フランス在住で、現地で長年翻訳業に携わっている田中晴子さんに、アジア人に対する「無自覚な差別」が生まれる背景について綴ってもらった。
「アジア人は差別の対象ではない」という思い込み
先日、ホテルの部屋にゲームの言語設定にきてくれている日本人スタッフたちを、サッカーフランス代表でFCバルセロナに所属する選手ウスマン・デンべレが撮影しながらコメントする数年前の動画が流出し、差別的だとしてSNSで炎上したことがフランスメディアでも取り上げられました。
このビデオはフランス人でも一字一句全部は聞き取れない「ノリ」で発された口語表現が多いため、日本のツイッターではその意味をめぐって喧々囂々でしたが、ノリと意味の両方を踏まえて訳すと、以下のような感じかと思います。
「Putain! La langue!/うわなんちゅう言語!」(ホテルスタッフが話している日本語のこと)
「Alors vous êtes en avance ou pas en avance dans votre pays, là ?/あんたらそれで先進国なの?」(ホテルスタッフがゲームの言語設定変更にてこずっていることについて)
※発言の「ノリ」を表現するために当初、関西弁で訳しましたが、「悪ノリ」を関西弁に訳すのは関西弁のネガティブなステレオタイプ化ではないか、といった主旨の指摘を受け、その通りだと思いましたので標準語に訳し直しました。ステレオタイプ化による無意識の差別を批判する記事でそのような表現を行うのは自家撞着でした。ご指摘ありがとうございました。
映像に映っている、同じくフランス代表でFCバルセロナ所属の選手アントワーヌ・グリーズマンは、このビデオの中ではにやにやしているだけですが、この人はこの人で、バルセロナチームの公式ビデオで「チンチャンチョン!」(※)とふざけている映像がネットに出回っており、それも今回一緒に炎上。
グリーズマンはフランスでは有名なスター選手です。ご当人は公式アカウントのツイートで、「僕は差別には常に反対してきた。今回自分とは違う人物像がでっちあげられて(=レイシスト扱いされて)心外ですぷんぷん断固抗議する!」と表明しています。
おそらく本人は本気で「チンチャンチョンいうのは差別ではない」と思っているのではないかと私は思うのです。そして一番の問題はそこにあります。
20年ほど前、フランスの新聞記事で「誰が差別の犠牲者だと思うか」という街角アンケートを目にしたことがあります。「アラブ人」「アフリカ人」「ユダヤ人」がトップを占め、「アジア人」は「フランス人自身」よりも更に下位の、ランキングの番下でした。
フランスでは、アジア人は差別の対象ではない、と長年思われてきました。今でもそう思っている人はたくさんいます。
教育の場にも浸透するアジア人差別
しかし、フランスに長く住んで、とくに都会で徒歩と公共交通手段を中心とした生活をしていると、「中国人!」「チンチャンチョン!」と通りすがりにふざけながら言葉を投げかけられることは結構あります(ちなみに、多くのフランス人の意識の中では東アジア人は日本人も含めて全員「中国人」です)。フランス人の友達などに「私、アジア人のこういう目がエキゾチックで素敵だと思うのよね」と悪気なく「吊り目」をされることもあります。悪気がないことがわかっていても、良い気分はしません。
こうした日常に溶け込み、ショッキングなこととも差別とも思われずに普通に行われている差別のことを、フランスでは「racisme ordinaire(日常化した差別)」といい、この言葉はアジア人の差別を語るうえでよく使われています。
そしてracisme ordinaireは、教育の現場でも起こっています。
以前、ネットの日本人コミュニティのユーザーフォーラムで、幼稚園に息子を送り届けたあとにふと外から園庭を覗いたところ、自分の息子が他の子たちに「中国人!」と叫ばれながら追いかけられているのを見てしまったという在仏邦人が、幼稚園側に言っても「中国人を中国人と言って追いかけるのはいじめじゃない」と言われどうしたらいいだろう、という相談をしていました。その時に娘を妊娠していた私は、「子供を持つとこんな問題に直面していかなければならないのか」と不安になったのを覚えています。
そしてある日、我が子が「幼稚園で教わった!」と喜んで、私の前で中国人を極端にステレオタイプ化した歌の歌詞と振付を歌い踊ったときは衝撃を受けました。幼稚園に「こうした歌詞や仕草は私たちアジア人にとっては侮蔑的なものです。中国人ではなくてもアジア系ハーフである娘にそれをさせるのはどういうことなのでしょう?」と質問しに行きました。
「日本と中国には歴史的軋轢があり、双方の国民の中にはいまだにわだかまりを抱えている人も多い。だからこそ余計、日仏ハーフの娘が中国人の前でこういうことをしたら困る」とも付け加えました。
アジア人もアジア系ハーフも、その幼稚園では娘一人だけでした。まだ小さかった娘はそれで傷ついたとか差別されたとかいう感覚はなく、一緒に楽しく踊っていたようですが、スタッフの一人は流石に気まずいものを感じたのか、娘に「あなた吊り目じゃないし中国人に見えないわねー」などと髪の毛を撫でながら言っていたそうです(そういう問題じゃない 汗)。
なお、この歌は、2017年にパリ近郊の中華系保護者団体がSNSで告発し、反人種差別NGOを通してフランス教育省に抗議したことをきっかけに、幼稚園で歌う歌から削除されています。
こうした環境で育つためか、2021年時点の今のフランスの成人のあいだでは、未だに「アジア人のステレオタイプ化を差別と認識しない」という考えが多いです。グリズマンがアジア人にチンチョンチャンと言うのが差別だと思っていなかったとしても不思議はありません。
差別を全力で否定する理由
揶揄やジョークで気軽にステレオタイプを押し付けてくる人たちの多くは、自分の言動が差別だと自覚していません。また、差別はフランスでは刑事告訴されて有罪判決が出れば刑事罪で前科になりますので、みんな「差別」だと指摘されると、全力で反論してきます。
たとえば「中国人!」と道端で叫ばれた時に、足を止めて「それはレイシストだ」と言ったとします。返ってくる答えは、「中国人を中国人と言っただけ。何がレイシストなんだ」です。それに対し、「私は日本人だ」と言ったとします。すると、たいてい以下のような“屁理屈”が返ってきます。
2. 「中国人じゃないなら、私が言ったのはお前のことじゃないだろ? 私は中国人と言ったんだし、お前が中国人じゃないなら関係ないだろ?」
3. 「人種差別というのはホロコーストとかのことで、これは違う。これはただのユーモアだ」
4. 「私は中国人の友達がいるが、やつらはお前みたいにキッキしないでもっとクールだ。お前にはユーモアがない」
差別する側は「差別の自覚も意図も加害してやろうという積極的な悪意もない」かもしれませんが、相手を人種・性別・体格もしくは「どうせ言葉がわからない」という前提で舐めてかかっているからこそ、気軽に衝動で、相手にどう思われるかを無視した差別的言動ができるのだと思います。
その証拠に、筋骨隆々の身長180cm超えのアジア人男性相手に「シノワシノワチンチョンチャン」と通りすがりにゲラゲラ笑いながら言う「ユーモア」を開陳する人は、麻薬や酒で自己防御本能が外れていない限りほぼいません。
そういう意味で、やった人はどんなに「悪気はなかった」としても、やはり弱者(と自分がみなしたもの)に対する攻撃なのです。こうした人達にはまず、こちらが不快であり差別的・侮辱的であると思っていることを表明しないと「やってはいけないこと」というのがわかりません。
「面倒な人」になるのが苦手なアジア人
人は面倒を避けたいのが本能です。アジア人に対して差別的な言動をする人は、ユダヤ人、アフリカ人、アラブ人には同じことをしません。彼らに同じことをしたら、公衆の面前で大声で抗議され面倒なことになるからです。私たちアジア人も差別を受けたら、大声で「不快だ!」「嫌だ!」「侮辱的だ」と騒いで「面倒な人」になっていいのです。
ただ、アジア人、特に日本人は「面倒な人」になることが苦手なところがあります。
最近は減りましたが、15年前くらいは上記のような目に遭ったと誰かが日本人ネットコミュニティで言うと、他の在仏邦人から「フランス語ができないのだろう」「服装や振る舞いが悪かったのだろう」「日本人は尊敬されているから中国人と間違えられたのだろう」「私はいつもフランスのマナーやTPOをリスペクトしているので差別されたことはない」「差別差別騒ぐのはみっともない」と袋叩きになっていたものです。
差別されるほうが悪いと叩く人たちは、自分さえ優等生な行動をとっていればそんな不条理な目に遭うことを避けられると信じたいのでしょう。その気持ちはわかります。
フランス国立人口研究所でフランスのアジア人移民史を研究する莊雅涵(Ya-han Chuang)氏は、現代フランス社会のアジア人差別の非認知ぶりを説明するにあたり、その著書『模範的マイノリティか? -フランスの中国人とアジア人差別-(未邦訳)』(2021年、La Découverte社)で「アジア人社会は長らくフランス社会では移民優等生扱いであり、そのため、他の民族人種が反差別運動を始めた時に乗り遅れてしまった」と分析しています。
声をあげないと、「差別」と認識されない
今回のサッカー選手の件は、15年前のフランスなら話題にもならなかったはずです。これを今や複数のフランスメディアが差別として批判的に取り上げるようになったのは、アジア人のステレオタイプ化が長年差別とみなされず放置された挙句、アジア人を狙った暴力・殺人にエスカレートするまでになりはじめた状況を重く見たフランスの中華コミュニティがついに立ち上がり、近年、街頭デモなどフランス社会で通用する「フランス式の方法」を通してアジア人差別に抗議を重ねて社会を変えてきたからです。
差別は言葉だけとは限りませんし、多くは揶揄やユーモアのかたちをとりますし、「尻尾をつかませないようにやる」のが常套手段ですから、何が差別か瞬時に判断し反応するのはそう簡単ではありません。セクハラや痴漢を含む性犯罪と同じで、自分のおかれたシチュエーションによっては声をあげるのが難しいことも多いでしょう。
声をあげられないことは恥ではありません。恥ずかしいのは差別をする人です。ただ、声をあげないと、いつまでも「差別」だと認識してもらえないのです。
サッカーフランス代表の一件で、フランス在住の著名な日本人が「酷い悪口ではあるが人種差別ではない」といったツイートをしたことが話題になりましたが、勇気を振り絞って声をあげた人たち(私たちのために声をあげて状況を変えていってくれる人たち)を「たしなめ」たりするような行為は避けたいものです。