50周年によせて[第10回] 市民にとっての、科学と「知のありかた」
信濃川のほとりで生まれ育ち、中学生までは昆虫の魅力にとりつかれていたが、高校の化学で「元素の周期律」なるものを教わって、びっくりした。先生は、この世界は元素でできている、そのうえ、元素の性質には周期性がある、というのだ。物質を見る眼が芽生えた。大学にすすみ、量子力学と古典力学との違いを学んでみると、世界を見る眼が変わった。だが、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下から10余年後の学部生からみると、あの惨事を生んだのは、まぎれもなく現代物理学なのである。すぐれた科学者たちの真摯な研究こそが、〈核エネルギーを取り出す〉という新しい科学をうんだのである。原子爆弾は絶対に許されないが、しかし、もし、核エネルギーを平和利用できるなら、それは素晴らしいことだろう、と思うようになった。そして、原子核とその周りの電子群が主役になる科学の世界にのめり込んでしまった。苦い過去である。
60年代になって、米国の指導的な科学者たちがペンタゴンのシンクタンクに集まってベトナム戦争(第2次、1960~1975)の、いわば、指導をしていたJASON機関の存在を知った。これに対して、欧米の若手研究者たちは厳しく批判し、大きな反対運動に発展した。国内では、近代日本史上、最大の大衆運動といわれた安保反対闘争、いまもって解決していない水俣病が発生し公害問題がぬきさしならない状況になった。農地を勝手に取り上げて新空港を作ろうとした政府に反対した三里塚農民闘争などの深刻な事件が次々に起こった。そうして、60年代末に、「知のありかた」をめぐって大学闘争が起こった。
このような現実に直面して、公害原論、ぷろじえ、現代技術史研究会、SSH(科学・社会・人間)などの盛んな活動がうみだされた。高木仁三郎さん(原子力資料情報室・前代表)もわたしも、アカデミズムの中にいて研究専一という選択はないだろう、と考えるようになった。今日につづく、「知のありかた」をめぐって甲論乙駁の議論がなされたわけであった。
今年、原子力資料情報室が発足して50年を迎えた。節目の年である。記念のシンポジウムをという話が出てきた。どなたかに基調講演をしていただき、それを踏まえて、「市民の科学」の実践と継承を中心に、高木仁三郎がめざしたものについて、パネルディスカッションをする、という案である。さてさて、難しい提案である。事前によほど勉強して、打ち合わせを丁寧にしておかねば、簡単には済まされないぞ、と思ったのである。限られた時間内で会場とのやり取りがどうなるか、せっかくなら実りあるものにしたいという気持もある。
25年前、2000年10月に亡くなった高木さんは、理の人・行動の人だったが、いっぽうで、じつに沢山の本や論文を書き残した。最晩年の高木さんは「市民の科学」について深く考えめぐらせていて、病床で録音テープに吹き込んだ遺著、『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書、2000・12・20)には、問題点が網羅されている。しかも、それぞれ的確な指摘がなされ、技術のあり方にも触れ、最後に結論が導かれている。この内容をどのように解釈し、一歩進めることができるだろうか。
その書の「最後のメッセージ」には、「楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう」とある。高木さんの没後11年して、歴史的な東京電力福島第一原発の大事故(フクシマ)が起きた。「結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです」とある。現実は、この高木さんの畏れていたとおりに進行している。この事故からまもなく15年になるが、いまもなお、「原子力緊急事態宣言」は解除されていない。事故は終わっていないということである。
60年代 ― 科学上の展開、原子力への夢
意外に思うかもしれないが、かつて、“黄金の60年代”という言葉があった。
まず、宇宙観、地球観にコペルニクス的転回が起きた。ガガーリンが初の人間衛星「ボストーク1号」で宇宙を遊泳して、「地球は青かった」の名言をはいた。月面上に2人の宇宙飛行士が降り立ち、月の石を採取して地球に持ち帰った。X線星、クエーサーの発見、宇宙背景放射の温度測定、パルサーの発見が相次いだ。地球科学の分野では、プレート・テクトニクス論が確立した(68年)。
物理学とその応用分野では、クオーク理論、電磁力と弱い力の統一理論、レーザーの発明、超伝導マグネットの実現、日米間のテレビ初中継など。
原子力の世界では、日本原子力研究所が動力試験炉JPDRの試運転に成功し(63年)、日本では、60年代末から90年代末にかけて、原発が次々に増設されていった。60年代半ばには、高速増殖炉への大きな期待が大声で主張され、1980年代に高速増殖炉時代が来るとまで明言された。さらに核融合の実現も語られ、将来のエネルギーの心配はなくなる。日本の電力価格は、原発では現在の7割ほど、将来は6分の1になる。高速増殖炉では、240分の1くらいにもなる、と推進派の中心的な科学者、技術者たちが語ったものであった。
期待の高速増殖炉・原型炉「もんじゅ」はナトリウム洩れ事故を起こし(95年)、その後も事故を繰り返し、2016年12月に正式に廃炉が決定した。
ところが現在、政府と電力業界は、次世代炉と称し、革新炉、SMR、高速炉などを、挙句の果てには、核融合炉だと大声で主張している。かつて夢を語った科学者、技術者、官僚、政治家たちは、どこかで、間違いを犯した。その正直な反省なしに、再び〈国策〉として、60年代の夢を繰り返そうとしているようにみえる。
生活者として
高木さんが「市民の科学」と表現するにいたった背後には、闘争の中の三里塚農民と宮沢賢治の生き方の影響がある。ここで詳しく言及する余裕はないので、すでに挙げた岩波新書や『市民の科学』(講談社新書、2014)などを参照していただきたい。
高木学校が目指した中のひとつに、生活者の視点というものがある。自然と共生し、核エネルギーなしの、安全で平和なくらしを求めようという考えである。たとえば、98年12月に始まった高木学校Bコース第1回連続講座「化学物質と生活」をみよう。5つのテーマが並んでいる。1.プルトニウムと市民、2.環境ホルモンと化学物質管理、3.暮らしの中のダイオキシンと塩素化合物、4.フロン問題における政策課題―オゾン層破壊から地球温暖化へ、5.アルツハイマー病とアルミニウムであった。
問題となっている物質はすべて、そのまま「元素の周期表」に出ているか、いくつもの元素からなる化合物だ。人類の輝かしい進歩として累積されてきた科学上の成果から生み落とされた物質群である。生活者である市民たちにとっては、こういう物質を創り出した科学ってなんだろう、と思わないわけにはいかない。
11月29日の集いでは、長谷川公一先生の基調講演を受けて、さて、どうやって、どのように、一歩を進めるか、困難な道だが方向性だけは見えてきたように思う。6ページの報告をぜひご覧ください。
(山口幸夫)


原子力資料情報室は、原子力に依存しない社会の実現をめざしてつくられた非営利の調査研究機関です。産業界とは独立した立場から、原子力に関する各種資料の収集や調査研究などを行なっています。