ウィンターコスモス
レグルスへの折檻はいつも、納屋に投げ込まれる事で終わる。
家事の手伝いに不備があったとか、相手の機嫌が悪かったとか、ただそこに居たからとか。色々な理由でレグルスは青痣やこぶを作り、狭い納屋に閉じ込められて、反省を促される。
最初の内は暴力に抵抗していたが、ストレスで髪が白くなった頃には全てを受け入れていた。
全身の痛みで暫く動きたくなかったレグルスだが、突き刺すような寒さに身じろぎをする。
このまま暖を取らなければ、凍死するんじゃないか。ぼんやりとそんな事を考えていたレグルスの耳に、女性の声が届く。
家族の誰でもない。近所に住む幼馴染のものだ。
幼馴染は外側に立てかけられたつっかい棒を外し、納屋の扉を開ける。
寒い訳だ。背景は真っ白な雪景色になっている。ぱらぱら降る雪が、風に乗って納屋の中に入ってきた。
「一緒に逃げましょう」
手を差し伸べる幼馴染に、ボロボロの少年は首を傾げた。
「今の髪色も、雪みたいで綺麗よ」
村を飛び出して幾許が経ったか。未だ春の兆しを見せない雪道で、幼馴染はそう呟く。
「こんな物の、どこが良いんだい?僕たちが生まれ持っている体温を無遠慮に奪って、あまつさえ我が物顔で居座る侵略者みたいなものじゃないか」
「風情が無いなぁ」
フゼーなんて知らない。穀潰し風情と呼ばれた事はあるが、彼女にそんな意図があるとも思えない。
「まぁ、そこは追々培っていけば良いから。まずは傷を癒せる場所を探しましょう」
それだけ言って、幼馴染はまたさくさくと先を行ってしまう。
滑り止めの草履の足音が二つ。それ以外は、吐く息すら雪が吸い込んでいく。
静寂な銀世界は、まるでこの世界に二人しか存在していないような。自分の権利を侵害する者なんて、誰もいないような。
そんな安心を錯覚できて、レグルスはほんの僅かに微笑んだ。笑ったのなんて何時ぶりだろう。
「別に、悪いとも思ってないし」
「本当?」
「あぁ、怪我は冷やせるし溶かせば飲み水になるしね」
「…次からはちゃんとした水を用意するわね」
雪みたいで綺麗と褒めていた口が、暴言を吐くようになったのは、いつからだったか。
労わるように頭を撫でていた手が、暴力を振るうようになったのは、いつからだったか──
我に返って青ざめて、うわ言のように謝罪を繰り返す幼馴染を宥める。
「君は僕に傷なんてつけられないんだから大丈夫さ。君の手を弾かない為にお互いの時間を停止させてるから衝撃はくるけど、痛みは全く無いんだよ、本当さ。本当に、大丈夫だから」
──そうだ、レグルスが権能を発現させた頃、魔女教の福音書が手元に届いた頃からだった。
無欲で謙虚が自認のレグルスにとっては、要らぬ標なので無視していたが。
幼馴染はある日ついに、包丁をレグルスの胸に突き立ててきた。
勿論、刃先は心臓どころか服すら貫けない。
だが殺そうとした事実は、ここまで擦り減らされてきた幼馴染の心を砕くのに、充分で。
分からない。どうして彼女が悲しそうな顔をするのか、レグルスには分からない。寧ろそんなに顔を歪めたら可愛い顔が台無しだよと、口を開きかけた刹那、
幼馴染は刃を自分に向け、首を掻き切った。
これ以上レグルスを傷付けたくないと取った行動が、彼の心に消えない傷を残すと、彼女は『気付けなかった』
「ごめんなさい…あなたを、愛してたわ」
それを最後に、幼馴染は事切れる。
ようやく手に入れた新たな住まいの床に、彼女の血溜まりが広がっていく。膝から崩れ落ちたレグルスの衣服を染めていく。
幼馴染の亡骸を呆然と見下ろしていたレグルスの心臓から、不意に痛みが這い上がる。
「───。─────?────、──?」
普段ならいくらでも溢れ出す言の葉が、どれだけ口を動かしても、つっかえて出てこない。
痛い。痛い痛い痛い。父親に殴られても母親にぶたれても兄弟たちに蹴られても、こんな耐えられない痛みはなかった。
彼女は最期に、愛してたと溢した。つまり愛とは、暴力の一種である。
ひとしきり無音の慟哭を吐き出して、レグルスは結論付けた。
「だったら僕は、もう誰にも愛されなくて構わない」
今日も今日とて、百何十人目かの妻を娶る。
妻に課す条件は一つ。自傷と自死の禁止。
最初に心臓を預けていた幼馴染が妻の立場にいたせいか、同じ立場の者にしか預けられなかった。
心臓を妻たちに預けると、レグルスの感情が揺らがなくなる。あの胸の痛みも、きれいに消え去った。
色欲に「人形みたいで気味の悪いクズ肉」と蔑まれようと何とも思わない。
暴食に「ペラペラの真っ白な皿だけの奴」と呆れられても通じない。
怠惰に「何故そうも寵愛を拒絶するのデスか」と詰め寄られてもどうでもいい。
憤怒の「貴方は誰とも一つになれないんですね」という哀れみの目もよく分からない。
どんな言動にも、レグルスの感情は左右されなかった。
「どうして奥さんたちの事を、番号で呼ぶの?」
夜の帳が下ろされたプリステラ。その三番街にある聖堂に、凛とした声が響く。
空席だった79番目の花嫁、否、新婦のドレスを纏ったエミリアの瞳が、新郎を真っ直ぐ見据える。
「僕が家族に呼ばれていたからだよ。今は何とも思わないけれど、かつての僕はそれなりに癪に感じていてね。だから嫌われるのには手っ取り早いだろう?まぁ、大罪司教なんて都合の良い役職を持ってる時点で充分だろうけど、念には念を入れて損はないじゃないか」
表情の抜け落ちた青年が、口角を無理やり上げて笑顔を貼り付ける。
「嫌われる為?どうしてわざわざ、そんな悲しいことを…そんな事の為に、貴方は奥さんたちを縛り付けていたの⁉︎」
「普通に攫うとね、稀に好意を寄せてくる妻が居るんだ。きっと僕と同じか、それ以上に酷い環境に身を置いていたんだろう。でも愛だけは頂けないな。アレは世界で最も悍ましい暴力だ。身を内から蝕む猛毒だ。火の粉が降ってきたら反射的に振り払うだろう?僕がやっているのはそれと同じさ」
目の前の花嫁が何に困惑しているのか、レグルスには理解出来ない。
「貴方は自分しか信じてない。どうしてそうなったのか私には分からないけど、間違えてる事は分かる。結婚は愛し合った二人の、信じ合った二人の、幸せの証だから」
エミリアの言葉は、レグルスには響かない。怒りや苛立ちも湧きはしないが。
きっとこれからも、この心は凪の静寂に満ちているのだろう。
…凪だったか?何か、他にもっと適切な天気があった気がしたが…もう思い出せない。
剣聖との戦闘中、何かが自分の中に宿った気配がした。否、戻ってきたのだ。心臓が。
獅子の心臓が解けたタイミングで、ラインハルトの一撃をくらい吹っ飛ばされた。
久方ぶりの痛覚にレグルスは驚愕する。そう、驚愕したのだ。
百数十年ぶりに脈打つ心臓が体中巡らせるのは、血流だけではない。
駆け巡る感情の波に、レグルスは動けなくなる。
「何故、何で、今更、こんな、ふざけるなよおかしいだろ⁉︎」
機械的だった声音は崩れ、能面が引き剥がされた青年の喉元に、ラインハルトは鞘に収まったままの剣を突きつけた。
あぁ、そういえば、家族にも幼馴染にも、包丁を突きつけられた事があった。
かちかちと、音が鳴る。
自分の歯が鳴らしているのだと、遅れて気付いた。
フラッシュバックする恐怖で思考が飲み込まれていく。
「僕は、僕は悪くない、悪くない、違、違う違う違う!次はちゃんとやる、やれるから、もう、やめてくれ…やめて、くれ」
普通なら、余裕と無敵を剥がされた敵の命乞いにしか捉えられない。だが余りにも真に迫っているよう見えるのは、己が未熟だからか?そうラインハルトの動きを止めたのは、ほんの束の間。
まだこいつの権能は、都市を更地にするだけの力を秘めているのだから。
剣聖の一撃が、無慈悲にレグルスの意識を刈り取った。
レグルスへの折檻はいつも、納屋に投げ込まれる事で終わる。
運んだ薪の数が少なかっただとか、椅子に座っていたからとか、村人の前で恥をかいたからとか。
色々な理由で暴力に晒された後、暗い納屋に閉じ込められ、反省を促される。
全身の痛みで暫く動きたくなかったレグルスだが、突き刺すような寒さに身じろぎをする…いや、出来ない。指の一本だって動きやしない。
このまま暖を取らなければ、凍死するんじゃないか。このまま目を閉じてしまえば、そしたらまた、幼馴染に会えるだろうか?あの雪世界に、また行っても構わないだろうか?
行ってどうする。加害者の方が苦しそうな顔をする暴力なんて二度とごめんだ。彼女がそんな加害者に落ちる様なんて見たくない。
あんなのおかしいだろう……そう、おかしい筈だ。
「どうして僕は…『疑問に思わなかった』んだ?」
ぼんやりとそんな事を呟いたレグルスの耳に、扉の向こうから少年の声が届く。
「言えたじゃねぇか」
幼馴染のものじゃない。
「さては、好きな子と喧嘩した事ないな?お前」
どこかで聞き覚えのある、耳障りなうざったらしい声。
「僕と彼女の関係がそんな無駄な暴力行為に耽ると思うのかい?それってさ、殆ど初対面な僕たちに失礼じゃないかな?」
「そりゃ必要ないならしないに越した事ないだろうけどよ、しなきゃいけない時は逃げちゃいけねぇのも喧嘩なんだぜ?」
例えばレグルスの家族が虐待をしていなければ、幼馴染も彼の性格に喧嘩腰になったかもしれない。
けれど喧嘩をするには、レグルスの体は余りにボロボロで、幼馴染の心は余りに優しくて。そんな日が訪れるより先に、全ては途絶した。
「上から目線で煩いんだよ…だったら僕は、どうしてやれば良かったんだ」
問いに答えるように、納屋の扉が開かれた。
牢屋で目を覚ましたレグルスの周りには、彼を眠らせていた氷が散らばっている。
眼前には、ナツキ・スバルとエミリアが立っていた。
水門都市の襲撃から、一体どれ程の時間が経ったのか、彼には分からない。
「どうしてジュースはフォルトナ母様を見間違えたのか、どうして貴方の幼馴染は貴方を傷付けてしまったのか、私たちはそれを追わなくちゃいけなくなったの」
プリステラの一件からさらに、いくつもいくつもいくつも死線を潜り抜けた後の彼女は、はっきりと口を開く。
「虚飾の魔女について、知っている事を教えてほしいの」
凍結によって一時的な仮死状態に入っていたせいか、体内から強欲の権能は抜け落ちている。
レグルスに逃げる術は無い。犯した罪に対し、どれだけ情状酌量しようと、極刑は確実だ。
「どうせ死ぬ身の上で、君たちに協力して何にもならないだろう」
レグルスの人生を歪めた存在、間接的な幼馴染の仇敵パンドラの情報。それに釣り合う見返りは、
「けど、お前が作った墓に供える花くらいは、選べる」
「────。」
スバルがどうやってその情報に辿り着いたのか、レグルスは知る由もない。
それでも、
今のままでは、好きだった子に会わせる顔がないから。