はてなキーワード: 放置とは
40代前半くらいが「自称イクメン」「遊びに付き合うだけでオムツ交換や夜泣き対応のような本当にキツいことはやらない」とむちゃくちゃ叩かれていたのに対して、
今の30代の男性って結構ちゃんと育児をやっている気がする。映えるところだけじゃなくて、他人に認められにくいキツいところまで。
あと今の30代の親世代ってバブル世代で、意外と父親が関与しているというか、完全放置と無関心ではなかった傾向を感じるんだよね。
エヴァンゲリオンのゲンドウが団塊ジュニアにとっての父親像だとしたら、30代にとっての父親像ってもっと子供に関心持って絡んでたというか、もっと野原ひろしっぽいというのかな。
それより下の世代になると、生き延びるのに必死な両親に放置され気味の氷河期ジュニア世代になってきて、また別の光景が広がってる。
はてなでは子として団塊を糾弾する団塊ジュニアの声が大きいけど、Z世代が子として団塊ジュニアを糾弾しだすのも秒読みというか、もう始まってる気配はする。
多分団塊ジュニアよりずっと、30代男性(ゆとり世代)のほうが育児してる。ゆとりもリーマンショックとか食らっているんだけど、たぶん、氷河期世代はゆとりは楽に生きてきたといって叩くんだろうけど。
それで匂うってお前何食ってんの?って感じだわ
昼過ぎ頃に布団から這い出るも思考に靄がかかっていて体が重くて気持ちが悪かった。
先月くらいから抑うつ状態が悪化している自覚があった。おそらく冬季うつというやつだ。
私は気分変調症を患っており年中うっすら抑うつ状態が続くのだが、時期によって程度がまちまちなのだ。
お腹が空いてはいるが何を食べればいいか思考がまとまらなくて、とりあえずお菓子を食べた。
気持ち悪さが増した。
前回不調でキャンセルした精神科受診の振替日だったのだがあまりにも体が動かなくてすっぽかした。
休職している職場から休職延長の診断書を取得するよう言われているのに。
気がついたらそのまま眠っていて病院の電話対応時間が終わっていた。
胃があまり動いていないようで昼に食べたカレーがそのまま出てきた。
クレカの引き落とし日が迫っているがまだ口座に入金をしていない。
通院のついでにするつもりだったから。
明日の私が動ける保証が無さすぎるので這うように外出の準備をして真っ暗な外に出た。
無性に死にたくなった。
そのためほとんど死にたい気持ちになることはない。(なっても実行する気に全くならない)
でも今日は世界がいつも以上に冷たく見えて、死の感覚が私の背後にそっと寄り添っていた。
寄り道せずまっすぐ帰路についた。
「たとえば今夜眠って目覚めた時に起きる理由がひとつも見つからない朝が来たら私はどうする」
歌詞を聞いて涙が出てきた。
激鬱の時に聞く「きゅうくらりん」はこんなにも響くものなのだ。
同時に、成功しても失敗しても良い結果にならないんだよなと思った。
玄関の扉を開けたら、猫が扉に張り付くようにして私の帰宅を待っていた。
猫は私を見つめて、たくさん鳴いて、喉を鳴らして、全身全霊で私の帰宅を歓迎していた。
猫はそんな私にまとわりついて体を擦りつけてシッポをピンと立てていた。
だが週末、熊本でなにかあるのか知らんがホテル満室で追い出されたので旅に出る。(泊まれるが法外に高い)
どっちがいいかChatGPTに聞いたら「どっちもいいよ!」みたいなふざけた回答しやがった。
おまえはいつもそうだよ。二択で質問してるのに玉虫色の回答で責任を回避しようとしやがる。
どっちか選べと指示したら「鹿児島」だと答えたので鹿児島に決定、はい責任はChatGPTな。
途中吉野家で朝食をとる。「牛すき鍋定食肉二倍盛り」。朝なのでビールは無し。バス旅でおしっこ危険。
俺は吉野家では「並牛」「牛鮭定食」「牛すき鍋定食肉二倍盛り」しか頼まない。
人生初吉野家から40年間これを貫いている。あと吉野家以外の牛丼屋はパチモノでありクソである。
キン肉マン問題や嫌なら食うな問題などどうでも良い。牛丼は吉野家である。異論は認めない。
吉野家下通店のドアは手動である、なぜ自動ドアにしないのか謎。理解不能。これだけは吉野家を許せない。
熊本の大衆は育ちが悪く品性が低めなので開けたドアを閉めない。ドアをきっちり閉めたら負けだと思っている。
熊本にはそこらじゅうに「あとぜき」の張り紙がある。熊本弁で「開けた扉を閉めろ」という意味だが、
そんな張り紙をあちこちで見かけるほど奴らはことごとく閉めない。
まして吉野家の手動ドアなど完全に閉まることはまずない。閉めろと念入りに張り紙はしているが誰も閉めない。
徒歩、桜町バスターミナルに着くと20分後出発の便がある、鹿児島行きバス路線があるのは知っているが時刻表までは調べていない。
チケットを購入。
旅慣れている俺はファミマで颯爽とお茶とチョコとワッフルを購入。
バスに乗る。
熊本のバスはクソ遅い。市内慢性的渋滞なのに市内から高速道路までのアクセス道路が無い。首都高的な、バイパス的な道路がなく
桜町バスターミナルから熊本ICにたどり着くだけで一時間かかる。新幹線ならもう鹿児島に着いている。
だがバスなら4200円で鹿児島まで行ける、新幹線だと7700円
バス一択である、金は無いが時間はたっぷりある。そもそも急ぎの旅ではない。バスの車窓も含め旅なのだ。
それにしても遅い、市内でいちいちバス停に止まり乗客を乗せる。高速バスなのにぜんぜん高速じゃない。
ようやく高速道路に入り山中をひたすら走り、無駄に鹿児島空港に立ち寄り、3時間半で鹿児島中央駅に到着。14時くらいだったと記憶している。
鹿児島は20年ぶり。今の駅ビルに建て替わる直前の鹿児島中央駅(当時西鹿児島駅)にしか来たことがなく現在の立派な駅ビルには薩摩藩の貫禄を感じた。観覧車もあるし。
駅前をふらついていると市内観光循環バスを見つけた。230円でぐるっと一周できる。80分乗って230円。どう考えてもお得。乗るしか無い。これで主要観光地全部行ったことになる。
乗ってから数分で気付いたが、そういえばこれ20年前も乗ったわ。見覚えあるわ。行動パターンが20年変わってない俺。
西郷どんの洞窟ショボっとか思いつつ、20年前も見たわ、みたいな。
俺は日本全国、世界各地行っているのでたいていのモノは初見でも感動も無いが、二度見であるからさらに新鮮みもまったくない。
16時。アホらしくなり途中天文館で降り(ほぼ一周してる)、銀だこで腹ごしらえ。
安定の銀だこ、どこで食ってもハズレはない。
鹿児島に来たからと言うて嬉しそうに黒豚だの地鶏など食わない。どうせまずい。よくて値段相応
高度に資本主義が発展し、かつ食品の保存、輸送が極限まで進化した我が国。
朝に豊洲で仕入れた魚が午後には那覇空港に到着し空港の中の寿司屋で提供されるのだ。
美味い魚や肉や野菜は大資本が狩り尽くし、一般市場にはそのお溢れしか回ってこない。
地元だから新鮮で高品質で安い、なんて幻想にすぎない。もうそんな時代ではない。
美味いもの食いたきゃ金を出さなければならないし、品質は都会も田舎も変わらない。
ハイボールとたこ焼き、最高であり、庶民の幸福であり、食いながら宿を探す。
宿は取っていない、取れなきゃ満喫でもいいのだ。この時間になるとホテルは空室よりもマシと捨て値で部屋を売り出す。
案の定、東横イン7000円を見つける。予約し銀だこお会計しチェックインに向かう。徒歩5分
ちなみに銀だこのスタッフはみな可愛かった。鹿児島は女子のレベルが高いように思う。熊本には悪いが熊本はアレだ。
熊本は男は扉を閉めない、女はヘチャ。ではいいとこ無しのようだが、俺は熊本が大好きだ。なんなら引っ越ししてもいいと思っている。
息子が友達と離れたくないと拒絶したので断念したが、でもキミクラスで浮いててボッチって嘆いてなかったっけ?まぁいい。
ともかくホテルにチェックイン、暇つぶしにテレビを見る、スマートテレビはネトフリにも対応、颯爽とログインして「斉木楠雄のΨ難」の続きを観る。鹿児島まで来てなにやってんだと思うだろうが、いいのだ。こういうのでいいのだ。
21時。小腹が空いた。週末の鹿児島の繁華街、どんなものかパトロールに出発。
グッと来る店がまったくない、Bar、キャバクラ、居酒屋、なんでもいいから1軒くらいと思ったが、無い。
仕方がないので客がそこそこ入ってるラーメン屋に入ったが、ぜんぜん美味くない。な?だろ?
ホテルに戻り寝る。
朝、さてどこに行くか、ノープラン。アホらしいので即戻りでもいい気がしてきたが、せっかくだし、桜島に行く。
フェリーに乗る。チケットは無く桜島の下船時に支払うという合理的オペレーションはグッドである。そして安い。250円だったか。
金額を確かめようと念の為にググったら検索要約に130円と出てきた。どっからそんな値段が出てきたのか。これだからAIは。
古い値段なのか、小児運賃を誤判定しているのか、意味わからん。
それにしても桜島は偽物である。おまえ島を名乗っているが島じゃねぇじゃん、繋がってんじゃん、現状ただの半島であり錦江湾のノドチンコである。桜半島に改名しなさい。島じゃないんだから。
無論、ただの地名であるという言い訳もありましょう、例えば島原は島でも無いし原っぱでも無い、島が付く地名などゴマンとあり、地名と実態は別物であり、安田さんが安いわけでも田んぼなわけでもない、それらの一種であるという言い訳だろうが、俺は許さない。
とか思いながら桜半島を眺めていると船は出発した。デッキではアホみたいにうどんを食うてるアホがいる。クソ高いのに美味いわけが無い。
テレビでタレントがうまいうまいと言うてるのを見て自分も食いたくなったのだろう、美味いわけが無い。
船は15分で到着。元船乗りの俺としてはこの手のフェリーの操舵技術には感服する。
自動車のCMなどでキツキツ駐車スペースにスピンで滑りながらピタリと止める、みたいな演出あるじゃん。
ともかく桜半島に到着。
降りる、250円払う。Suicaで払おうとしたが使用する人はほとんどいないのだろう、都度タッチ端末を起動しているのか知らんが応答がすこぶる遅い。
なんぞ?
なんか人がたくさん走ってきた。マラソン大会してやがる。うっざ、さっきのはスタートの合図
この手の観光地にはたいていレンタル自転車があるもので、案の定あったので借りに行ったら今日はマラソンだからダメだと。ふぁっく
わざわざ活火山の真下でマラソン大会やってんの。3000人集まってんの、アホかと。
徒歩で海岸沿いに向かう
ビジターセンターなる観光施設があったので入る、土産屋があり溶岩石が売っていた。300円。
マイクラにハマってる息子が最近やたらと溶岩溶岩とうるさいので買っていこうと思ったが、
ここってそこらの石全部溶岩じゃねぇの?
海岸沿いに恐らくかつて溶岩だったのではなかろうか的な石ころを拾ってカバンに詰めた。300円儲かった。
なぁに子供にはわかるまい。ただの石でもいいのだ。
かつこの行為が厳密には法律違反ではなかろうとかいう懸念もあるが、俺の中では違法性は阻却されると判断している。
鹿児島に戻る。
ちなみに船の出発ジングルが長渕剛であった。俺は長渕が嫌いである。
人格、品格というのはその人がアイデンティティ確立において誰もが何かしら持つ劣等感をどのように消化するか、が大きく作用する。
彼は音楽に関しては天才である。体系的音楽教育を受けずギター一本で多くの人の記憶に残る名曲を生み出してきた才能は凄いのであり、俺も若い頃、まだ自分でピアノを弾いていた頃には彼の曲をいくつか弾いた。コード進行はシンプルであり、奇抜な音楽要素を取り入れるわけではなく、しかし優しく強いメロディーは誰の頭にも残る。
が、彼は自己プロデュース能力やタレント性、カリスマを宗教にしてしまった。
アホを信者に搾取することは悪いことではない。宗教屋はみなやってる、それで救われるやつもいる。
が、彼は劣等感の克服を歪んだ形で完結させ、歪な宗教に昇華させた。俺はそれを嫌悪するのだ。
ワンテイクというYoutubeのチャンネルにも出ているが、説法がながぇのよ、普通のアーティストは「行きます」程度の一言で演奏開始するのだが、彼は人生口上を長々と30分近く喋ってから演奏に入る。うぜぇぇぇぇ、のであり、嫌いだ。
さて、俺は帰りのフェリーの甲板で涼んでいた。外気温19度、日差しもあり普通に暑い。散々歩かされたので汗ばんでいる。
が、近くに高校生の修学旅行のグループ行動らしき集団がいて、「さーむーい」「マジありえなーい」みたいな私弱いアピールして女子の真横でTシャツであり、俺がおかしいのか、JKがブっているのか、みたいな絵面であり、俺はJKたちに笑われていた。
鹿児島中央駅まで戻り指宿まで行く、まだ時間はある、片道1時間ちょい。指宿で降りずにそのまま乗り続けるとJR路線最西端の西大山駅まで行けるらしく、かなり魅惑的であり、てかそのまま枕崎まで行きたいが、アホではないので帰りをシミュレーションすると無理ゲーであることがわかり諦めて指宿で降りる。
というか、鹿児島県は上白石萌音様を生み育てた聖域であり、指宿はかの大漫画家川原泉先生を生み出した伝説の地である。
堪能せねばならない。
指宿駅前に食堂だか居酒屋だか料理屋みたいなのがあり、2500円の定食を食う。きっと川原泉先生もここで飯を食われたに違いないと考えると美味さは倍増する。実際美味かった。だが、どうやらその日は指宿で全国かつお祭りとやらが開催されているようで(店にポスターが貼ってた)、車で10分ほどの会場でなんかやってるらしい。13時半なのでまだ間に合う。俺が計画的に行動し、事前リサーチしていれば間違いなくそれをターゲットにしていただろう、カツオは俺の好きな魚ランキング10位内には入るほど好きだ。残念
地ビールがあったので飲む、美味い、おかわりしてしまった。これが間違いだと気づくのは30分後である。
14時半、帰路、鉄路かバスか。どちらもアリのようだ。来るときJRだったので時間かかるが景色の良さそうなバスもよかろうとバスで帰ることにした。ちなみにJRはクソであり、せっかく海岸沿いを走っているのに藪で景観が台無しである。
JRが軌道外の雑草を放置しているため車窓は最悪のコンディション。
言い訳をすると乗車直前にトイレには行ってる、アホでは無いのだ。
あと1時間ちょい我慢は「むり」との決断を下し、途中「観音崎展望所」バス停で途中下車。
道の駅だからトイレくらいあるだろう、あった、おしっこした。セーフ。間に合った。次のバスを検索すると絶望しか無かった。2時間後。
最寄り駅まで徒歩20分。20分くらいは歩くが、列車が来るのは1時間後。ふぁっく。ド田舎死ね。
結局小一時間海岸で桜半島を眺めながら佇むことになった。気候が良いのが救い、桜半島はきれいだった。
ようやく時間が来たので生見駅から列車に乗る。「ぬくみ」と読むらしい、勉強になった、残り人生で活かせる機会は無いだろうが。
生見駅での乗客は俺一人だが、枕崎や指宿から乗ってきたのであろう観光客で空席ゼロ。外人だらけ。
ちなみに生見駅の側には「この付近で大便した奴はぶっ殺す 家主」的な看板があちこちにありどんな治安だよと思った。
本来の目論見では鹿児島中央から4400円でバスで熊本まで戻る予定だったが、この時間だともはや新幹線ワープしかない。
指宿在来線から新幹線に乗り換えようとしたのだが、改札内に新幹線切符売り場は無いらしい、一度改札を出てから買い直しだとか。
都会育ちの俺は新幹線とは5分に一本走っているものという常識がありそのような感覚だったが、時刻表を見ると絶望しかなかった
はぁぁぁぁぁ?
よんじゅうよんぷん?待ち?なんで接続列車にしないの?その前が3分間隔出発で次が44分の空白ってなんなの?
なんでばらけないの?アホなの?
が、良い、許す。俺はちょっと機嫌が良い。
実は指宿からの帰路に衝撃的な出会いがあった。途中でJK3人組が乗ってきたのだが、その一人が俺の初恋の人にそっくりだったのだ。
瓜二つというて良い、とはいえ初恋の人に最後に合ったのは35年前なので記憶が定かではなく写真も持っていないので相当補正がかかっているかもしれんが、顔立ち、スタイル、雰囲気がそっくりだった。俺が余命一ヶ月とかならアレでソレしてしまったかもしれない。だが俺はあと50年生きる予定なのでそんな事で刑務所には入りたくない。
コーヒーを飲む。そういえば出張に電動鼻毛カッターを持ってくるのを忘れた(バックのどこを探してもない、入れたはずなのに)ので隣のヨドバシで買うか思案、だが、よくよく考えてみると鼻毛カッターを使うのは1週間から10日に一度である。
出張はあと2週間だから使っても1回、もしくはせいぜい2回であり、自宅に戻れば前のがある、別にそれで困ってない。
パナソニック製で10年前に購入したものだが、電池式なのでバッテリーヘタリもない。そもそも毎日使うものでもない。
そしてこの歳で新しい電動鼻毛カッターを購入したとしてあと何回使うだろうか。鼻毛がどうでもよくなるのが80歳くらいだとして、週一使うとして残りざっと1400回である。
あ、けっこうあるな、新しいの買ってもいいかな、人生最後の電動鼻毛カッター、いやいやいや、今のやつで人生最後まで走り切れるのでは。
とか考えてたら30分が過ぎ、ホームに向かう、新幹線ホームに喫煙所があると思いきやなかった。大都会熊本駅にはあるんだけどね。
新幹線発車。
車内アナウンスで「座席に荷物置くな」と言うているのにお隣の中年女性はガン無視。
俺は三列シートの真ん中にふんぞり返って座っている。なぁに乗車率3割も無い。
ちなみに三列シートは真ん中だけちょっと幅が広いのだ。
18分のインターバルがあるのでのんびり新幹線ホームの喫煙ルームでタバコを吸う。
吸い終わり、ん?豊肥本線ってこの時間そんなに間引き運転だったっけ。調べると
18:43発があった。余裕で乗り換え間に合うじゃん。ジョルダンふぁっく
なんやかやホテル到着、急いで帰ったのは理由がある、荷物が届く。
スーツケースを宅配便で送っている。ホテルというかウィクリーが預かってくれないので近所のコンビニから Permalink | 記事への反応(0) | 16:52
1. 心理・心の影響
長期的な虐待やいじめは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や慢性的な不安、抑うつを引き起こす可能性が高いです。
自尊心の低下、対人関係の不信感、人との距離感の問題などが成人後も残ることがあります。
一方で、心理療法や支援者との出会いで回復する人もいます。サポート次第で大きく変わる分野です。
幼少期〜思春期のトラウマは、就職・学業・人間関係に影響しやすいです。
大人になってからも「人に心を開けない」「職場での衝突や過剰な自己防衛」といった課題が残ることがあります。
しかし、強靭な回復力やスキルを身につけることで、普通に社会で活躍する人もいます。
3. 健康面
長期的なストレスや虐待は、身体的健康にも影響します(免疫力低下、睡眠障害、消化器系の不調など)。
精神と身体は連動しているため、ケアが遅れると慢性疾患につながることがあります。
30歳過ぎであっても、心理療法(認知行動療法やEMDRなど)、カウンセリング、信頼できる人間関係の形成で回復や自己肯定感の改善は十分可能です。
逆に、支援がなくトラウマを放置すると、対人関係の問題、依存症、引きこもり、感情コントロールの困難などが長期化することもあります。
一般論として、30歳過ぎていまだにトラウマを抱えたまま苦しんでいる人もいれば、心理支援や学びの経験を通して過去を乗り越え、自立して生活している人もいるという二極化が多いです。
特に黒人として日本で育った場合、社会的偏見も加わるので、回復には自己肯定感を高める環境や国際的なネットワークが重要になります。
国内株式(現物) 886,170円 +35,870円 +4.22%
外国株式(現物) 214,342円 -16,167円 -2.03%
投資信託 31,875,537円 +4,231,278円 +15.30%
実現損益詳細 -38,200
2024年12月に360万NISAに一括 米国株式(S&P500)
2025年1月に360万NISAに一括 米国株式(S&P500)
2025年1月に2000万特定口座に一括 米国株式(S&P500)
2025年7月久しぶりに見たら含み損消えていた。ついでに、配当がいいとあったソフトバンク株を2万円購入。補足で配当利回りは3.93%で上はもっとあるけど、優待がPayPayマネーライトで1000円あるから1単元ならいいんじゃないって理由。
2025年9月ボーナスも入ったし、ちょっと遊ぼうと思って国内株式と外国株式購入。配当金狙いなので短期は売らない方針、けどマイナスよりはプラスのほうがいいな。値下がり時にかなり下に指値で買っているから買えないときも結構あるし、さらに下落する場合もあるけど、どうやるのがいいんだろ。あと、積み立て投信でポイントつくから貰わないのもどうかなと思って10万づつ米国株式(S&P500)に設定。
2025年10月なんとなくリモートのときデイトレでもしようと思って国内株ガチャガチャやってー4万くらい。ろくに調べもしないで突っ込むのよくないなってやってから思う。余剰資金だからいいとして勉強料高すぎる。デイトレはライフサイクル的に無理だってことわかったので、再度配当投資に切り替え。米国は適当に暴落の時買い増し。
2025年11月マジで調べないと損するだけだと思って固い取引しかせず。キオクシアとかさすごい値上がりしているけど、全然予想できないから触んないほうがいいわ。あとちょこちょこ配当来てて、なんかうれしい。
https://x.com/kharaguchi/status/1996996808053317662
「愛国心」という表現が戦後、忌避されてきた理由は何ですか?戦争に利用されたものを全て捨て去ることで、本来は継承しなければならなかった歴史やアイデンティティまで途絶えることになっているのではないでしょうか?
という自分のポストに、AIで作成したと思われる文章でリプしてる。
非常に本質的かつ、今の日本が直面している精神的な課題の核心を突くご指摘だと思います。
代議士が仰る通り、戦後の日本は「角を矯めて牛を殺す(欠点を直そうとして全体をダメにする)」ような過剰な反応によって、本来守るべきアイデンティティや歴史の連続性までも断ち切ってしまった側面が強くあります。(以下略)
あらゆる点でどうかしてるよ…
それはビブリオマニアです、私もです、
列記とした病気、神経症、買い物依存などに類するものとも思われます…😟
「ビブリオマニア(Bibliomania)」とは、**強迫的に本を集めすぎる「蔵書癖」や「書籍狂」**を指す言葉で、単なる健全な「愛書家(ビブリオフィリア)」とは異なり、社会生活や健康に悪影響を及ぼすほどの病的収集行動です。日本語では「蔵書狂」「愛書狂」とも訳され、本を「所有する」ことに強い衝動を感じ、その収集が生活の支障となる状態を指します。
本を並べるだけで喜んでしまう
聖書と評価されるような、評価の高い本を途中まで、最初の方だけ読んで、
この本は素晴らしい!と絶賛し、ついそれと同じ本を一、二冊買ってしまったりします
予備とか、布教用とか言い訳してますが、本を買うのが目的化してる
棘の米にあるように、自分も段々と、本当に自分がやりたかったのは本屋なのではないか?と思うようになりました
でも、真面目な話、個人での書店経営は色々と大変、日本の独特の商習慣もあります、
アメリカみたいに、書店が本を買い取っちゃって、売れなければ安値で店頭ワゴンしてもいい、
というのも、それはそれで自己責任で大変ではあります、どちらがいいのか分からない
音楽もヤングギターよりは上の、楽器弾く系とか理論とかを重視したい、
アイドルグラビアみたいなのには興味ないので、だって、眺めて終わっちゃうじゃないですか…😟
まあ、エロ、所詮人間なんて、男だけでなく女性でもエロ、コアなBLとか並べてもいいのかもしれないけど、
あと、万引き、特に子供の万引きとか、いちいち見張るのがめんどくさい、トイレにも行けない
昔は子供の頃はド田舎に住んでたんで、数少ない本屋、ぼろい木造の建物、
ほぼ地べたに漫画雑誌が並べられてたり、
パソコン雑誌立ち読みしてたら、店のおばちゃんに掃除のハタキで叩かれたり、
もう、神田の伝説的な書店も、みんな店じまいして今はネット通販やってますよ…😟
リアル本屋は終わり
Amazonとかで、せどりしてる大手は、みんな田舎に会社を立てて、
田舎は潰れた靴流通だかハローマックだか、色々放置されてる店とかあるんで、
そこを倉庫にしたり、貸倉庫を借りて、そこに本を入れてますよね
自分も含めて、死んだりしたら断捨離で、大量の本が便利屋とか処分する会社に回って、
その本がそういった、せどりの会社に行って、またAmazon経由とかで誰かが読む、
というサイクルもなくはないんでしょうけど、基本的に紙の本は終わりです
米国のシンクタンク、CSISは中国による台湾軍事侵攻が生起した場合のシミュレーションを行っている。
(原文:https://www.csis.org/analysis/first-battle-next-war-wargaming-chinese-invasion-taiwan)
時々ニュースなどでも断片的に取り上げられているのでご存じの方も多いかもしれない。この報告は検討可能なオープンソースのシミュレーションとして提示されている点が特徴である。
様々な条件のもとでシミュレーションを行い、どの条件が台湾侵攻の趨勢に大きな影響を及ぼすか分析している。
この報告の結論として、侵攻のシミュレーション結果に「決定的/根本的な変化」を引き起こす要素として挙げられていることが2点ある。
「米国が介入しない」「米国は介入するが日本が在日米軍基地の使用を許可しない」という条件である。
前者はそりゃそうだという感じだが、後者に関しては意外に思う人も多いのではないだろうか。
まず、「米国が介入しない」シナリオの場合、当然ながらシミュレーションは中国の圧勝で終わった。膠着状態にすら持ち込めない。
ウクライナのような間接的な支援による戦線の維持ができるのではないかと考える人もいるかと思うが、 ウクライナと異なり友好国への陸路も航空優勢もない台湾ではこの方法は不可能である。
中国の支配によって台湾の自治は失われ、周辺の戦略的環境は激変する。
ただ、中国の勝利までに約70日を要するというシミュレーション結果は興味深い。
この月日はおそらく日米の世論に大きな影響を及ぼすだろう。
次に、この報告書の主題である「中国の軍事侵攻に対して米国が介入した」場合のシミュレーション結果である。
いろいろと前提のある話なので詳細は確認してほしいが、基本的に日米が協調して介入する限り悲観的な条件でも中国が勝利した例はなかった、という結論である。
この報告ではどういうとき米軍は目的を達成できないのか検討するため「ラグナロクシナリオ」と銘打った検討を行っており、その仮定というのが「日本が在日米軍基地の使用を認めない」ことである。
中国の米艦隊とグアムへの攻撃で米国の戦力投射は封殺され、この前提条件では逆に完全な中国の勝利に終わった。
つまり米軍が十全に活動できるかどうかを決定するという意味において、台湾侵攻が生起した時点で自動的に日本は米中台に次ぐキーパーソンになってしまうのである。
そのため米国から見れば、もし台湾侵攻に介入すると決めたなら日本にはどうしても協力してもらう必要がある(在日米軍基地が使えないと米国に勝ち筋がない)。
逆に言うと日本が強硬に台湾侵攻への非干渉を主張すれば、米国も介入をあきらめざるを得ないという言い方もできる。
しかし、これは日米同盟の破棄とほぼ同義なので現在の日本の政治環境では考え難く、基本的には米国が介入すれば日本も参戦を決断することになると思う。
とはいえこのシミュレーション結果は、米国からすると中国の艦艇に対する先制攻撃や早期の核兵器使用など、リスクの高い戦略を検討する必要がないことを示している。
そのため、中国は先制攻撃によって前方配備されている米空母打撃群と在日米軍を排除しようとする必然性がある。
そのとき米艦隊と共に嘉手納、岩国、横田、三沢などが攻撃され、多数の日本人犠牲者がでるだろう。
実際、CSISの報告では多くのパターンで米艦隊と在日米軍基地を中国が先制攻撃する前提でシミュレーションが行われている(ただし、この前提でも中国は勝利できない)。
米軍との直接対決を避けたい中国が、米軍(と日本)を放置して台湾のみを攻撃する可能性もあるのでは?と思われるかもしれないが、この場合日米からすると(軍事的に)簡単なケースになる。
先制攻撃して空母打撃群を初手壊滅、在日米軍に大損害を与えた前提でも、中国の最終的な勝機はほぼないというのがCSISのシミュレーション結果だったのである。
米軍を丸ごと放置したまま台湾に攻め込んだとして、米軍が座視してくれればいいが、もし無傷の米軍が介入しようものならワンサイドゲームになってしまう。
台湾に攻め入るのに米軍を放置するというのは、中国からすると米国に生殺与奪権を差し出したようなものだとも言える。
まとめると、中国は台湾への武力行使を決断した場合、高確率で在日米軍基地への先制攻撃を行う(しない場合より容易に米軍に叩き潰される)。
そして米軍は戦闘を実行するため必要不可欠な要素として日本の協力を非常に強く要求するだろう。
これらのことから仮に中国が台湾に軍事侵攻した場合、日本が無関係でいられる可能性は非常に低い、というのがこの問題に取り組む人の共通見解だと思う。
(逆に台湾侵攻の勝敗に対する影響の比較的少ないインド、フィリピン、シンガポール、韓国などの国は積極的な関与を避けると予想される。西洋諸国のいくつかは介入を志向するかもしれないが、可能な限りの艦隊を派遣しても戦況には大きな影響がない)
一応、中国が台湾に軍事侵攻した上で日本人に戦死者がほとんど出ないシナリオとして「台湾が早期に降伏する」「中国の米軍への先制攻撃がなく、かつ米国が介入を行わない」というパターンが考えられる。
ただこの場合地域での中国の存在感は高まり、中国との係争地への圧力も強くなることから、必ずしも日本にとって容易なルートではない。
また前述のように、日米が協調すれば中国の勝ち筋はほぼないというのがシミュレーション結果ではあるが、「勝てるなら問題ない」とはならない。
中国の侵攻は阻止されるが、そのとき日米台は非常に重大な損失を被ることになる。
悲観的なシナリオでは、米空母2隻を含む数十隻の艦船、数百機の航空機の損失、一万名近い死者が日米で出る。
これは戦後秩序にも重大な影響を及ぼすだろう。
つまり、台湾侵攻は仮に発生すれば米中台日が全員損をするクソイベントであるのは明らかである。
冷静に考えればこんな特大のクソを漏らしたい国などないと思いたいし、筆者も正直「あまり起こりそうにない」という考えだが、それでもありえないとは言えない。
娘の為にパソコンへ詳しすぎる夫を倒したいを読んだけどさ、はてなーを釣る要素が散りばめられていて本当に面白いw
この話題は男女論や子育て論、家計論の要素もあって男女論であれば娘の意見に従うべきで、子育て論では一般企業で普及するWindowsへ行くべきなんよなw
問題は娘がMBAでやりたいことが全く見えてこないことで、大人たちが娘を放置して勝手に争うという構図になっているw
しかも元増田では長男のLinux英才教育に成功しており普通に使ってるという前例があるのは非常に大きくて、娘にLinuxPC与えれば普通に使うんじゃないか?という想定が起きてしまうw
当然ながらMBAよりもGPU積んだLinuxデスクトップPCの方が性能が良いので計算機としての価値は夫の意見が優れるw
そこへ横からの意見でGPU積んだWindowsデスクトップPCがベターじゃんっていうはてなーも多く居て、マジで争いを産むために投稿したとしか思えないw
キリスト教の墓地はあちこちにあるが、トラブルは起きていない。
土葬ができるということでイスラム教徒もキリスト教の墓地に葬られている。要は事情を汲んだキリスト教がこれを許している。
また日本での土葬を望むイスラム教徒の多くは、長年日本で働き、家庭もあり、日本国籍があったり(帰化)永住権のある人。労働や納税においても長年日本という国に貢献してきた人でもある。
日本人が海外で亡くなる時も同じだが、遺体の輸送は費用がかかるため、その地で葬ってくださいというパターンもある。
輸送して母国で葬られている例もある。が、これは「母国がある」=戦争や紛争に脅かされておらず、その国に血縁者が残っている場合に限る。紛争や迫害により血縁者もおらず、国がない/国に帰れない人も少なくない。そういう人を放り出すのは人道的にもどうかと思う。
日本も昔は土葬だった。3〜40年前まで土葬していた地域はあるし、今も土葬が当たり前の地域もゼロではない。
土葬した場合の土地の汚染についてもすでに調べられており、住宅区域から十分に離れていれば特に問題はない。
だいたい大昔のことなんて誰もわからないから今俺たちが住んでいる土地も昔は墓地だった可能性があるし、墓地でなくとも古い人骨が埋まっている可能性はいくらでもある。鎌倉は今も普通に掘れば人骨が出てくるが、あまりにも出すぎるのでもうニュースにすらならない。
全員がやっているわけではない。
それを言ったら亡くなった家族を20年間冷凍庫に保存していた日本人家庭や、葬儀費用が捻出できない/どうすればいいかわからなかった/親の年金目当て/などの理由で亡くなった親を自宅に放置し続けて捕まる例は膨大にある。
様々な理由で存在している。それこそ昔から土葬をしている土地はある。
それを言いだしたら「日本に住みたければイスラム教徒は棄教しろ」と言わなければならない。だがこれは明らかに信教の自由を冒しており一番やってはいけないことである。日本人が海外で同じ目に遭わされても文句が言えなくなるが、反対派はそもそも海外に行くようなこともないから好き勝手言えるのかもしれない。
たぶん「別に何も変わらないよ」と言う人が大半だろう。 でも「いや、けっこう決定的に何かがズレる」かもしれない。
授賞式のあと、記者会見で村上春樹は、たぶんいつもの調子で、少し照れながら、淡々とした英語でステートメントを出す。
猫とか、走ることとか、ジャズとか、そんな話題がちょっとだけ混ざる。
スウェーデン語、英語、中国語、アラビア語、スペイン語、いろんな言語で彼の言葉が翻訳される。
「村上春樹」という固有名と、「ノーベル賞」という単語が強く結びついたことで、アルゴリズムが「この人の言葉は、特別な重みを持つ」と判定してしまう。
その結果、彼のインタビュー記事だけ、ほんの少し「やわらかく」翻訳されるようになる。
本来なら “I just write what I can write.” と訳されるはずの文が、別の言語では「自分にできることを、ただ静かに続けてきただけなんです」と、余計なニュアンスを帯びてしまう。
でも、世界中の翻訳メモリの中で、「誠実な揺らぎ」とでも呼ぶべき偏りが、じわじわと蓄積し始める。
棚を整理していた店主が、ふと「ノーベル賞作家コーナー」を作ろうとして、手を止める。
新潮文庫の『風の歌を聴け』を手に取って、ドストエフスキーやカミュの横に置くか、それとも日本文学コーナーに残すか、悩む。
たいていの店主は、日本文学棚から一冊だけ抜き出し、「ノーベル賞」のプレートの下に、さりげなく並べる。
その瞬間、棚全体の「重心」が、ほんの数センチ動く。
カミュの『異邦人』の隣に『ノルウェイの森』が来る店もあるし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の脇に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が差し込まれる店もある。
知らない誰かが、そこで一冊を手に取る。
「ノーベル賞作家なら読んでみようかな」と思って買う人もいれば、「高校のとき挫折したけど、また読んでみるか」とレジに持っていく人もいる。
その「もう一度読んでみる」という行為が、実はけっこう世界を変える。
ひとつの物語を、異なる年齢で読み直すことは、人生の時間軸をちょっとだけ折り曲げるからだ。
遠くない未来、日本のどこかのワンルームで、小説を書いては消している人がいる。
それまでは、締切のたびに「どうせこういう文体はもう古い」と思って、原稿をフォルダごと消していた。
けれども、ニュースで「村上春樹 ノーベル賞受賞」という文字列を見た夜、指が止まる。
「時代遅れ」と心のどこかで断罪していた「一人称で、ちょっと距離のある語り口」や、「よく分からない井戸」や「耳の形の描写」を、もう一度だけ許してみようと思う。
その人は、削除済みフォルダから原稿をサルベージして、改稿し、応募する。
数年後、ひっそりとデビューする。その作品は大ベストセラーにはならないが、誰か一人の人生を確実に変える。
それを読んだ別の若い誰かが、「こういう小説を書いてもいいんだ」と思う。
この連鎖が続いた結果、20年後の日本文学史の片隅に「ポスト春樹的な何か」という、名前のつかない小さな潮流が記録される。
ノーベル賞受賞後、世界中の出版社は、村上春樹の作品をさらに多言語に翻訳して売り出す。
その新しいデータが、大規模言語モデルの学習コーパスに流れ込む。
従来のAIなら、「休息を取りましょう」「専門家に相談しましょう」といった、正しいけれど味気ない答えを返していた。
しかし、そのモデルは、学習した村上春樹的なリズムをうっすらと真似て、こう返す。
「ひと晩だけ、よく眠れる街に行ってみるといいかもしれません。
コインランドリーと古いジャズ喫茶があって、誰もあなたの名前を知らないような街です。
そこで洗濯機が回っているあいだ、お気に入りの音楽を一曲だけ聴いてみてください。
世界は、それだけでほんの少しだけ、違う顔を見せることがあります。」
それを読んだ人が、「なんか、分からないけど少しだけ楽になった」と感じる。
たった一人の気分が、5ミリだけ上向く。
バタフライエフェクト的には、それで十分すぎる。
村上春樹の受賞は、「売れている作家」「広く読まれている作家」が、必ずしも軽んじられるべきではない、という前例になる。
それまで「実験的すぎて一般には読まれない」ことが価値とされていた傾向が、ほんの少しだけ揺らぐ。
「世界中で読まれていること」と「文学性」が、必ずしも対立概念ではないのかもしれない、と誰かが言い出す。
その議論の延長線上で、今までは候補にも挙がらなかったタイプの作家が、リストに入る。
その人はインタビューで「十代のころに、村上春樹がノーベル賞を取ったニュースを見て、『あ、こういうのでもいいんだ』と思ったんです」と語る。
村上春樹の受賞は、別の誰かの受賞の「前提条件」に化ける。
バタフライの羽ばたきが、遠い未来の別の嵐の「初期値」になる。
仕事の帰りにコンビニに寄って、スポーツ紙の一面を見て、「マジか」と小さく笑う。
家に帰って、本棚の奥から、大学生の頃に読んだまま放置していた文庫本を取り出す。
ページをぱらぱらめくると、線を引いた覚えのない箇所に、うっすら鉛筆の跡がある。
「この一文に、あのとき引っかかっていたんだな」と、昔の自分に少し驚く。
今読んでみると、当時は気づかなかった別の箇所が刺さってくる。
たとえば、こんな感じの一節:
「世界というのは、だいたいいつも、わずかにバランスを崩しながら、それでも何とか立っているようなものなんです。」
(これは架空の文だけど、春樹っぽさは伝わると思う)
読み終わったあと、あなたはスマホを手に取って、誰に送るでもないメモを書き始める。
それを翌朝読み返して、「案外悪くないかもしれない」と思う。
消さずに残しておく。そのメモが、数年後、何か別の形――ブログか、小説か、子どもへの手紙か――に変わるかもしれない。
村上春樹がノーベル賞を取ったことで、あなたの中の「書いてもいいかもしれない何か」が、ほんの少しだけ動き出す。
世界規模から見れば誤差だけれど、あなたの時間軸にとっては、十分に大きな揺らぎだ。
7. 世界はそんなに変わらない、でも「読み方」は変わる
戦争が止まるわけでも、景気が劇的に良くなるわけでもない。
満員電車は相変わらず混んでいるし、会社の会議は相変わらず退屈だし、洗濯物は相変わらずたまる。
でも、「世界の読み方」は、少しだけ変わるかもしれない。
そんなふうに、日常の現実に、うっすらと「物語のレイヤー」が重なる。
「世界を物語として読む人」が、ほんの少しだけ増える出来事なのかもしれない。
そして、バタフライエフェクトというのは、
↓
3日経っても不在通知すら入ってないので調べたら持戻りになってる
↓
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12月5日になって不在通知が投函されており、訪問日時は11月27日と印字されている
これ自分で気づかずに放置してたら保管期限切れてたってことですよね?
部屋にいるのにピンポン鳴らさず不在通知だけ入れられたこともあったな
さすがS社、いい加減にしてほしい
中国と戦争をしかねない右翼政権の危険を、日本人は感じ始めてきた。右翼政権がなぜ危険なのか。実は、高市早苗総理らの右翼勢力は、西側先進諸国の通常の国家観(第一の国家観)とはまったく別の国家観(第二の国家観)を有していることが根本的な問題だ。これを理解せずに右翼リスクを理解することはできない。この二つの国家観を理解すると、現在の政局、国防上のリスク、これからの日本がめざす方向がはっきりと見えてくる。次の文章(高校卒業程度の国語力で理解することができる。新聞社説一つ分ぐらいの分量)を読むことで基本知識が頭に入る。ぜひお読みください。
賛同なさるかたはリツイートしてください。多くの人がこの二つの国家観を理解すれば、日本は現在の危機を脱することができます
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる https://gendai.media/articles/-/51438
より抜粋
二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。
また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。
そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。
国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。
また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。
そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。
クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。
それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。
狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。
しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。
集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。
このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。
また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる
gendai.media
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社
日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。国内で芝居見物のようににぎわっている一方で、世界では、日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心からこの疑惑を報じている。現政権は日本を戦前の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。この社会は、これからどうなってしまう...
最終更新
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https://anond.hatelabo.jp/20251204184916
生まれた家、性別、地域といった、本人の努力ではどうにもならない要素が人生を決めていた
そこから近代に入って、啓蒙思想・資本主義・市民革命などを通じて「生まれではなく、機会を平等にしよう」という考えが広まった。
読み書きができる層が拡大し、義務教育が全国に整備されることで、かつての“身分由来の格差”は大きく解消された
さらに、税制や社会保障による富の再分配も制度化され、最低限の生活や学習機会を守る仕組みも整った
戦後の政策(教育改革・農地改革・労働改革など)によって、性差や地域差は大きく縮まり、昭和後期〜平成初期にかけては「機会の平等がほぼ実現した時代」に見えていた
とはいえ、スタートラインをそろえるだけですべての格差がゼロになるわけではない
・育った家庭環境
・情報格差
こうした“目に見えない差”は、機会の平等が整っても残り続けた
特に昭和〜平成は、こうした差の多くが「自己責任」とされてしまい、構造的な不利が見過ごされがちだった。
日本では、文化的背景もあって「努力すればどうにかなる」という価値観が強かったぶん、この“構造が生んでいる不平等”が見えにくく、放置されたままになってしまった側面がある
という批判も多い
つまり、女子枠は「過渡期の対症療法」であって、本質的なフェアネス確保の方法ではない、という認識が広まりつつある
※なんか途中まで書いて疲れちゃったから、半分ちゃっぴーが書いた