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初めまして。
なるほど、そういうことに関しては考えたことがなかったですね。
自分が書く時は、会話部は話し言葉で書く、自分が読んでて違和感がないなら他の人もまあ大丈夫だろうくらいです。
また、一人称は、Aちゃんと言うキャラが『わたし』ならいつまでも『わたし』を使います。それは他のキャラと区別するため、幼い子なら漢字よりも平仮名にした方がそれっぽいからという理由です。
語尾を変えるとかもやりますが、例えば、現実では『わたし』を使う人だって『あたし』だったり、『うち』とか色々使います。でも、文章書く時は1人につき一人称は1個として決めちゃってますね。
バラついてると、たぶん読み手に伝わらないか、伝わりにくくなると私が考えてるからでしょう。
ら抜き言葉にしても自分が普段使ってる方に合わせちゃいます。
そこら辺を遊び部分として、上手く小説に取り入れられたら面白そうではあります。
例えば『雰囲気』にルビを振るとして本来なら『ふんいき』ですが、口語にすると私は『ふいんき』と言ってしまいます。
子供の頃そう習ったので、大人の今でもそうです。作中で『ふいんき』とルビを振っても通じますが、口語だからなのか、作者が知らないのかは読み手からは判断しにくいのかなとも感じます。
そこが文章では難しいところかなと思います。
作者からの返信
こんにちは。
コメントありがとうございます。
また、レビューまでいただき恐縮です。
さて本作。
表記の揺れ、色々です。
読み取りのノイズになるという人もいれば、
私みたいに、意図して利用するべきという人もいます。
どちらにしても、なにかの適切な参照データがあるわけではないのです。
大切なのは、意図を持ってどちらかを選ぶ。
またはその割合を勘案する。
書き手の書き方への姿勢なのでしょうね。
めんどくさいことですけど。
重ねて。この度はコメントとレビューをありがとうございます。
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そうですよねぇ。
全部正しいと、お話もつまんなくなっちゃうかもですよね。でも意図的に文章に揺らぎを入れるのは、相当に高度な技術だと思います。
それからオオカミ少年の話に、素敵なレビューをありがとうございました。嬉しかったです。
作者からの返信
いつもコメントありがとうごさいます。
うだるような通勤の唯一の拠り所がコメントなので助かっています。
レビューまでいただいて恐縮です。
さて。正しい情報は大切です。
逆に考えて、間違った情報を入れるヤツは頭おかしいです。
だけど。
同じ情報を繰り返すのは、退屈ではないでしょうか。
一人称が〝オレ〟のキャラクターが〝ボク〟と間違って言った。
これだけで新たな情報が生まれます。
こんな単純に物語の情報量を上げられる方法を使わないのも損ですよね。
でも確かに。
真面目な人ほど、正しさこだわります。
間違いを嫌がる人には、酷な技法ですね。
書いてて気持良くないとしたら、マイナスの効果でしかないですよね。
私みたいに全部間違ってても良い。ぐらい思っている適当人間に特有のやり口かもしれません。
それと。遅ればせながら。
私の書いたレビューへの丁寧な返礼も忝ないです。
重ねて。この度はコメントとレビューをありがとうごさいました。
編集済
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カクヨムを去られたある方がいまして、自分なりの供養として、その方の足跡を追っていたところ、木山さんの作品に偶然たどり着きました。
物語の登場人物に人間らしい曖昧さを持たせるのは、私も大事に思います。全員が全員、説明口調な小説に出会った時、言葉にならない違和感があって、その思いが起きた理由を確かめる、それだけのためにその小説を読み続けていたことがありました。明確に言語化していただいていたので腑に落ちました。
ありがとうございます。また折を見て、作品の方にお邪魔させていただきます。
作者からの返信
お久しぶりです。
そしてご無沙汰しておりました。
最近の私は、色んな方への書き込み活動を怠けているのです。
そんななかでのコメント。忝ないです。
この度は、カクヨムを離れてしまった方の足跡を辿り私の処まで来られたとのこと。
とても深い情趣を覚えました。
ここに辿り着いたということは、おそらく私もやり取りをしたことがあった方なのでしょう。
しかし私には、いなくなられた方の心当たりもないという薄情っぷりです。
申し訳ないことです。
私がカクヨムに登録してからもう9ヶ月ほど経ちました。
思えば初期にやり取りしていただいた方々の多くとは疎遠になっています。
もちろん今回の平手さんのように、コメントしてもらえたりする嬉しい場合もありますけれども。
平手さんの来訪で気になって調べると。
以前交流されていた方々の一部では現在、小説の更新がされていないとか近況ノートも数カ月書かれていない。アカウントが無くなった等。
そんな状況が確認できました。
なるほど〝人の交わりにも季節あり〟と実感します。
いまあるつながりを疎かにしないようにしたいと思いました。
さて、当エッセイ。
物語において、正しい事だけがすべてではない。
そんな話です。
校正者に殴られそうです。
ただ。
表記ルールや作劇方法などここ百年程度の話です。
宗教の教義みたいに絶対視するのもなんだか堅苦しい。そんな主題でした。
書く者の意欲や楽しさを削いでまで、正しくあるというのもなんだろうって思ったのです。
校正、校閲こそAIがやると良い事ですし。
長くなりましたが。
重ねて、この度はコメントありがとうございました。
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書いている方がどのように考えながら書いているのか、とても興味があります。
自分では色々と考えて書いているつもりなのですが……ふっ。まだまだ薄っぺらい上澄みのような思考だと痛感しました(^_^;)
・意図して正確でない表記
・物語に奉仕するためにいる登場人物
耳に痛い言葉でした。
気をつけないといけないなぁと。
心地よい物語というものは、塩梅が上手いのだと私は思います。
あまりにも正確すぎると苦しくなってしまいますが、
かといって、曖昧すぎ(程度がすぎるとご都合主義)は、
物語が一気に胡散臭いものに思えてきて、ちょっと興ざめしてしまいます。
ま。これは個人の好みの問題なのでしょうが。
〝意図的な不正確さ〟
これはファンタジーでいうところの
一度で設定を言い尽くさない……という注意に通ずるものがあるのか、
と勝手に解釈しました。
登場人物の不合理なふるまい、納得できる滑らかな展開を
今は重点的に注意しているつもりなのですが、
文字数がどんどん膨らむだけで……読み手を意識しながら書くのは難しいと思う今日このごろです。
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
コメントだけが半分眠っているような薄ボンヤリした日々を送る私を現に呼び戻してくれます。
さて本作ですが。
私は他人様の創作論を読むのが好きで、読んでいるうちに気がついた点をまとめたものです。
実際に世の中の人の話す言葉というものは、だいたい滑舌が悪いものです。
喋る順序とか言葉遣いとか大抵は適当です。
なのに、物語だけ常に正確で一つも間違いがない。
そんな風に現実の会話と作中のそれが乖離していたら変かもしれない。
というところから形になったエッセイです。
とはいえ私もそんなに不正確な、ことばかり書いているわけでもないのです。
すべては演出の設え次第な気がします。
重ねて、いつもコメントありがとうございます。
編集済
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とても考えさせられる話ですね。
実際の会話は矛盾を含むし、意味のないものも多い。
一方、物語の中では、読者を意識せざるを得ないため、読者に向けて説明することも多くなります。
誰が喋ったかをはっきりさせるために、口調、主語、語尾などに特徴を付けることも多いです。そうなると、実際と解離することになります。
リアリズムをどこまで追求するかの問題になってしまいそうです。
とても役に立つご指摘でした。ありがとうございます。
作者からの返信
訪問とコメントありがとうございます。
逆に全部虚構という語り口もありますよね。
昔の冒険活劇。探偵物などにあった
俗に〝講談口調〟〝読み物口調〟というものです。
文中に
「さあ、賢明なる読者諸兄は、もうおわかりだろう!」
などと語り部が直接に読み手に語り掛ける形式で
演劇で言う〝第四の壁〟飛び越しパターンのヤツです。
あれだと些細な作り事を気にする方がばかばかしくなるのですが、そんな形式の小説を令和に書く人もないですよね。読みにくいし。
重ねて、この度はありがとうございました。
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突然のコメントで失礼します。タイトルと内容に惹かれ、読ませて頂きました。
「登場人物の言葉の不正確さは、そんな現実を加味した表現」
と言う部分に共感と、自身が言葉に出来なかった事を的確に書かれており、腑に落ちたと言う感想を抱きました。
確かに全てを滑らかに語れば現実性が薄くなり、かと言って、あまり語らずと言う部分も難しく…
書き手の工夫が試される場面だと思い、非常に参考になりました!
作者からの返信
訪問とコメントありがとうございます。
おそらく言葉には、本来伝わりずらい性質があるのでしょう。
日常では会話の際に前後関係や参照事例は説明しないし。
その欠落部分を文字にした際に補った結果として
文章はだいたい嘘くさい言い方になる。
そんな印象につながっているのかもしれません。
重ねて、この度はありがとうございました。
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拝読させていただきました。
物語を書くときはどうしてもセリフを作りにいってしまうので、言い間違いのようなものは、意図的に発生させてしまいますね。わざと間違えて笑いを取ったりとかがいい例でしょうか。
語尾の統一とか、ら抜きなどもどっちで行こうかと一応考えますかね。
言動が一致しなかったりは特に一人称では揺らぎになるので重要だよなあとか、考えながら読みました。面白かったです。
作者からの返信
訪問とコメントありがとうございます。
ここに来る方は皆さんまじめで、考えて創作をされている方ばかりで頭が下がりっぱなしです。
思うに。物語りでは
〝こうしてやろう〟という意図が話に透けたら終わりなのかもしれませんね。
計算でもキャラが勝手に喋っているんでもいいのですが、登場人物の話す言葉に作者の技術の拙さが表われたら、その途端にキャラが下手な人形劇の人形みたいに思えて来るのですよね。
物語りを作るのは難しいです。本当に。
重ねて、この度はありがとうございました。
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物語に奉仕するためにいる登場人物←ドキッとするお言葉……
作者からの返信
訪問とコメントありがとうございます。
〝物語に奉仕するためにいる登場人物〟は物語を評する文に散見される
ご都合主義を表わす言い回しなのですが、そういう役割を与えないで
作話することは、おおよそ不可能なんじゃないかと思います。
あと事柄の見方が逆かもですよね。
〝物語に奉仕するためにいる登場人物〟が居るんじゃなくて
〝登場人物が行動した結果が物語〟なのだからそうも見えるという話で。
評論する際に、捉え方や言い方を意識的に歪めている場合もありますよね。
その作品を〝貶したい〟意図が最初にあり、後付けでその理由を組んでいるみたいな。
ややこしいです、論評は。
重ねて、この度はありがとうございました。
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難しいとこっすねー
例えば自分みたいな吃音症の人間を登場人物にする場合とか、そういう障害が重要な要素でもない限りなんかうざい、無論自分みたいな障害持ちが見ても障害持ちの描写は読み難くてアレですから^p^
吃音持ちなキャラを見る事自体少ないですけどね、げんしけんの久我山位かな(シュタゲのダルも近いけど)
日常会話って本当、いい意味での「無駄さ」に溢れてるもんですよね
其れを自然な感じで表現していこうとする試みはいいと思うます
作者からの返信
訪問とコメントありがとうございます。
伝わることと、伝えることの違いでしょうか。
〝伝える〟ことを目的とした言葉の伝達には意図があるから、技術があり、技術である以上は上限が決まっている。
だから、当然できないことはあると受け入れる。
とうぜん文の雰囲気や余剰はその際に制限されると覚悟する。
その上で、できることを拡張する。倦まず続ける。
しかないかもしれませんね。
面倒ですよね。書く事は。
重ねてこの度は、ありがとうございました。
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拙作ご訪問ありがとうございます。
一読させていただいて、まったくそのとおりだと共感しました。
とくに「私は物語にはムダなことを表すこと、それには意味があると考えています」というところです。
しかも、そのムダと思われていることが、けっきょく何かを表現していることもよくあると私は思っています。
作者からの返信
訪問とコメント、ありがとうございます。
清瀬さんのコメントを読んで、私も考えさせられました。
曖昧に頭の隅にあった〝考え〟も、文章にすると明解になります。
ただ、その考えの筋道を整える際に、削られる考えも出てきます。
その捨てる方の〝考え〟にも面白い要素はあるわけで。
なにかを作る事とは、常に無駄な箇所とはなにか考えて、向き合う行いなのかもしれません。
重ねて、この度は諸々ありがとうございました。
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物語にはムダが必要、との一言に深く共感しました。
ムダ、だけれどもそれはその物語にとっては必然的なものでしかないのです。
正しい言葉で綴られる作品も、あえて正しくない言葉を織り込んだ作品も、期せずして不安定になってしまった作品も、それぞれ味があるものですよね。
木山さん、ありがとうございました。
作者からの返信
先ずは、コメントありがとうございます。
未来屋さんが把握した拙作の内容は正確です。
正にそういう話をしておりました。
蛇足ながら、補完すると───
量子力学では、粒子の位置と運動量を同時に正確に計測することはできないそうです。
これは、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と呼ばれている理論です。
私は物語の構造も、これに擬えられるのではないかと考えていたりします。
正確さと余情は同時に表せないのかもしれない。
ただし、正確さも余情も人により、その範囲は大きく変わるため、立証はできない。
こういう結局は、何の意味もない考え。
ムダな考え達を、グルグル回しているのもまた、文章を作る面白味かもしれませんね。
重ねて、この度はありがとうございました。
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〝い抜き言葉〟や〝ら抜き言葉〟を記したり、記さなかったりもします。→分かります。文法上の正しさよりも、キャラに言わせる言葉なのだから、「い」や「ら」を抜かなきゃ、こいつ丁寧すぎるやろとなりますよね。
いわゆる〝物語に奉仕するためにいる登場人物〟が苦手なのだと思います。→ストーリーを展開させるためにはキャラが動かねばならないが、作者のご都合主義が見えないようにすることは、私も気を付けてばと思っています。
どれだけ物語をリアルに近づけさせるか、他愛のない会話を紛れ込ませることもありますよね。それを冗長と言われるとそれまでですが、私も必要であると考えます。
遅くなりましたが、「救済皆無」にレビューを頂き、ありがとうございました😊他の作品にもお邪魔させてください。
作者からの返信
まずは評価とコメントありがとうございます。
創作をされている方に同意してもらえると、我が意を得たりとなります。
読み手の方から見たら、それは些細なことで。
適当に読み飛ばしたりする部分で。
むしろ、それでも良しとしなければならなくて。
絶対に文意の百パーセントは伝わらないし。
むしろ誤解があっても成り立つくらいの堅牢な構成をしてないとダメなわけで。
考えるほどに、文を作るのは難しいですよね。
そこが面白くもありますけど。
今後とも、よろしくお願いします。
また私の方もノエルアリさんの所に伺って、少しづつになると思いますが作品を拝読させていただきます。
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う~む、考えさせられますね。
私はweb小説と、それ以外の小説で、ここの正確性を意図的に変えています。
例えば、本文中にもある二人称代名詞ですが、
web小説では多少正確過ぎたとしても、絶対に揃えます。
web小説は削ぎ落した文でないと読まれにくいというのがあるので、
状況描写が最低限になります。
なので、それでも誰が何をしているか、
発言してるのは誰かわかるようにしなければならないので、
多少、ここの正確性は捨てて、わかりやすさを優先してますね。
web小説以外では、この配慮はいらないのですが。
あと、最近エッセイを書く機会があったので、
実は木山様のエッセイも参考にさせてもらっているのですが、
これまた小説とはまた違った正確さ、不正確さが必要で、
結構難しいですね。
そういう意味でも、為になる文章でした。
ありがとうございますm(__)m
作者からの返信
興味深い洞察を含むコメント、ならびに素晴らしいレビューをありがとうごさいました。
昔書いたものへコメントをいただけると、読み返す機会となります。
なんとなく懐かしいです。
さて本作。
表現ルールを媒体で決める。
ネット小説は厳密に整える。
蒼碧さんのご意見は、とても正しいです。
出来るならば、そうあるべきかと思います。
本作で私は、表現の規則具合はジャンルで決めると書きました。実際は緩い(と思っている)ジャンルを選んで書いているかもしません。
とにかく、ものを書く時には考える要素を減らしたいのです。
規範の緩いジャンルの筆頭(と思っている)のが、エッセイです。
整合性がほぼいらない(独断)
なにせ自分語り。語り手として書くのなら出てくる人物は自分だけ。
伏線とかないし。
ぜんぶウソでもいい(と思っている)
適当な私の人格が、そのまま適当に記されています。
そんなふうに思い込んでいるから、書くものにエッセイが割と多いのかもしれません。
でも筆致は正しく揃って簡略なのが正解です。
話はそれで、もう終わります。
私はただ、ダメな書き方しかできないから、そうしているだけなのです。
重ねて、この度は素晴らしいレビューと面白いコメントをありがとうございました。