「行ってきまーす」
緊張を両親へ諭されないよう、いつも通りを装って登校を開始する。
登校時間がいつもよりやや早いのは、通学路上にあるバス停で花守さんや種田さんと鉢合わせしないためだ。
「おはよ、葵くん……」
しかしいつもより遥に早い時間にも関わらず、バス停の前に花守さんがいた。
青い瞳はすっかり濁ってしまい、自慢の金髪もぐしゃぐしゃ。
そんな見窄らしい姿の彼女は、まるで幽霊のような歩調でよろよろとこちらへ近づいてくる。
「がっこ、いっしょにいこ……? ほら、いつもみたく手を繋いでさ……ねぇ、葵くん……」
「だからもうそういうことはできないって、昨日言ったじゃないか。俺はもう、花守さんのことを好きじゃないから……」
花守さんをこんな風にしてしまったのは俺自身だ。
そしてそんな彼女へしてやれることといえば、こうして繰り返し、もう花守さんには興味がないと言い続けて、彼女が諦めてくれるのを待ち続ける他ない。憎んでくれれば、なおさら良いとさえ考えている。
俺は立ち止まった花守さんの脇を過ってゆく。
だが、体が前に進まない。
「……離してくれないか?」
花守さん俯いたまま俺の二の腕を掴んだまま離さない。
ギリリと爪が腕に食い込んで来て、痛みを感じる。
「葵くん……」
「ーーっ!?」
突然、視界いっぱいに痩せこけた花守さんの顔が広がった。
「んっ……んはぁっ……あ、おいくんっ……す、きぃ……!」
氷のように冷たい花守さんの唇が、俺から体温を奪い始める。
遠慮なしに、花守さんの舌が無理やり顎を割って、俺の口の中を蹂躙してくる。
驚きとか、戸惑いとか、そして恐怖にも似た感情が沸き起こりーー
「きゃっ!?」
俺は思わず、花守さんのことを突き飛ばしてしまった。
周囲にいた登校中の同じ学校の生徒たちは、何事をかとざわめきだす。
「あんたたち、なにやってるのよ!!!」
聞き覚えのある声が周囲に響いて、心臓がドキリと音を鳴らす。
怒りに満ちた表情の種田さんだった。
彼女はすぐさま地面へ尻餅をついている花守さんの肩を抱き、俺へは非難の視線を浴びせてくる。
「いくら彼氏だからって、彼女を突き飛ばすなんて最低よ!」
「ぐっ……」
「かの、大丈夫? 怪我とかしてない?」
俺はその場から逃げるように走り去ってゆく。
こんなのを周りに見られているのが恥ずかしくて、種田さんから向けられた明確な怒りが怖くて、花守さんを奇行に走らせるほど追い詰めてしまった自分の愚かさを悔いて。
俺は学校を横切って、よく知らない道をただひたすら走り続ける。
学校を2日連続も無断欠席したのだ。非常にまずい状況だ。
でも今はどうしても学校へ行く気になれなかった。行くのが怖かった。
みんなに、種田さんに、そして花守さんにどういう目で見られるのか……怖くて仕方がなかった。
だから俺は人目を避けるように近所の大きな公園へ飛び込む。
そしてその日1日はそこでただ茫然と過ごす。
たね『話したいことがあるわ』
たね『今、どこ?』
そろそろ陽も傾き始めそうな頃合いに、種田さんからそんなメッセージが舞い込んで来た。
きっと、花守さん関連の話なのだろう。
ならばどう返事を返していいのやら。
たね『あたしがそっちへ行くから』
たね『かのは連れてかないって約束するから!』
たね『だから冷静に一度、あたしとお話しましょ?』
A.KOUDUKI『水辺公園の奥にあるベンチにいます』
そう返事を返したのは、ひょっとすると種田さんならこのグチャグチャになってしまった状況をなんとかしてくれるような予感があったからだった。
そうしてしばらく待っていると、
「こんばんは、香月 葵」
いつものようにそう冷静に挨拶を投げかけてきた種田さんは、俺の隣へ座り込んでくる。
「大体の話はかのの口から聞いたわ」
「そうですか……」
「なんで急に?」
問い詰めいるわけでも、ましてや避難をしているともいえない、とても平坦な種田さんの問いかけだった。
「樹と冬キャンプをしている時に気づいたんです……俺はずっと、樹のことが好きだったんだって……」
「だから木村 樹さんと付き合いたくなって、かののことを一方的に振ったと?」
種田さんの鋭い物言いに、心臓が強く痛んだ。
だけど、それは真実であって……素直に首を縦に振る他、できることはなかった。
「香月 葵」
「はい……」
「顔あげなさい」
嫌な予感はするが、顔をあげざるを得なかった。
そして予想通り辺りに響き渡った鋭い破裂音と、頬の痛み。
俺の頬を打ち、平手を振り抜いた種田さんははっきりとした怒りを顔へ浮かべている。
「かのはものじゃないのよ? 血の通った1人の人間よ? 別に好きな人ができた。だからさようなら……なんて、一方的に言ったって、簡単に受け入れてくれるはずがないじゃない! わかってるの!?」
「……」
「あんたは自分自身では筋を通してすっきりしたつもりかもしれないけどね! かのの気持ちは考えたの!? 自分がもし、かのの立場だったら傷つくでしょ!?」
「……はい」
俺がこうして強引にことを進めたのは時間がないからだ。
樹はあと2ヶ月もしないうちに、日本から遠く離れた海外へ行ってしまう。
そのあと、あいつを触れ合える時間が持てるかどうかも怪しい。
だからこそ、多少強引なのはわかった上で、俺は樹との思い出を作るために、なかば無理やり花守さんを引き離していたのだった。
「だけどね……これはあくまであたし個人の意見よ? ちゃんとフった上で、他の女に走ったことだけは、正しいことをしたと認めてあげるわ……」
それまで怒りで熱を帯びていた種田さんの声のトーンが下がった気がした。
「どっちにもいい顔をして、関係を曖昧にして、騙し続けて、甘い汁だけを啜ろうとしなかった……決めた1人の女の子と向き合おうとした……そうした姿勢だけは褒めてあげるわ……」
そういえば……中学の頃、他の学校のことではあるのだが、とある恋愛関係の噂が広まったことがあった。
とある男子が幼馴染の女の子と長い間付き合っていて、エッチをするまでの関係にまで深まって。
だけどその男子は同じ部活の女子生徒とも仲良くなって、その子ともエッチをする関係になっていて。
でもちょっとした綻びから、そんな不埒な関係が露見してしまい、3人はひどく揉めてしまい……結果、3人はバラバラになって、その内の幼馴染の方がうちの高校にいるらしいと。
もしかすると種田さんは、その時の"幼馴染の女の子"方なのではないかと。
それほど、先ほどの種田さんの言葉には妙にリアリティと、重さがあるように感じていた俺だった。
「かのをフったってことは、それなりの覚悟があるのよね? それがどういうことかわかっているのよね?」
「はい」
俺は迷わず、種田さんの問いに答えを示す。
それは花守さんと別れる、と決めた時に覚悟していた。
今の俺の人間関係は、花守さんと仲良くなったことで構築されたものだ。
だから花守さんと別れるということは、これまでに築きあげた種田さんとの、みんなとの関係を壊してしまうことでもある。
だけど……そんなことになってしまうのは百も承知で、俺は樹のことを選んだ。
それほど、樹のことが好きで、欲しくて、欲しくてたまらなかったのだ。
「香月 葵の覚悟、よくわかったわ。なら、あとは任せない。かののことは、こっちでなんとかするから心配しないで……というか、もう絶対に、2度とかのとは関わらないで!」
種田さんはそう言って立ち上がり、俺から離れて行こうとする。
しかし不意に、不意に歩みを止めて、
「香月 葵とは、ずっと良い友達でいたかったわ……あたし、あなたのこと……好きだったから……だから、残念よ……」
「種田さん……」
「さようなら」
種田さんはそう悔しそうに呟くと、今度こそ俺のところから走り去っていった。
俺はこれからも、花守さんのことをよろしく、という意味を込めて走り去ってゆく種田さんの背中へ深々と頭を下げる。
それから、花守さんからのしつこいRINEや電話の着信は治る。
そして、俺のRINEのトークルームから、次々と花守さんと種田さんの名前が消えて行く。
そんな様を、自室に戻った俺はスマホを掲げて呆然とみ続けている。
自分で招いたこととはいえ、こういう現実が突きつけられると、とても苦しい。
でもその現実を打ち砕くかのように、俺の胸の華やかせる名前がスマホの画面に浮かび上がる。
樹からの映像通話の申請だった。
『こんばんは……って、葵、なんかあった?』
スマホの中の黒いパジャマ姿の樹は俺のことを心配そうに覗き込んでいる。
「ああ、いや、その……」
『本当に大丈夫……? すごく心配だよ……』
これ以上樹のこういう顔は見ていなくない。ここは一つ冗談でも言って……
「ああ、いや疲れてるんだよ! あはは! 樹がおっぱいでも見せてくれたら、元気になるかもな!」
『え……? ほ、ほんと……?』
予想に反して樹は驚いてはいるが、やや熱っぽい声でそう言ってくる。
「あ、いや、えっと……」
『い、良いよ。僕ので葵が元気になるのなら……そ、その代わりにね……葵のも見せてくれる?」
「お、俺のって……?」
『葵が僕のを見て、元気になってるなら、見てみたいなって……僕の胸だけでも、そういうふうになってくれるのなら……』
どうやら樹は本気で言っているらしい。
そうなると先ほどまで抱いていた冗談めいた雰囲気が吹き飛んで、一気に緊張感や恥ずかしさが湧き起こる。
でも同時に、樹の提案を受けたい自分もいたわけで……
「わ、わかった……俺のでよかったら……」
『ん。じゃ、じゃあ、脱ぐね……』
それから俺たちは画面越しにお互いの恥ずかしい姿を見せ合った。
そして自然とお互いの名前を絞り出して、息を荒げて、すごく興奮をして。
まるで本当にエッチをしているかのように、お互いの恥ずかしい部分を画面に映し、呼吸を荒くし、愛の言葉を囁き合って。
でも終わった後はいつもみたくばかな話をしたり、時々愛の言葉を囁き合ったり。
樹のおかげで気持ちが晴れた俺だった。
もはや俺は"恋人の樹"無しでは、生きられない身体になってしまったのかもしれない。
<<続きはまた明日となります。10/16話まで掲載いたします>>
