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davrayの日記 | スラド
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davrayの日記: Love Me Two Times

日記 by davray
 やっぱり春は、別れの季節なのか。

 出会いがあるからこそ 別れもあり、別れがあるからこそ 出会いがあるのかもしれないが。



 私が管理人代行をしている、とある雑誌の Web サイトがある。 私も以前は、そこにコラム (のようなもの) を定期的に書いていた。

 もうひとり、定期的にコラムを執筆する大学生がいたのだが、この春卒業を機に、連載を一時中断したい、と言われた。

 その新社会人となったかれ。 書き始めたばかりのころは、「甘いなあ」 という部分があったり (えらそう)、 ううむ、と首をひねってしまうものも なきにしもあらずであったが (尊大)。 いくつか書いていくうちにどんどん上達し、そのサイト内では、一目置かれる存在にまでなった。 文章の上手下手だけではない、感性の鋭い若者特有の 「いきおい」 のようなものがあって、それも魅力のひとつなのだろう、と思う。

 私自身であるが、そのサイトで書きつづけることに、いつしか疑問をいだくようになっていた。 いや、それなりに反応してくれる人もいるし、そのサイトを通じて知己となった人もいる。 まあ、そこそこ楽しくもあった。 ぬるい、馴れ合い ( ... revised 22 March, 2004) の関係が。 しかし、いつまでもこの状態に甘んじていていいのだろうか? と、考えると、どうしてもいたたまれなくなってしまった。 こんなおれが、管理人風を吹かせて、勿体らしいことを書きつづけていていいのだろうか? と。

 そうだ、コラムの更新は、若くて、書きたいことが山ほどあるような かれ に任せて、おいらはちょいと外へ出てっちゃえ ! と、そのサイトをほったらかしにして、余所 (このページのこと) で書き始めるようになった。 大学生のかれは、期待に応えるかのごとく、定期的に質の良いものを上げてくれていたので、そのサイトに関して、気がかりはあまりなかった。 おれなどいなくても大丈夫だ、と安心しきっていた。

 それだけに、かれの連載休止宣言は、正直、痛い。



 元来、マルチタスクが苦手である。

 根が単純なせいか、複数の場所に書きつづける、ということができない。 まあ、そんなにたいそうなモノを書いているわけではないが、私の性格上、どちらかがおざなりになるだけでなく、どちらもが ずさんなものになってしまう可能性が高い。

 なんというか、うまいこと加減することができないから、どうしても一点集中型になる。 「100」 か 「0」 か。 「皆」 か 「無」 か。

 これは、仕事でもそうだし、恋愛でもそう。 付き合っている人がいても、ほかに気になる人ができたら、もう、新たな恋に一直線 ! という感じになる (ぇ?)。 なんというか、「二股をかける」 とか 「二足のワラジ」 とか 「二兎を追う」 とかいうことができない。 どちらも失いそうで、こわいのかもしれない。 まあ、きっと、臆病なのだろう。

 そんな臆病者ゆえ、ほかのところで書きものをつづけているあいだは、そのサイトでの執筆を再開しようとは、まったく思っていなかったのだが ... 。 どうしたものか。

 The DOORS の 「Love Me Two Times」 の歌詞が頭をよぎる。

二回愛してくれよ
おれがどこか行っちまう前に

 もっと かれを大切にしていれば、良かったのかな。

 「ほんとうに大切なものは、失ってからわかる」。

 失うまえに、去っていくまえに、もっとかれを 「可愛がって」 あげていれば、良かったのかな。

 ― でも。 やっぱり、どんなにつなぎとめる努力をしていても、どんなに 「愛して」 いても、やはり、去っていく人は去っていくのかもしれない。 そして、残る人は残るのかも。

 それは、その人にしかわからない。 去ることにはそれぞれの事情があり、残ることにもそれぞれの理由があるのだろうから。

 とりあえず、私は、「お待ちしています」 という一言だけを送り、かれが自らの意思で戻ってくる (かもしれない) のを、気長に待ちつづけるほかはない、のか。

梅が香に昔を問へば春の月 答へぬ影ぞ袖にうつれる
(藤原家隆)

631584 journal

davrayの日記: She Belongs to Me

日記 by davray
 「一度好きになった人のことは、嫌いにはならない。 だから、あなたのことは、ずっと好き。 たとえ、あなたとは結婚できなくても ... 」

 ― なあんて言われたことがあったなあ。 とても好きだった人に。 (遠い目 ... )

 と、まあ、そんなことはどうでもいいとして。 私も、一度好きになった人のことを、嫌いになることはほとんどなく、いまでも好きな人ばっかり!だ。

 これは、恋愛の話だけではなく、Web 上でのつながりでも、そうかもしれない。



 先日、あるメールを受け取った。 二年ほど前まで定期的におとずれていた Web ページの執筆者の方から。 ひさしぶりに。

 そのページはテキストが主体。 教育に関する論文から、流行、ロック、テレビ番組、松屋の牛丼に関する話題まで、さまざまな思考の奔流を垣間見ることができるのが魅力で、なんだかすごい人がいるものだなあ、と感嘆してしまい、感想メールを送ってみたところから、執筆者の方との交流がはじまったのだが。

 ちょっとしたすれちがいから、メールのやり取りをしなくなって、それ以降、ページをおとずれることもなくなってしまった。

 きらいになったわけでもないのに。

 ただ、なんというか。 道端でほんのいっしゅん すれちがったけれど、かのじょとは、行き先がちがうのかもしれない、あるいは、別の道順をたどるべきなのかもしれない、はたまた、歩く速度がまったくちがうのだ、と思ってしまったからかもしれない。

 じぶんとは考え方のちがう部分がある、じぶんには理解できない部分がある、というだけのことであって、メールでのやり取りはしなくなっても、かのじょの書く文章は好きなのだから、ページを見なくならなくても良かったのではないか ... ? 今になってみればそう思うのだが、そのときはまだ餓鬼だったので、なんとなくページをおとずれるのが億劫になってしまった。

 夜更けにネットサーフィン (死語か) とやらをしながら、ふと、かのページのことを思い出して、いっしゅんページを開こうとするのだが、やはりやめておこう、と思いとどまり、ぜんぜん関係ないページを見て、忘れてしまう。 そんなことを繰り返しているうち、かのじょのことも、かのページのことも、記憶の彼方に追いやられてしまった。

 それから二年のときを超えて、届けられたメール。 「ふと、*** さんのことを思い出し、お元気だろうかとメールを差し上げた次第です。」 「私のほうは、なんら変わりなく、教え、飲み、書き、バイクで走ったりなどしております。」 という内容だったのだが。

 まったく変わっていなかった。 メールアドレスも、署名も、文体も。

 私は、どきどきしながら、--- 文学的な表現をするなら 「そのとき davray は、ふるえる手で」 とでもいったところか? かのページ (URL も変わっていなかった!) を開いてみた。 やはり、まったく変わっていなかった。 もちろん、コンテンツは増えてはいたが、ページのデザイン、色、構成などもまったく同じだった! そのコンテンツも、相変わらずの視点で、相変わらずの文体で、書かれていた ― 。

 ここまで、同じことをやりつづけているかのじょには、やはり、かなわないな、と思った。 太刀打ちできない。 かのじょは、きっと、これからも、ずっとそうなのだろう。 そう思うと、ある意味、小気味よくもある。

 多少のおどろきをおぼえながら そのページを閲覧していて気がついたのは、やはりそのページが好きだ、ということか。 感嘆してメールを出してしまうくらいだから、それは、そうだ。 そう簡単にきらいにはならない。 きっと、何年経ってもずっと好きだろうと思う。

 かのじょは、「どれだけの人が見ているのかは興味がないので、カウンターはつけていません」 「アクセスログも取っていません」 と言っている。 きっとその通りなのだろう。 だから、私がまたページを拝見するようになったことに、気づいていないかもしれない。

 けれど、ずっと変わらずそのページが好きだという人や、いっしゅん離れたけれど、また舞い戻ってくる人もいるのだ、ということを知ったなら、きっとかのじょは、ほんのりと、よろこぶかもしれない。 と思った。
631625 journal

davrayの日記: Aftermath

日記 by davray
 某社の とある事件以降、わが社でも、情報管理体制がきびしくなった。

 情報資産 (「企業の情報となりえるもの」 をさすらしい. よって机や文房具、ごみ箱のほか、風聞、そして私たち人間まで 「情報資産」 となりえるとか) から、おのおのの PC のスペック、インストールされているアプリケーションの種類まで、さまざまなリストの提出を求められた。

 (その際、PCView というコンピュータの情報収集ソフトを使用した. 便利なものがあるものだ)

 そのうち、こうやって、会社から Slashdot Japan にログインし、日記 (のようなもの) を書き込む行為も 「情報漏洩につながる」 として、できなくなるのかもしれない。

 そうして、あれもこれも、と排他するうちに、閲覧できる Web ページがなくなってしまうなんてことや、仕事に関係のない文書の作成も制限されたりして。



 こまったことに、私は、会社で書きものをすることが多い。 この日記 (のようなもの) やら、いろいろな走り書きやら ... (ぉ)。 当然ながら仕事もしているが、気分転換とか休憩をかねて、いろいろと思ったことやら思いついたことなどをメモ帳に書き連ねているのだ。 まあ、私は喫煙しないので、会社の人には、たばこ休憩のかわり、とでも思っていただけるとありがたいのだけど ... 。

 なぜか、家にいるときは、あまり書く気がおこらない。 会社にいる時間がもっとも長いせいかもしれないし、自宅の環境が悪いせいかもしれない。 いずれにしても、自宅の PC から送信することはあっても、たいてい、会社でこそこそと書いていたものをそのまま、あるいは少々手を入れて送っているだけだったりする。

 (そして、あとで、変なこと書いてなかったよな ... と、ふと読み返して、はずかしい思いをすることもある. じぶんでは充分推敲したつもりでも ... )

 今後は、そういったこともできなくなるかもしれない。 それもまあ、しがない雇われプログラマなので、仕方がない。 いままでが野放図状態であったのだ。 思い残すことがないよう、いまのうちに、いろいろ書いておこうか ... 。



 けれど、ほんとうに書きたいことがあれば、どんな環境ででも書けるはず、という気もする。 会社で書けなくなったとしても、もし、ほんとうに伝えたいこと、残しておきたいことが湧きあがってくれば。 それが、書きつづけようという動機づけになるのだろうか。
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davrayの日記: つづれおり

日記 by davray

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
(在原業平)

 わたしが、たまに足をはこぶサイトで、ものを書いていたひとが、去っていった。

 わたしは、かのひとが落としていく言葉の珠を、ていねいに ていねいに、拾い上げては、つなぎ合わせ、数珠のように、首飾りのように、身に着けてみたりした。 ほんのすこし誇らしい気持ちになった。

 もっともっと、首飾りがほしくなった。

 かのひとは、それがまるで、じぶんに課された使命ででもあるかのように、しずかに しずかに、記録を重ねていった。

 とうぜん、わたしは、首飾りのコレクションを増やしつづけることができるもの、と思っていた。





 あのひとは、"かぐや姫" だったのだろうか。 あるいは、"つる" だったのか。

 季節はずれの雪のように、とつぜん、ふわりと舞いおりて、春のおとずれを告げる疾風のように、とつぜん、さらりと駆け抜けていった。





 わたしは、見てはいけない、と言われていたものを、見てしまったのだろうか?

 おのが身をけずるような辛苦をなめながら、言葉をつむぎつづけることに疲れてしまったのだろうか?



 ― いまごろは、月のうえで、うさぎとたわむれてでもいるのだろうか?

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davrayの日記: Thank U 2

日記 by davray
 三月九日は、「サンキューの日」 だったけど。

 いったい、なにに感謝しただろう?

 ところで、私は、ロック好きを公言しちまっているのだが、シンガー・ソングライターの歌も好んで聴いている。 シンガー・ソングライターにもいろいろあるが、とくに、情念の濃そうな女性を選ぶことが多いみたい。

 Fiona Apple しかり Ani DiFranco しかり Laura Nyro しかり Nina Simone しかり ...

 情念のなかにも、そこはかとないユーモアや "comical" さ、"funny" さ が漂うところが、かの女たちの偉大なところか。

 Liz Phair や Tori Amos や Cassandra Wilson なんかも好きだ。

 それから、Alanis Morissette も。

 この人の場合、情念が濃すぎる向きがあるので、好き嫌いがはっきり別れるかもしれないけれども。

 この人の 「Thank U」 という歌がとても好き。

thank you india
thank you terror
thank you disillusionment
thank you frailty
thank you consequence
thank you thank you silence

 「真の友情とは、果実が熟するように、機熟して相会うものだ」 とかいうことを言っていた人がいたけど。 だれだったか、失念。

 かつて、私が失意のズンドコにいたとき、友人たちは、そっと見守っていてくれた、ということがあった。 その沈黙が、私にはありがたかった。

 まるで腫れ物にでもさわるように、気を遣われてしまうと、逆にどうしていいか、わからなくなる。

 「善意がもっとも人を傷つけるものだ」 とか言っていたのは、たしかヴァレリーだったかしら。

 想像だけど。 わが友人も、きっと、もろさや恐怖心をもち、いろんな結論やら幻滅やらを重ねながら生きているのかも。 ほんとうに失望したとき、必死のとき、驚いたとき、かなしいとき、私は言葉を失ってしまう。 なにも語りたくなくなってしまう。 そういったものを汲みとって、友人たちは、沈黙というやさしさを示してくれたのかもしれない。 思うに沈黙を守りとおすというのは、とても勇気が要る。 そして根気も。 意気地なしで弱気の私には、無理かもしれぬ。

 うん。 そうだとしたら、友人に感謝、かなあ。

 まあ、人を傷つけもし、人から傷つけられもし、自分で勝手に傷つくこともある。 だからこそなのか、人をよろこばせもし、人からよろこびを与えられもし、自分で勝手によろこぶこともある。 失望があるからこそ、希望もあり、幻滅があるからこそ、幻想もあり。 そんな人生ってやつに感謝してみようかね? ( ... くっさー)

632941 journal

davrayの日記: Nobody's Fault But My Own

日記 by davray
 先日、

 「すさまじい」 という言葉を使ってみて、

 「すざまじい」 とか 「すざましい」 という言い方もあるのか? と思い、例によって、Web 検索した。

 ― ふうむ。

 「すざまじい」 のほうが、ほんとうに 「凄そう」 な感じがするから、話し言葉としては、私も使っているかもしれない。

 たまたま まちがえずに済むこともあるが、うっかり八兵衛する可能性もある、ということか。

 やっぱり、ふだんから、「話す」 と 「書く」 を統一して、気をつけていたほうがいいのかなあ ... 。





// ちなみに、少しまえ、「こぢんまり」 というのを 「こじんまり」 と書いてしまった (およよよ)。
// なるべく漢字を使わないようにして誤変換を防ごうとしたり、読みをまちがえないように注意もしているつもりだけど、これじゃあね ...
typodupeerror

皆さんもソースを読むときに、行と行の間を読むような気持ちで見てほしい -- あるハッカー

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