、銭帛 ( ぜにきぬ ) を賜 ( たば ) らむとのりたまへり。時に大舎人安倍朝臣子祖父、乃ち斯の歌を作みて献上 ( たてまつ ) る。登時 ( すなはち ) 募る所の銭二千文 ( ふたちち ) 給へりき。
池田朝臣が大神朝臣奥守を嗤 ( あざけ ) る歌一首*
3840 寺々の女餓鬼 ( めがき ) 申さく大神 ( おほみわ ) の男餓鬼賜 ( たば ) りてその子産まはむ
大神朝臣奥守が報へ嗤ける歌一首
3841 仏造る真朱 ( まそほ ) 足らずば水溜まる池田の朝臣 ( あそ ) が鼻の上 ( へ ) を掘れ
或ヒト云ク、
平群朝臣が穂積朝臣を嗤咲 ( あざ ) ける歌一首
3842 小児 ( わくご ) ども草はな刈りそ八穂蓼 ( やほたで ) を穂積の朝臣が腋草を刈れ
穂積朝臣が和ふる歌一首
3843 いづくにそ真朱掘る丘薦畳 ( こもたたみ ) 平群の朝臣が鼻の上を掘れ
土師宿禰水通 ( はにしのすくねみみち ) が、巨勢朝臣豊人が黒色を嗤咲ける歌一首
3844 ぬば玉の斐太 ( ひだ ) の大黒 ( おほくろ ) 見るごとに巨勢の小黒 ( をくろ ) し思ほゆるかも
巨勢朝臣豊人が答ふる歌一首
3845 駒造る土師 ( はし ) の志婢麻呂 ( しびまろ ) 白くあればうべ欲しからむその黒色を
右の歌は、伝云けらく、大舎人土師宿禰水通といふひと有り。字 ( あざな ) をば志婢麻呂と曰へり。時に大舎人巨勢朝臣豊人、字 ( あざな ) をば正月麻呂 ( むつきまろ ) と曰へり、巨勢斐太朝臣名字ハ忘レタリ。島村大夫ノ男ナリ 。
両人 ( ふたり ) みな貌 ( かほ ) 黒かりき。ここに土師宿禰水通、斯の歌を作みて嗤咲けりぬ。かくて巨勢朝臣豊人これを聞きて、即ち和への歌を作みて酬 ( むく ) い咲 ( あざ ) けりきといへり。
戯れに僧 ( ほうし ) を嗤ける歌一首
3846 法師らが鬚の剃り杭馬繋ぎいたくな引きそ法師半 ( なか ) ら欠 ( か ) む
法師が報ふる歌一首
3847 壇越 ( だむをち ) や然もな言ひそ里長 ( さとをさ ) らが課役 ( えつき ) 徴 ( はた ) らば汝 ( なれ ) も半ら欠む
夢 ( いめ ) の裡 ( うち ) によめる歌一首
3848 新墾田 ( あらきた ) の猪鹿田 ( しした ) の稲を倉にこめてあなひねひねし吾 ( あ ) が恋ふらくは
右の歌一首は、忌部首黒麿 ( いみべのおびとくろまろ ) が、夢の裡に此の恋の歌を作みて友に贈り、覚めて誦習 ( うた ) はしむるに前 ( もと ) の如しといふ。
世間 ( よのなか ) の常無きを厭ふ歌三首*
3849 生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも
3850 世の中の醜 ( しき ) 借廬 ( かりいほ ) に住み住みて至らむ国のたづき知らずも*
3852 鯨魚 ( いさな ) 取り海や死にする山や死にする死ねこそ海は潮干 ( ひ ) て山は枯れすれ*
右の歌三首は、河原寺の仏堂 ( ほとけどの ) の裡の倭琴 ( やまとこと ) の面 ( おも ) に在り。
藐姑射 ( はこや ) の山の歌一首*
3851 心をし無何有 ( むがう ) の郷 ( さと ) に置きてあらば藐姑射の山を見まく近けむ
右の歌一首は、作主 ( よみひと ) 未詳 ( しらず ) 。*
痩人 ( やせひと ) を嗤咲ける歌二首
3853 石麻呂 ( いはまろ ) に吾 ( あれ ) 物申す夏痩によしといふものそ鰻 ( むなぎ ) 取り食 ( め ) せ 反シテ云ク、めせ
3854 痩す痩すも生けらば在らむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな
右、吉田連老といふひと有り。字をば石麻呂と曰へり。所謂仁教の子なり。其の老、為人身体 ( かたち ) 甚 ( いた ) く痩せたり。多く喫飲 ( のみくら ) へども、形飢饉 ( うゑひと ) のごとし。此に因りて大伴 宿禰家持 、聊か斯の歌を作みて戯咲 ( あざけり ) す。
高宮王の数種 ( くさぐさ ) の物を詠める歌二首
3855 葛英爾* 延ひおほとれる屎葛 ( くそかづら ) 絶ゆることなく宮仕へせむ
3856 婆羅門 ( ばらもむ ) の作れる小田を食む烏瞼 ( まなぶた ) 腫れて幡桙 ( はたほこ ) に居り
夫 ( せ ) の君を恋ふる歌一首
3857 飯食めど 美味くもあらず 歩けども 安くもあらず
茜さす 君が心し 忘れかねつも
右の歌一首は、伝云けらく、佐為王 ( さゐのおほきみ ) 、近習婢 ( まかたち ) 有り。時に宿直 ( とのゐ ) 遑 ( いとま ) なく、夫の君遇ひ難し。感情 ( こころ ) いたく結ぼれ、係恋 ( おもひ ) 実 ( まこと ) に深し。ここに宿 ( とのゐ ) に当たる夜、夢の裡に相見る。覚寤 ( おどろ ) きて探抱 ( かきさぐ ) れども手にも触れず。すなはち哽咽歔欷 ( かなし ) み、高く此の歌を吟詠 ( うた ) ひき。因 ( かれ ) 王聞かして、哀慟 ( あはれ ) みたまひ、永へに侍宿 ( とのゐ ) することを免 ( ゆる ) しき。
恋の歌二首*
3858 この頃の吾 ( あ ) が恋力記し集 ( つ ) め功 ( くう ) に申さば五位の冠 ( かがふり )
3859 この頃の吾 ( あ ) が恋力賜 ( たば ) らずば京職 ( みさとつかさ ) に出でて訴 ( うた ) へむ
右の歌二首は、作者未詳。
筑前国 ( つくしのみちのくちのくに ) 志賀 ( しか ) の白水郎 ( あま ) が歌十首 ( とを )
3860 おほきみの遣はさなくに情進 ( さかしら ) に行きし荒雄ら沖に袖 ( そて ) 振る
3861 荒雄らを来むか来じかと飯 ( いひ ) 盛りて門に出で立ち待てど来まさず
3862 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ
3863 荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼 ( たぬ ) は寂 ( さぶ ) しからずや
3864 官 ( つかさ ) こそ差しても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る
3865 荒雄らは妻子 ( めこ ) の業 ( なり ) をば思はずろ年の八年を待てど来まさず
3866 沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良 ( やら ) の崎守 ( さきもり ) 早く告げこそ
3867 沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻 ( た ) みて榜ぎ来と聞こえ来ぬかも
3868 沖行くや赤ら小船 ( をぶね ) に苞 ( つと ) 遣らばけだし人見て解き開け見むかも
3869 大船に小船引き添へ潜 ( かづ ) くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも
右、神亀の年中 ( とし ) 、太宰府 ( おほみこともちのつかさ ) 、筑前国宗像郡の百姓 ( おほみたから ) 、宗形部津麻呂を差して、對馬の粮 ( かて ) を送る舶の柁師 ( かぢとり ) に充 ( あ ) つ。時に津麻呂、滓屋 ( かすや ) 郡志賀村の白水郎、荒雄が許に詣 ( ゆ ) きて語りけらく、「僕 ( あれ ) 小事 ( こと ) あり。もし許さじか」。荒雄答へけらく、「僕郡 ( こほり ) 異 ( かは ) れども、船に同 ( あひの ) ること日久し。志兄弟 ( はらから ) より篤し。殉死 ( ともにし ) ぬとも、なぞも辞 ( いな ) まむ」。津麻呂が曰く、「府官 ( つかさ ) 僕 ( あれ ) を差して對馬の粮 ( かて ) を送る舶の柁師 ( かぢとり ) に充 ( あ ) つ。容歯 ( よはひ ) 衰老 ( おとろ ) へ海つ路 ( ぢ ) に堪へず。故 ( かれ ) 来たりて祇候 ( さもら ) ふ。願はくは相替りてよ」。ここに荒雄、許諾 ( うべな ) ひて遂に彼 ( そ ) の事に従ひ、肥前国松浦県美弥良久 ( みみらく ) の埼より発舶 ( ふなだち ) して、直に對馬を射して海を渡る。すなはち天 ( そら ) 暗冥 ( くらが ) り、暴風 ( よこしまかぜ ) 雨に交じり、竟に順風 ( おひて ) 無くして、海中 ( うみ ) に沈没 ( しづ ) みき。因斯 ( かれ ) 妻 ( め ) 子 ( こ ) 等、特慕 ( しぬ ) ひかねて此の謌を裁作 ( よ ) めり。或ひは、筑前国守山上憶良臣 、妻子の傷みを悲感 ( かなし ) み、志を述べて此の歌を作めりといへり。
無名歌六首*
3870 紫の粉潟 ( こかた ) の海に潜 ( かづ ) く鳥玉潜き出ば吾 ( あ ) が玉にせむ
右の歌一首。
3872 吾が門の榎 ( え ) の実もり食 ( は ) む百千鳥 ( ももちどり ) 千鳥は来れど君そ来まさぬ
3873 吾が門に千鳥しば鳴く起きよ起きよ我が一夜夫 ( ひとよづま ) 人に知らゆな
右の歌二首。
3871 角島 ( つぬしま ) の瀬戸の若布は人の共 ( むた ) 荒かりしかど吾 ( あ ) が共 ( むた ) は和海藻 ( にきめ )
右の歌一首。
3874 射ゆ鹿 ( しし ) を認 ( つな ) ぐ川辺の和草 ( わかくさ ) の身の若かへにさ寝し子らはも
右の歌一首。
3875 琴酒を 押垂 ( おしたる ) 小野ゆ 出づる水 ぬるくは出でず
寒水 ( ましみづ ) の 心も潔 ( けや ) に 思ほゆる 音の少なき
道に逢はぬかも 少なきよ 道に逢はさば 汝 ( いろ ) 着 ( け ) せる
菅笠 ( すががさ ) 小笠 ( をがさ ) 吾 ( あ ) がうなげる 玉の七つ緒 取り替へも
申さむものを 少なきよ 道に逢はぬかも*
右の歌一首。
豊前国 ( とよくにのみちのくち ) の白水郎 ( あま ) が歌一首
3876 豊国の企救 ( きく ) の池なる菱の末 ( うれ ) を摘むとや妹が御袖濡れけむ
豊後国 ( とよくにのみちのしり ) の白水郎が歌一首
3877 紅に染めてし衣雨降りてにほひはすとも移ろはめやも
能登の国の歌三首
3878 梯立 ( はしたて ) の 熊来 ( くまき ) のやらに 新羅斧 落し入れわし
懸けて懸けて な泣かしそね 浮き出づるやと 見むわし
右の歌一首は、伝云けらく、或る愚人 ( かたくなひと ) 、斧の海底 ( うみ ) に堕ちて、鉄 ( かね ) 沈 ( しづ ) きて浮かばざることを解 ( さと ) らざりしかば、聊か此の歌をよみて喩 ( さと ) せりき。
3879 梯立の 熊来酒屋に ま罵 ( ぬ ) らる 奴わし
さすひ立て 率 ( ゐ ) て来 ( き ) なましを ま罵らる 奴わし
右一首。
3880 香島嶺 ( ね ) の 机の島の 小螺 ( したたみ ) を い拾 ( ひり ) ひ持ち来て
石もち つつき破 ( はふ ) り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に ここと揉み 高坏 ( たかつき ) に盛り 机に立てて
母に奉 ( まつ ) りつや 女 ( め ) つ児の刀自 父に奉りつや み女つ児の刀自
越中国 ( こしのみちのなかのくに ) の歌四首
3881 大野道は繁道 ( しげち ) の森径 ( もりぢ ) 繁くとも君し通はば道は広けむ
3882 澁谿 ( しぶたに ) の二上山 ( ふたかみやま ) に鷲ぞ子産 ( む ) といふ翳 ( さしは ) にも君が御為に鷲ぞ子産といふ
3883 伊夜彦 ( いやひこ ) おのれ神さび青雲の棚引く日すら小雨そほ降る 一ニ云ク、あなに神さび
3884 伊夜彦の神の麓に今日らもか鹿 ( か ) の伏せるらむ皮衣着て角つけながら
乞食者 ( ほかひひと ) の詠 ( うた ) 二首
3885 愛子 ( いとこ ) 汝兄 ( なせ ) の君 居り居りて 物にい行くと*
韓国 ( からくに ) の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来
その皮を 畳に刺し 八重畳 平群 ( へぐり ) の山に
四月 ( うつき ) と 五月 ( さつき ) の間 ( ほと ) に 薬猟 仕ふる時に
あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟 ( いちひ ) が本に
梓弓 八つ手挟 ( たばさ ) み ひめ鏑 ( かぶら ) 八つ手挟み
獣 ( しし ) 待つと 吾 ( あ ) が居る時に さ牡鹿の 来立ち嘆かく
たちまちに 吾 ( あれ ) は死ぬべし おほきみに 吾 ( あれ ) は仕へむ
吾 ( あ ) が角 ( つぬ ) は 御笠の栄 ( は ) やし 吾が耳は 御墨の坩 ( つぼ )
吾が目らは 真澄の鏡 吾が爪は 御弓の弓弭 ( ゆはず )
吾が毛らは 御筆の栄 ( は ) やし 吾が皮は 御箱の皮に
吾が肉 ( しし ) は 御膾 ( みなます ) 栄やし 吾が肝も 御膾栄やし
吾が屎 ( みぎ ) は 御塩の栄やし 老いはてぬ 我が身一つに
七重花咲く 八重花咲くと 申し賞 ( は ) やさね 申し賞やさね
右の歌一首は、鹿の為に痛 ( おもひ ) を述べてよめり。
3886 押し照るや 難波の小江 ( をえ ) に 廬 ( いほ ) 作り 隠 ( なま ) りて居る
葦蟹を おほきみ召すと 何せむに 吾 ( あ ) を召すらめや
明らけく 吾 ( あ ) は知ることを 歌人 ( うたひと ) と 我 ( わ ) を召すらめや
笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我 ( わ ) を召すらめや
かもかくも 命 ( みこと ) 受けむと 今日今日と 飛鳥に至り
置かねども* 置勿 ( おきな ) に至り つかねども 都久野 ( つくぬ ) に至り
東 ( ひむかし ) の 中の御門ゆ 参り来て 命受くれば
馬にこそ 絆 ( ふもだし ) 掛くもの 牛にこそ 鼻縄はくれ
あしひきの この片山の 百楡 ( もむにれ ) を 五百枝 ( いほえ ) 剥き垂り
天照るや 日の日 ( け ) に干し さひづるや 柄臼 ( からうす ) に舂き
庭に立つ 磑子 ( すりうす ) に舂き* 押し照るや 難波の小江の
初垂 ( はつたれ ) を 辛く垂り来て 陶人 ( すゑひと ) の 作れる瓶 ( かめ ) を
今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗り給ひ
もちはやすも もちはやすも
右の歌一首は、蟹の為に痛 ( おもひ ) を述べてよめり。
怕 ( おどろ ) しき物の歌三首
3887 天なるや神楽良 ( ささら ) の小野に茅草 ( ちかや ) 刈り草 ( かや ) 刈りばかに鶉を立つも
3888 沖つ国領 ( し ) らす君が染 ( し ) め屋形黄染めの屋形神が門 ( と ) 渡る
3889 人魂 ( ひとたま ) のさ青 ( を ) なる君が唯独り逢へりし雨夜は久しく思ほゆ*
更新日:平成12-08-15
最終更新日:平成20-01-21
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