「本日よりこちらにお世話になります、香月 葵です! よろしくお願いしますっ!」
念願の水泳トレーナーとなった俺へ、万来の拍手が送られた。
その中でも、これから日々を共にする樹は一際、大きな拍手を送ってくれていた。
この一年、俺は樹のオリンピック再出場を目指し、心身ともに支えてゆくこととなった。
ようやく夢が叶った瞬間だった。
……でも初日の夜は、俺と樹は、トレーナーと選手、いう立場を一旦脇へと、ホテルにて熱い夜を過ごすこととなった。
「葵、すごくいい体つきになったね……! 体力もものすごくなったし……」
樹は俺の腕の中で満足そうな笑顔を浮かべ、そう言った。
この数年で樹もいい体に仕上がっていて、昔よりも遥に魅力的になったと感じている。
「そ、そりゃまぁ、人の体を扱う仕事だし、俺自身も鍛えなきゃいけないと思って……」
「嬉しかったけどさ……ぶっちゃけ今夜はすっごく大変だったよぉ……性欲モンスターの葵が、よりパワーアップしちゃったんだもん……僕、壊れそうだったんだよぉ?」
「わ、悪い。久々でその、嬉しくなってつい……」
「ってぇ、言ってる側からまたぁ?」
樹はそう俺の体の一部を指摘し、おねだりを始める。
「お、おい、樹、お前……もうどうなっても知らないぞ!」
「きゃはっ♡」
遠慮して欲しいのか、して欲しいのかよくわからない俺だったが……久々ということもあり、この後樹のことをまたしてもめちゃくちゃにしてしまう俺だった……。
ーーこうして俺と樹の過酷だけど、楽しい一年が始まった。
時にトレーナーとして、恋人ととして、樹を心身ともに支えつつ、様々なところをわたり歩いた。
樹は結果を出すために。
俺は樹が良い結果を出せるように。
お互いを支え合いながら、ただひたすら、オリンピック再出場を目指して。
……だけど、残念なことに、この一年の樹と俺の頑張りは叶わなかった。
あと一歩のところで、樹はオリンピックの再出場を逃してしまったのだ。
でも、俺、そして樹自身も、この一年で薄々ではあるが、そうなるような予感がしていた。
だから、出た結果をすんなり受け入れることができていた。
そして俺たちは新たな目標へ向けて、動き出すこととなる。
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「ほれ、お肉焼けたぞ」
「ん。ありがと!」
ダッチオーブンで焼いた鶏肉をお皿に盛って差し出すと、樹は満足そうに頬張る。
俺も久々のキャンプの空気に懐かしさを覚えている。
これまでお互いに忙しく、実に十年近くぶりのキャンプだったからだ。
「なぁ、樹、これで本当に良かったのか?」
ふと、樹が決断をしてから、ずっと気にはしていたが、だけど聞けなかったことを口にする」
「ん、良いのもう。僕の夢は全部叶ったから」
すると樹は間髪入れず、穏やかな表情でそう返してくる。
「オリンピックの出場に、金メダルの獲得、葵と一緒に駆け抜けること……全部できた。もう、水泳選手として思い残すことは何も無いよ」
樹はオリンピック再出場が叶わなかったことを機に、競泳界からの引退を宣言していた。
これからは俺が専属トレーナーを務め、恵那子先輩が所属する実業団の水泳のコーチとして後輩の育成に携わって行く。
実のところ、俺と樹は、お互いの時間が再び重なり合ったあの日に、これからのことを相談し決めていた。
もしも、オリンピックへの再出場が叶わなかった時は、新たな道を進もうと。
「なんかさ、よく考えてみると、僕と葵って、長い付き合いのはずなのに、そんなに一緒にいる時間が長く無いんだよね……」
確かに樹の言う通りだった。
俺たちは知り合ってもう十数年経過しているが、実際にこうして時を重ねているは、3年にも満たない。
しかもいっときは、本当に心が離れてしまっていた時期もあるのだ。
こんなのでよくこれまで付き合い続けられていたな、と我ながら思ってしまう節もある。
「いままで寂しい思いをさせてごめんね」
すっかり髪が長くなり大人っぽくなった樹は、俺の肩へもたれかかってくる。
そんな樹が愛おしくてたまらなくなり、俺自身も彼女のことを抱き寄せる。
「もう葵には寂しい思いはさせないから。ずっと、こうやって葵のそばにいるからね」
先日送った、樹の左手の薬指にはまるシルバーリングは、目の前で燃える焚き火の炎を宿し、赤い輝きを放っている。
「葵……僕のことを選んでくれてありがとう……! 僕のことをお嫁さんにしてくれてありがとう……! ずっと、ずっと、君だけを愛し続けて行くって誓います……!」
★おわり★
