第30話 佳き日
終業式が終わって明日からは冬休み。高瀬先生の、「体調に気を付けて」なんて話も右から左に聞き流し、号令と同時に立ち上がったハイテンションのクラスメイトに押し出されて廊下に出ると、そこで蓮が待っていた。
「蓮! えっと今日は——」
言いかけて言葉に詰まった。
結局、冬休みの話を一度もせずに今日になってしまった。ずっと楽しみにしていた長期休みだったのに、今日の予定だってなにも……。
「今日、良の家に行ってもいい?」
黙ったままの俺に、蓮の方から歩み寄ってくれる。
「うちに?」
「うん。だってほら、イブだし」
こんな風に言ってもらえるのもいつぶりだっけ。
そうだった、今日はクリスマスイブだ。
いつの間にか感情を発露する神経も鈍くなっていたらしく、嬉しい気持ちがじわじわ染み出すみたいなスピードで溢れてきた。
「もちろんいいよ!」
「よかった!」
蓮の顔に笑窪と八重歯のダブル乗せの笑顔が浮かんで、胸がギューッと締め落とされそうになる。
笑顔さえとても久しぶりな気がする。
知らないうちに自分がこんなにも駄目な彼氏になっていたことを認めながら、恐る恐る両手で笑窪に触れると、照れたように上目になった蓮がチラッと周囲を気にした。その途端、廊下の喧騒がうるさいほどの音量になって二人を現実世界に引き戻した。
クリスマスイブ、終業式、冬休み、あと年末。お正月だってすぐに来る。
高校生カップルである俺たちが取り憑かれているべきハッピーな雰囲気が、きちんと皮膚のすぐ外側に存在している。
「じゃーなー! りょーち!」
乱暴にリュックを押されて身体がよろめく。
うるせえ赤城、じゃあな。
「蓮、いこ!」
「うん!」
笑顔の蓮を抱きしめたい衝動と戦って、蓮の手首を掴んで着ぶくれた同級生たちを押しのけて廊下を進む。
どけろどけろじゃまくせえ!
あーもういいか、どうせ明日から冬休みだ。
するっと手を滑らせて蓮の手を握った。すぐに握り返されて、思わず階段を二段飛び降りる。
「わっ!」
くんっとお互いの腕が伸びて、後ろから驚いた声とくすくす笑いが付いてくる。頬がしゅわしゅわとくすぐったい。
はた目には強引に連行しているように見えているかもしれないけど、どうでもいい。俺は手ぇ繋いでるから!!
蓮に誘われてトトールに寄って、期間限定のホットショコラを注文した。
「甘いんじゃない?」
いつもコーヒーの俺が珍しくこんなものを頼んだから蓮は驚いていた。
「だって蓮と同じの飲みたかったからさ」
「えー? それ嬉しい」
またダブル乗せの笑顔を引き出せて得意な気持ちになる。
トトールは満席で、いつもの雰囲気ではなかったけど、今日がイブだと思うと悪くない。
それに隣には蓮がいる。それだけで何もかもが最高だ。
ショコラを飲みながらバスで家に向かった。
学生ばかりの騒がしい車内で久しぶりに一緒に揺られる。
蓮は俺が気にする前に、「お金は自分で払えるからね」と耳打ちしてきた。
「デート代繰り越してるのに」と呟き返すと、「じゃあケーキ買ってもらおうかな」と初めてのおねだりをしてくれた。
「買っていいの?」
「買いたいの?」
「そりゃ買いたいよ!」
当然だと俺が胸を張ると、蓮は変な顔をしていたけど、俺が残りのショコラを飲み干して、「ホールケーキを買う!」と決心すると、「やったね!」と肩に頭が押しつけられた。可愛い。
柔らかい髪が頰に触れ、距離を感じていた最近の毎日を急にもったいなく思って、早く蓮を抱きしめたくて堪らなくなった。
「蓮くん! 最近会えてなくて寂しかったとこ!」
「俺もお母さんに会いたかったです!」
相変わらず律儀な蓮のお辞儀。確かに久しぶりに見たかも。
「丁度お湯沸かしてるところなの、お茶入れるから持ってって」
「頂きます。あ、そうだこれ――」
蓮がリュックを下して中から紙袋を取り出す。
「なあに?」
「うちの近所にカフェができて、焼き菓子が美味しいってうちのおばあちゃんが言ってたので」
「わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう! あれ、これってもしかしてバラがたくさん植えてあるカフェ?」
「あ、やっぱりもう知ってましたか」
「噂だけね! 来年のバラの時期に行ってみようってお友達と話してたのよー!」
「それがいいと思います。来年のために今年は咲かせていないって言っていました」
「へえー楽しみ!」
蓮と母さんの会話を聞くのも久しぶりだ。俺は蚊帳の外だけど、楽しそうな二人を見ているのはそれだけで嬉しい。
お茶と、蓮の持ってきた焼き菓子を幾つか受け取って二階に上がる。
蓮が部屋に来るのは何時ぶりかな。なぜか少し緊張する。なんでだろ。
「ハンガーいる?」
「ありがとう」
ああ早くキスがしたい。あと押し倒したい。テンション上がりすぎかな。だってクリスマスイブだ。いや違う、久しぶりの蓮だ。
俺の様子がおかしいのか、蓮がハンガーをフックに引っ掛けながら覗き込んでくる。
「良、どうかした?」
しれっと振舞うつもりが、ごくっと喉が鳴った。
「早くキスしたいだけだよ」
思わず本音が出た俺に、蓮が眉を寄せる。
「昨日もしたよね?」
「そうだけど!」
そうだけど、なんか、なんでこんなに緊張してんだろ俺。
そうっと顔を寄せて唇を合わせると、まるで初めてみたいに唇がカチカチで、蓮も気がついたのか、ぷっと笑った息が唇にかかった。
「笑うなよ」
「だって変だから」
「自覚はあるよ」
蓮の瞳に見られながら、唇をもう一度合わせる。
蓮は最近の俺たちの関係が変だって思わなかったのかな。距離を感じてたのは俺だけ? 将来に向けて当然の変化?
そうなのかな、そうなのかもな。だって受験生だし。
変取り合えずお茶でも飲んで落ち着こう。
「蓮、ケーキ食べよ!」
クリスマス仕様のシンプルな生クリームケーキ。
雪原のような土台にモミの木が一本。その横にログハウスが置かれ、プレゼントの様にいちごとブルーベリーが積まれ、金字のハッピーホリデーと書かれたプレートが立て掛けてある。
「美味しそう」
嬉しそうに呟く蓮に、付けてもらったプラスチックのフォークを渡す。
「いただきます!」
ケーキにそのままフォークを差し込んで、大きなひとすくいを蓮の口に向ける。
「え?」
驚いた蓮に頷いて見せると、蓮もひとすくいを俺に向けて、二人でお互いのフォークにぱくっと齧り付いた。
「美味しい!」
「うん、美味い!」
クリームをぺろっと舐める蓮の口元がちょっとエロい。
味を占めた俺は、せっせとすくっては蓮の口にケーキを運んだ。
半分ほど食べ進めて、空になったカップにポットの紅茶を注ぐ。
「良、まだいける?」
「クリームがあっさりしてるからいける」
お互いの口にまたひと口運ぶと、蓮の頬に笑窪が浮かぶ。クリームの付いた八重歯を舐めたいと思う日がくるとは。
「蓮がたくさん食べたいっていうなら譲るよ?」
「そんな人を食いしん坊みたいに言わないでよ」
「食いしん坊だろ?」
「まあそうだけど。あ、そうだ」
フォークを置いた蓮が、自分のリュックに腕を突っ込んだ。
「忘れないうちに、これ」
中から緑のリボンのついた箱が出てきてテーブルに置かれた。
「え、これって」
「クリスマスプレゼント」
そりゃそうでしょという顔をされ、俺の思考は真っ白になった。
「お、俺に?」
「そうだよ」
頷く蓮に、自分の顔面はうまく動かない。
なんとか箱を受け取って、「でも」とか「えっと」とか、意味不明な音が出る。
「良の誕生日になにもあげられなかったから、どうしてもクリスマスは用意したかったんだよね」
「どうしてもって……」
ああ嘘だろ、やっぱりあれって。
「蓮、もしかしてずっとお昼抜いてた?」
蓮の頬に形ばかりの凹みが現れて、俺の胸の真ん中にも凹みが出来た。
「そんな、昔話じゃないんだからさ」
ありがとうと言うべきなのか分からない。何も要らなかったのにとも言いたくない。
ただ俺は確かにその可能性を感じていた。なのに、まさかそんなことがあるはずないって思おうとしていた。
「そんな顔しないで、ちょっとだけだよ。おばあちゃんがお小遣いくれたから選択肢が増えたし」
それは蓮のためにくれたんじゃないの? 俺のプレゼントに使っちゃっていいのかよ。そう言いたいけど、蓮の笑顔を見ると言葉に詰まる。
「俺のサンドイッチ食べればよかったじゃん。あんなん挟むだけなんだからさ……」
首を竦めた蓮と自分の間でプレゼントが困った顔をしている。このままにするわけにもいかず、リボンを解いた。
中身は手袋だった。
「なんか、すごい、なにこの手袋」
語彙力が失われた俺を蓮が笑う。
「トレッキング用なんだ。適度な保温力もありつつ、通気性が良くて強度もある。滑り止めとUVカットも付いて、えーとあとはスマホも操作できるし、薄手だから指も動かしやすい! だそうです」
「お店の人の受け売り」と笑った蓮に、また言葉が出てこない。
「発表会でみんな手袋してたでしょ? お母さんに聞いたら、冷えると指が動かなくなるからって教えてくれた」
「……うん」
「色々迷って、機能性全振りにしたんだ。良は手が大きいからサイズが心配だったんだけど、どうかな」
手袋に指を通しながら、蓮の指先のささくれが目に留まる。
「良かった、丁度良さそうだね!」
ほっとして笑う蓮が愛おしい。でもバカって怒りたい。
痩せているのが気になったのに、言われて素直にサンドイッチを作るのをやめた自分にも腹が立つ。
「俺なにも用意してない」
「ケーキ買ってもらったよ、今までもデート代出してもらったしさ」
「そんなこと言うなよ! 俺も蓮にプレゼントしたい! 冬休みに一緒に買いに行こ?」
そうだ、冬休みの話がしたかったんだ。湖畔のコテージは冬も泊まれるらしいんだよ、暖炉が付いてるんだって。あとは新年に神社に行きたい。受験用のお守りとか買ったりしたいし。しばらく引いてなかったおみくじを引いてもいい。蓮ってお年玉はもらえるのかな。家族で里帰りとかするかな。誘ってもいいのかな。
「あのね良、俺、別れたいんだ」
***
俺の別れの言葉に、良は珍しく長い間をとった。
良の目は俺を見ていたけど、細かくたくさん揺れて、言葉が音にならないみたいだった。
動揺している良を俺はそれ以上待たなかった。
「こんな日に言うのもあれなんだけど、冬休みに入るし、顔を合わせない時間があった方がいいと思って」
「……なに言ってんの? 今ケーキ食べたじゃん。キスだってしたし、これも、プレゼントだって」
手袋をはめた自分の手を見て、まだうまく考えられていない様子の良を眺める。
もう笑顔は見られないかもしれない。
「うん、そうだよね、ちょっと名残惜しくて甘えた。ごめん」
「ごめんって……いや、いやいやいや!! 別れるってなに?!」
良が手袋を脱いで箱の上に乗せた。動揺しているけど言葉は冷静だ。自分も思っていたより冷静だ。
「別れるは別れる。本格的に受験が始まる前がいいと思うんだ。良は頑張らなきゃいけないでしょ? 俺もそうだし」
「一緒に頑張るんじゃないの?」
「俺は良のなんの役にも立てないよ。音楽のことはわからないから」
「そんなのお互い様だろ? 役になんてたたなくていいよ、俺は勝手にピアノ弾いてんだからさ」
「そうじゃないでしょ? 音大に進むっていうことは、これからの人生もずっとピアノを弾いていくってことだよね?」
「そう、だけど……」
突然別れ話を始めて、今さら申し訳ない気持ちがする。でももう言ってしまった。
「良には才能があるって、良の先生も由利奈さんも、お姉さんも言ってる。でも俺には分からない。それが寂しい」
「じゃあピアノなんかいらないよ!」
良がテーブルを押しのけて俺ににじり寄った。困惑して、怒っているようにも見える。でもまだ話し合おうとしてくれている。
「すぐ働く、蓮と同じ大学を目指したっていい。一緒にいられるならなんだっていいんだ俺は!」
何を言ってるんだろうこの人は。あんなに幸せそうにピアノを弾くくせに。でも俺も、そんなふうに言われたら嬉しいって思ってしまう。
やっぱり違う。このままじゃ間違った方へ進んでしまう。せっかくのきっかけが台無しになってしまう。
「良、俺なんかのためにピアノを辞めないで」
「じゃあ別れるなんて言うなよ! 俺は蓮のおかげでまたピアノ弾いてんのに!」
「うん、きっかけになれて凄く嬉しかった。でもこの先は一緒じゃないと思う」
「どうしてだよ!!」
「俺は俺でやらなきゃいけないことがあるし、お互いに将来があるでしょ?」
「俺に将来なんてまだ全然ないよ!! 音大に受かるかどうかも分かんないのに!!」
「じゃあ今必死にならないといけないよね? 俺もそうなんだ。ちゃんと大人になって親を安心させたい。自分のためにも」
「よくわかんない、俺といたらちゃんと大人になれないの?」
前屈みになった良の顔がすぐそこにあって、癖付いた抱きつきたい衝動が湧いてくる。
「なれない。嘘がたくさん必要だから」
ショックを受けた良から目を逸らさないように奥歯を噛む。
「俺は今のままではいられない、未だに親は俺を許してない。だからせめて、よくないって分かってることは控えたいんだ。良と付き合ったままじゃ、ずっと親に嘘を吐かなきゃいけない」
「じゃあ一緒に挨拶に行くよ。付き合ってるって言いに。いつか言わなきゃいけないなら今すぐだっていいだろ?」
「良、ごめんね。まだ勇気がなくて」
違う、勇気がないんじゃない。
ゲイだということで、今までの全てを許容されてしまいそうで怖い。両親には理解できないだろうセクシャリティが、俺の今までの行動の全ての原因だと納得されるのが怖い。
ゲイだということで悩んだことなんて一度もない。だって良が直ぐに抱きしめてくれた。
「このままでもいいよ、俺は気にしない。大人になって蓮が親に言えたら、そしたら挨拶に行こう? 言いにくくて嘘があったって、それはしょうがないことだろ?」
「これから五年も?」
「五年なんてすぐだよ。俺は構わない」
嬉しいな、言われたかった言葉をちゃんとくれる。
でも後ろでグランドピアノがじっと俺たちのやり取りを見ている。
物に埋もれていた時でさえ気配が強かったのに、今ははっきりと生命力を感じる。この瞬間も、良に弾かれるのを待っている。
「待ってないでいい」
「なんで? 他にも理由があんの? ちゃんと言ってくれよ!」
良の手が必死に自分を抑えている。感情に任せて俺に触れないように。
こんなところも好きだな。
「俺はここに来てることを家族に言えない。そのうえ今も良の練習の時間を奪ってる。そばにいると不安なんだ。俺のせいで良の未来が変わっちゃうかもって」
「俺の未来?」
「良、ピアノを弾いて?」
「弾くよ、俺だって変わらなきゃいけないんだ。こんなままの自分じゃ蓮の恋人として胸を張れない」
「どういうこと?」
ようやく良の手が俺の手に触れた。温もりを移すみたいにそっと。
「俺は蓮の恋人として相応しくなりたい。そう思ったから音大を受けることにしたんだ。俺にはピアノしかないから」
手が良の胸に置かれて、ただため息が出た。
「そうだったんだ」
もう俺には勿体無いくらいなのに。ピアノに夢中になる良が俺の知らないところへいってしまうようで寂しいのに。俺はただ親を安心させたいだけの子どもなのに。いったい良には俺がどれほど素敵に見えてるんだろう。
「俺がいなかったら音大には行かないの? 俺には一度だってそんな話はしなかったのに」
「それは……」
「俺に話しても分からないからだよね。俺はピアノを知らない。音楽のことも。遠く離れたところで、ただ頑張ってとしか言えない。それもきっと寂しいと思うんだ」
「……だからって、別れるなんて言うなよ」
「良の手はみんなを喜ばせる手になる。でもちゃんとピアノと向き合わないとなれないと思う。そんな簡単なものじゃないのは俺にも分かるよ。俺なんかとコソコソ付き合ってちゃダメだよ。俺もそうなんだ、両親に嘘無く変わったと思ってもらいたい。言えない関係があるままじゃ、俺が苦しいんだ」
「……大学は遠いよ、全然会えないから、嘘も少なくて済むよ」
良の声に張りがなくなっている。俺が迷っていないと理解してくれている。
力のない手が俺の手を頼るように握って、俺は大きなそれを両手で包み込んで、手触りを憶え込もうとする。
「ずっと秘密のままでもいい」
「そんなのよくないよ」
「俺の家族は知ってる。みんな蓮が好きだ」
「うん、嬉しかった。自分の家族に紹介できないことが申し訳なく思うくらい」
「蓮……」
「お姉さんはこのことを予言しなかった。きっと悪いことじゃないからなんだよ」
俺の言葉に良は黙ってしまった。説得力があったらしい。
「別れたいって言えてホッとした。お金がないことも気にしないで済む」
良の目から涙が落ちて、俺の両手の中でうずうずと大きな手が悶えている。
「良、最後にしてくれる?」
「……嫌だよ、最後なんて」
無視をして押し付けた良の唇は、涙で濡れて震えていた。
「どうしたらいいんだよ、俺はどうしたら良かったんだよ。パティシエを選べばよかった? 蓮と同じ大学を目指せばよかった? 俺は蓮を失いたくない」
良の唇に何度も吸い付く。初めてのキスを思い出しながら。
少しずつ、優しく深くなっていって、おいでって言われてるみたいだったな。
「良の優しいセックスが大好き。一度も怖くなかった。初めての時も、その後もずっと」
囁いて立ち上がり、良の手を引くとふらふらとついてくる。
「……俺は怖かった、怪我させたくなかったから」
「そうだったの?」
良をベッドに座らせて、そのまま後ろへ押し倒した。シャツを捲ると、おへその横のほくろを見つけて人差し指で触れた。
「初めての時に嫌な思いしたら、ずっと怖くなっちゃうだろ」
「優しいね」
焦点の合っていない目が俺の顔を彷徨っている。
良のシャツのボタンを外しながら笑顔を見せて、何度も唇を押し付けて、ようやく返ってきたキスは浅かった。
いつもの食べられてしまいそうな勢いはなくて、必死に舌を絡めて引き留めないと、喉の奥を塞いでしまいそうなほど良の身体は弛緩していた。
それでも大きな手がゆっくりと俺の身体を滑って後頭部を包み込んだ時、我慢していた涙がこぼれた。
「蓮のよく食べるところが好きだよ。特に甘い物食べてる時の幸せそうな顔が大好きだ」
指先が俺の涙を拭ってくれる。
「笑窪と八重歯も好きでしょ?」
頬を上げて歯を見せると、親指が凹みに触れる。
「時々おばあちゃんみたいになるのも好きだ」
「おばあちゃん?」
「うん。なんでも話を聞いてくれる優しいおばあちゃん」
「なにそれ」
笑うとまた涙が落ちた。涙は良の顎先に落ちて、拭った指先にもう一粒落ちた。
「関田の話を聞いてやってる姿に初めは嫉妬したけど、丁寧で律儀なところも大好きだよ」
「俺のために関田をいじらないでくれたよね」
「だってあいついい奴だからさ」
少し耳が詰まっている気がする。気のせいかな。
良のシャツを捲って舌先で乳首を舐めると身体がふるっと揺れた。唇で覆って音を立てて吸い付く。
「蓮……」
「初めて良の隣でピアノを聴いた時、本当に感動した」
「合唱の時?」
頷いて起き上がり、良のベルトを外して、フックとファスナーを下す。
「楽しそうな良の隣で本当に幸せだって思った」
「ずっと隣にいてよ」
そうすると言いたい気持ちを飲み込んで、下着ごと制服を引き抜いた。長い脚の真ん中でくったりとしている良の股関に手を伸ばして、やわやわと揉み込んで、指先で揺り起こすように摩った。
「俺を良の特別にしてくれてありがとう。本当はゲイなのかもって少し思ってたんだ。でもだからってどうしたらいいか分からなかった。あのとき良がキスして教えてくれて、嬉しかった」
「俺は、多分バイじゃない」
良の潤んだ目が、俺の顔を隅々まで眺めている。
「蓮が特別なだけだと思う」
「……そっか」
やっぱりそうだった。
これでいいんだ。俺は良の北海道旅行だ。
何度か試したけど、良がその気になることはなかった。
裸で寄り添って、言い残しがないようにたくさん好きと囁いて、笑って見せて、忘れないように良の身体の隅々を観察した。
上着を着て、良の部屋をぐるっと見回す。
ブルーグレーの遮光性のないカーテン。掛けられた制服のジャケット。棚に置かれたきりのブラシ。
リュックにはお揃いのオオムラサキの缶バッヂ。勉強をして、ケーキを食べて、腕相撲までしたローテーブル。作家別に重ねられた本。
パチッと瞼でシャッターを切って、普通になった記憶力で、もう二度と立ち入ることのない良の部屋を焼き付けた。
くじらみたいなグランドピアノが、良は大丈夫だと言ってくれている気がした。
階段を降りると、リビングにお姉さんがいた。
「あら」
「こんにちは」
頭を下げ、再び顔を上げると、初めて視線がきちんと合う。
ようやく良のお姉さんに会うことができた。発表会ではステージにいるお姉さんにしか会えなかった。
結局エスパーを目の当たりにすることはなかったけど、初対面が今日だというところがこの人らしい。
「イブなのにもう帰るの?」
「はい。お邪魔しました」
初めまして、なんて挨拶はいらない。だってもうさようならだ。
「良はどうしたの?」
キッチンからお母さんが出てきて、エプロンで手を拭っている。
「疲れたみたいで」
「しょうがない子ね、あんなに会いたいってしょぼくれてたのに」
「確かにしょぼくれたピアノの音が聞こえてきてたわ」
くすくすと笑い合う二人を穏やかな気持ちで眺める。
居心地が良かったな、良の居場所は。
でも俺は良の運命になれた。一緒に居られた時間はご褒美みたいに幸せだったな。
「それでは、お父さんにもよろしく言っておいて下さい」
靴を履いて、見送りに立ち上がってくれたお母さんとお姉さんに向かい合う。
「さようなら」
「またね」
「夜道に気を付けるのよ」
「はい」
ありがとうお母さん。俺、良と同じくらいお母さんのことが大好きでしたよ。
良は俺と居て幸せだったかな。
俺はね、幸せだったよ。きっと死ぬ間際にも思い出すと思う。それくらい。
三年生になってからは、うっかり良を見つけてしまわないように俯いて歩いて、昔のように無口になって受験勉強に励んだ。
仕方なく顔を上げる時は、対岸の風景を見るように全体を眺めて過ごした。
一度トイレに入ろうとしたら、良とクラスの人の声がして、俺は慌てて身をひるがえして逃げ出した。
「最近一緒に居ないな」
「何が」
「お前の、蓮?」
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