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リズムを感じろ
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リズムを感じろ
私はふと、0.252 という数を慎重に発音してみた。この数の発音は「レーテンニーゴー ニ」だろう。人によっては「レーテンニーゴーニー 」かもしれない。だが 0.252 を漢字で書けば「零点二五二」で、それを素直に読めば「レーテンニゴニ」なのに、そう読む人はいない。なぜだ。52.252 なら、その発音は「ゴジューニー テンニーゴー ニ」か「ゴジューニー テンニーゴーニー 」だろう。「ゴジューニテンニゴニ」と読む人はいないし、「ゴー ジューニー テンニーゴー ニ」と読む人もいない。だが、例えば「テストの点は 52 点だった。」の「52 点」は「ゴジューニテン」であって「ゴジューニー テン」ではない。小数の読み方には日本語話者が普段意識しない法則が働いているに違いない。
やがて、小数だけでなく数字の羅列を読むときはいつでも 2 と 5 を「ニー」、「ゴー」と読むことに気付いた。例えば 0120-123-456 という電話番号は、「ゼロイチニー ゼロ イチニー サン ヨンゴー ロク」と読むと思う。これをそのまま、「ゼロイチニゼロ イチニサン ヨンゴロク」と読んだら変だ。
日本語の拍はすべて同じ時間的長さを持つという特徴があり、機関銃リズムと呼ばれる。これに対して英語はモールス信号リズムと呼ばれ、音節の長さが不定で、強い音節が長く発音される。例えば "two" は 1 音節で "seven" は 2 音節だが、後者は前者の 2 倍の長さを持たないどころか、実際はほとんど変わらない。"seven" の最初の "sev" はそれなりに長く発音されるが "en" は短いためだ。一方、日本語で「ニ」と「ナナ」を比べると、明らかに後者は前者の 2 倍の長さで発音される。そうなると、2757 という数字の列を読むときに「ニナナゴナナ」と読むと数字の切れ目がはっきりしなくて落ち着かない。そこで、各数字を同じ長さで発音すれば、つまりこの数の列を「ニー ナナゴー ナナ」と読めば、分かりやすいだろう。数字の中で 1 拍なのは 2 と 5 だけだ。これをそれぞれ「ニー」、「ゴー」と読めば、すべての数字が 2 拍になり、各数字が同じ長さで発音されるので聞き間違いが減ると言える。
だが、よく考えると別に音を伸ばして 2 拍にしなくても、1 拍休みを入れれば 2 拍と同じになるではないか。例えば休止拍を「・」で表すと、「ニー」、「ゴー」の代わりに「ニ・」、「ゴ・」でも良いのではないか。そうなると 2757 は「ニ・ ナナゴ・ ナナ」と読める。だが日本語話者ならしっくり来ないものを感じるだろう。なぜか、このように途中で切りたくないのである。「ニー ナナゴー ナナ」でないと駄目なのだ。
もう一つ謎がある。例えば 572 という数字の列は、最後の 2 を伸ばしても伸ばさなくてもどちらでも良い。「ゴー ナナニ」でも「ゴー ナナニー 」でもどちらでも良い。しかし「ゴナナニ」や「ゴナナニー 」はどちらも違和感がある。従って、単純にすべての数字を 2 拍で発音するというだけでは説明にならない。もっと本質的な、隠された規則があるはずだ。
基本に戻って、いろいろな数字の列を慎重に発音してみよう。同時にアクセントも考えてみよう。
5 7 2 5 3
ゴー ナナ ニー ゴー サン
低高 高低 低高 高低 高高
5 7 2 5 3 5
ゴー ナナ ニー ゴー サン ゴー
低高 高低 低高 高低 低高 高低
これを見て気付くのは、元の数字のアクセントとは関係なく、常に「低高高低」というアクセントが現れるということだ。だから長い数字の列を読むと、「低高高低」という四拍子のリズムがずっと続くことになる。この四拍子こそが、2 と 5 をいつもより長く発音する本当の理由だったのだ。572 の最後の 2 を伸ばしても伸ばさなくても良いのは、どちらにしろ最後の 2 だけでは四拍子を作れないからだ。逆に最初の 5 を伸ばさなくてはならないのは、そうしないと四拍子が崩れるからだ。2757 を「ニ・ ナナゴ・ ナナ」と読まないのは、四拍子の途中で休みたくないからだ。
先ほど扱った数で確かめてみよう。
0 . 2 5 2
レー テン ニー ゴー ニ
高低 低低 低高 高低 高
5 2 . 2 5 2
ゴ ジュ ー ニー テン ニー ゴー ニ
低 高 高 高低 低低 低高 高低 高
0 1 2 0 - 1 2 3 - 4 5 6
ゼロ イチ ニー ゼロ イチ ニー サン ヨン ゴー ロク
低高 高低 低高 高低 低高 高低 高高 低高 高低 低高
小数の場合は、小数点の直前の数字と小数点は常に「高低低低」のアクセントを持つと分かった。アクセントは違うものの四拍子であることに変わりはない。それ以前の数字は通常の数と同じに読まれ、この四拍子の規則は働かない。小数点以降は数字 2 個ごとに「低高高低」というアクセントを持つ。もし最後の数字が 1 個余れば伸ばしても伸ばさなくても良く、アクセントは変わらない。電話番号も同じだ。意味的な固まりの中で、常に「低高高低」の四拍子が現れる。だからこそ、「二・二六事件」は「ニニロクジケン」ではなく「ニーニー ロクジケン」なのだ。
小数の整数部を普通通りに読み、四拍子が現れないのは恐らく「十」や「百」などの単位が入り、あたかも単語のように扱われるからだろう。数字の羅列を読み上げるという比較的自由に発音できる場合にだけ、この隠された四拍子の規則が現れるのだと思う。
日本語のリズムは四拍子なのだ。たまに、英語はリズムがあり日本語はリズムがないという人がいるが、それは誤りだ。リズムがそもそも違うのだ。英語は強弱があるリズムで、ラップに向いている。日本語は速くて正確な四拍子なので、きっとテクノに向いている。
日本語のリズムというと七五調を思うかもしれない。俳句や短歌は日本人の耳に染み付いているし、交通標語はほとんどが五七五のリズムだ。七五調に対して日本語話者が感じる魅力は、四拍子が日本語のリズムだという説と矛盾するのではないか。川本晧嗣の「日本詩歌の伝統−七と五の詩学」によると、実は七五調は四拍子だという。例えば次の俳句を見てみよう。
古池や 蛙飛び込む 水の音
この有名な俳句を、リズムを意識して発音して欲しい。すると、そこには四拍子を土台とする八拍子が現れてくる。休止拍を「・」で表すと、この俳句は次のように発音される。休止拍のところでは適当に手を打ってみると良い。
フ ル イ ケ ヤ ・ ・ ・
カ ワ ズ ・ ト ビ コ ム
ミ ズ ノ オ ト ・ ・ ・
あるいは第二句を次のように言っても良いだろう。
フ ル イ ケ ヤ ・ ・ ・
・ カ ワ ズ ト ビ コ ム
ミ ズ ノ オ ト ・ ・ ・
俳句が八拍子であることが分かるだろう。しかも最後の句を除き、「ふるいけ」+「や・・・」、「かわづ・」+「とびこむ」というように、四拍子になっている。最後の句では「と」で力が抜けるのでそこだけ四拍子を破っているのかもしれない。
名文とされる平家物語の書き出しを調べてみよう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表はす。
この部分は次のように発音するだろう。やはり八拍子だ。分かりやすいように四拍子で区切ったが、「ャ」や「ョ」があるので少し見づらい。
1 2 3 4 5 6 7 8
・ ギ オ ン ショ ウ ジャ ノ
カ ネ ノ コ エ ・ ・ ・
・ ショ ギョ ウ ム ジョ ウ ノ
ヒ ビ キ ア リ ・ ・ ・
・ ・ シャ ラ ソ ウ ジュ ノ
ハ ナ ノ イ ロ ・ ・ ・
・ ジョ ウ シャ ヒ ッ ス イ ノ
コ ト ワ リ ヲ ア ラ ワ ス
読んでいて引っかかるのは「必衰の」と「理を」の部分だ。4 拍であるべきなのに 5 拍あるのだから違和感があって当然だ。普通の考えなら、「盛者必衰の」は 8 拍なので字余りの許容範囲内だが、「盛者」が 3 拍なのでどうしても先頭に 1 拍分の休止が入り、それに続けるのは 4 拍までなので 5 拍あると違和感が生じるのだ。
これを見ると確かに、七五調の本質は四拍子、正確には四拍子を土台とする八拍子と言えそうだ。
ところが、「言語」1999 年 5 月号で俳人の松林尚志がこの七五調四拍子説に反論している。松尾芭蕉や斎藤茂吉の俳句を調べてみると、7 拍であるべきところが 8 拍になっている場合、それが 4・4 拍に分けられることはほとんどなく、5・3 拍か 3・5 拍になることが圧倒的に多いということが分かったという。しかも、四拍子の観点から言うとリズムが良い歌を、芭蕉は「句に拍子ありて宜 ( よろ ) しからず」と言い、茂吉は「剽軽 ( ひょうけい ) の弊」と言って、切り捨てているのである。つまり先人たちは日本語の四拍子のリズムに気付いていたが、それを意識的に避けているのだ。そもそも四拍子だけを重視するなら、なにも五七五でなくて四や八を繰り返していれば良いはずだ。そうでないということは、仮に日本語の本質が四拍子でも、日本語の詩は四拍子ではないと示唆している。比較的単調な日本語の発音を用いて作詩するときは、「ため」や「はずし」と言えるような、意図的にずらしたリズムが逆により大きなリズムを生むに違いない。すると、四拍子しか気付いていない現代日本語話者は、リズムを感じるしなやかさに欠けているのかもしれない。考えてみれば現代音楽は四拍子がほとんどだ。単調さに慣らされてしまったのだろうか。
最近は英語俳句というのがあるそうだが、日本語と英語はリズムも音節構造も異なるため、日本語の俳句とはかけ離れたものになる。詩とは何よりもまず言葉のリズムであるということを日本人はもっと認識するべきだ。英語や中国語など、ほとんどの言語では詩の定型が厳しく決まっており、音節数や脚韻が重要である。日本語では脚韻はほとんど使われないが、発音が単純な日本語で脚韻を踏むと快いリズムよりむしろ単調さを生むからに過ぎない。また日本語の五・七・五拍はかなり厳しい字数制限だが、英語の五・七・五音節は全然きつくない。五・七・五を連ねれば何語 ( なにご ) でも俳句になるわけではない。
通常の文章を日本語のリズムを使って書き換えれば何らかの詩的効果があると期待できる。例として日本国憲法前文の出だしの部分を使ってみよう。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
まずはこれを七五調で書き直すと次のようになる。
日本 ( にほん ) 国民は 正当に
選挙されたる 国会の
議員を通じ 行動し、
われらとわれらの 子孫らに
諸国協和の 実績と
自由の恵みを 確保して、
政府によって 戦争の
惨禍を起こさぬ 決意をし、
ここに主権が 国民に
存することを 宣言し、
この憲法を 樹立する。
七五調に合うように適当に語彙を変えた。確かに耳になじんだリズムがあるが、何となく遅すぎる気がする。現代音楽風に、四拍四小節にすると下のようになる。休まずに素早く発音して欲しい。
われわれ 日本 ( にっぽん ) 国民 すべては
正規の 選挙で 選出 されたる
議員を 通じて 国事に 参加し
われらと われらの 子孫に 対して
諸国の 民との 協和の 成果と
わが国 領土の すべてに わたって
自由の もたらす 恵みを 確保し
政府の 行為で 戦 ( いくさ ) の 惨禍を
再び 起こさぬ 決意を あらわし
ここにて 国民 主権を 宣して
これなる 憲法 樹立を 行う。
確かに速さを感じるが、この形態で何千何万という詩を書いたら飽きそうだ。では今度は意図的にリズムを崩した五七五七七の短歌を繰り返してみよう。
日本 ( にっぽん ) の 国民はすべて 正当に
選んだ議員を 通し行動し、
諸国との 協和の成果と 自由が生む
恵みをわれらと その子らに与え、
政府による 戦争が生む 災いを
二度と起こさない 決心を示し
この場にて 主権在民を 宣言し、
この憲法を 確定する。
大分良いリズムになった。特に「通し行動し」のところと「主権在民を」のところのリズムが良いと思う。前者は「タンタタンタンタ」、後者は「タタンタンタンタ」という、四拍子の「タンタンタンタン」というリズムからずれた感じを持つので面白いのだと思う。
俳句は五七五と短いので四拍子の影響を受けやすく、分かりやすいが単調なリズムに陥りやすいといえるが、和歌は五七五七七と長いので意図的なリズムずらしを入れやすく、面白いリズムにできるのだと思う。だから現代では俳句よりも短歌のほうが新鮮な感じがするのかもしれない。
参考文献:
川本 晧嗣、日本詩歌の伝統−七と五の詩学、岩波書店、1991、ISBN 4-00-001688-1
松林 尚志、短歌・俳句のリズムについて、言語 1999 年 5 月号、大修館書店、1999
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