vishaの日記: 道具が目的化 3
日記 by
visha
目的化までいかなくても、道具や手段であるはずのものがそれ以上の存在になってしまう例は多々あるわけで。典型的な例は楽器でしょう。トップクラスのミュージシャンですら、楽器や機材が道具以上の何かになっている人というのは珍しくありません。というか、純粋に道具として割り切ってるミュージシャンなんてほとんどいないんじゃないか? カメラマンのカメラやレンズに対する態度もおそらく同じ。他にもありそうだよね。プログラマのプログラミング言語に対する態度もそれに似てるんじゃないかな。客観的基準だけでは価値が割り切れない(ところもある)点が、共通してるんだろうか。
ということを、bash氏の日記を見て考えました。わたしはそういうプログラマの特性に便乗する形で仕事をしている側面もあるので(プログラミング言語の書籍を出すってそういうこと)、あんまり「割り切っちゃえよ」とは言えないのですが(笑)。
個人的には、若くて時間も体力も有り余っているときならいざ知らず、どちらも有限な資源であると切実に感じる歳になってきたので、機材や言語にこだわる時間が惜しくなってきました。どうでもいいとは言わないが、「その道具が充分以上によいものなら、後はそれで何を作るか(演奏するか)にエネルギーを向けたい」ってことです。一人の人間であっても、その人の置かれている内的外的状況によって態度が変わってくるんじゃないかな。
道具は、道具なだけじゃないけれど、道具だ (スコア:1)
ピアノは「楽器」という道具だ。だから初心者が「演奏方法を習う」ための道具としてピアノをみた場合、あるピアノと別のピアノの間に大きな差は無い(サイズが違うとか重さが違うとかそういうのはあるけれど)。
しかし、「楽器を使いこなす」という過程で、演奏テクニックとかそういうのをある程度きわめて行くと、「そもそもピアノはどういう風に音を出しているのか」とかそういう、「ピアノの根本原理」への理解が必要になるし理解の助けにもなる。もちろん、ピアノを理解する過程でオルガンも理解できるようになるだろうし、ハープシコードとの違いなども知りたくなるだろうし。
で、ピアノも、異なる楽器も理解してから。ピアノに帰ってくる。すると演奏レベルが上がっている。演奏レベルを上げるにはどうすればいいのかが判っている自分に気がついたりする。そうなったピアノはもはやあなたの体の一部だったりもする。
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ピアノは「楽器という音を出す道具」だけれど、「音を出すとはどういうことかを理解するための道具」だったりもする。
演奏する、音を出すことにばかり執着しているとどうしても進歩が止まる。そういう人は「ピアノは道具に過ぎないよ」とアドバイスを受ける。その裏にある「音を出すとはどういうことかを理解する必要があるよ」という事は、自分で理解しなくてはいけない事だ。
プログラミング言語も同じだと思う。実装したいものを作るための道具でもあるが、その言語がもっている概念を理解するための道具でもあり、概念をどうやって実装するか理解するための道具でもある。そういう「メタレベル理解の道具」としての側面を理解しないとレベルは上がらないと思うし、そこに到達したらプログラミング言語は単なる「道具」以上の何かにもなる。つーか、そうならないと「何か」にはならないと思う。
fjの教祖様
Re:道具は、道具なだけじゃないけれど、道具だ (スコア:1)
うん。ごく一部を除くとピアニストというのは「表現の場で自分の楽器を弾けることは滅多にない」というちょっと特殊な演奏者なのでまた話がややこしくなっちゃうんですが、概ね同意します。初心者とヴァーチュオーゾとでは、同じ「ピアノは道具に過ぎない」という言葉の意味するところは違います。明らかにね。プログラミング言語でも、細かいところは置いといて、コアの概念は似たようなもんでしょう。
でも、初心者とヴァーチュオーゾの間にいる大多数の人たちの中には、そうした道具を自らのアイデンティティの一部と同一視する(あるいは重ね合わせる)人が少なくない。よく、「Ruby教徒」とか「Lisp教徒」なんて揶揄されるのはそういう例だと思うんですが、同じようにミュージシャンの中(身近なのはギタリストですが)にもFender教徒やらGibson教徒なんて言われちゃう人もいる。たぶん、「道具に何を過剰な思い入れをして」「道具を目的とはき違えて」と言われちゃうのは、上端下端の人たちではなく、その間にいるこういう人たちなんだと思う。この段階を経て上に行って悟りを得るのか、この段階に留まっちゃうのか(そして脇道に逸れていっちゃうのか)、人にも状況にもよるんでしょう。もちろん、そもそもそこまでの感情を道具に対して抱かない人もけっこういるんだと思いますが。
;; オチは別にないんです。最近、自分の音楽熱がぶり返しているせいで、ふと似てるなぁと思っただけ。
;; ここまで書いてきて、ひょっとして、わたしが違うプログラミング言語(RubyとLispとか)というものを違う楽器(ギターとピアノとか)になぞらえていると思われているのかとはたと気づいた。わたしが念頭に置いていたのはどちらかというと、同じ種類の楽器の中での個体差とか作家/メーカーの違いだったんですが。
Re:道具は、道具なだけじゃないけれど、道具だ (スコア:1)
そうじゃない人は「その言語しか使えない人」でしかない。
Lispは一周した後に「帰ってきた」人が多いと思う。
Rubyはどこかで一周した人が「流れてきた」ケースが多いと思う。
PHPはまだ周回していない人たちが多いと思う。
perl はまだ周回している人たちと共に歩む、ペット (NetHack の世界をさまよってるような感じ)それは Lisp と scheme と Common Lisp との差、とかそういう話になるのではないか、と。
重要じゃない、という意味ではなく、何周かしているとそれぞれの違いが重要になり、あなたの考え方とフィットする方言があなたにとってのベストマッチになる。
しかしじゃぁ scheme を書ける人が lisp をかけないかと言うとそんなことは絶対無いわけで。同じ種類の楽器の中の個体差も同じで、「選べるならばこっち」というのがある、と言うのは相応に鍛錬した証拠だと思う。
# 「選ぶも何も、こっちしか使えない」との差は大きい。
fjの教祖様