3rd SINGLE「祝杯」
五十嵐璃乃
01. Daffodils(2025 Mix)
玄関のドアを、タイピングで疲れ切った腕で開けて、私は、低く小さな声で、「ただいま……」と呟いた。
上司からのパワハラ、過酷なスケジュール、周りからの無責任な期待————
今までなんとか耐えてきたけど、私はもう限界の状態だった。ちゃんとしたご飯を食べたり、ぐっすり寝たり、そういう当たり前なことができたのは、どれほど前だっただろうか。社会に憧れていた頃の自分は弾け飛んで、今は、ただただ働かされている、婚期さえ逃した、一人のOLでしかない。
辞めたい。
そう思ったことは何度もあった。けど、私は、辞表を出すのさえ面倒臭くなってしまった。それに、会社を辞めて今から就職したって、長い間働いてたくせに大した業績もない私を、雇ってくれる企業はどこにもないだろう。
こんな生活、いつまで続くんだろう……。
何もしてないくせに、私はそんな弱音を吐いた。今のところ、生きていたって、いいことなんか一つもない。小学生の頃は、具体的な夢はなかったけど、「一番楽しくて、一番幸せな、お仕事がしたいです!」とよく言っていた。懐かしさと一緒に、情けない未来の実像が浮かび上がってきて、苦しくなる。こんな未来が来るなんて、考えてもなかっただろうに。
気が付けば、もう深夜二時を回っている。近くのローソンで、弁当とサラダと缶ビールを買って、家に戻ってきた。玄関に佇む私の左手には、無機質で少し重たいビニール袋がぶら下がっている。
「おかえりぃー」
え?
突然、部屋から女の子の声が聞こえてきた。
私は数秒間固まってしまった。すると、玄関からは死角になっているリビングから、ひょっこりと小学生くらいの女の子が顔を出して、「どうかしたー?」と、私に聞いてきた。
いやいや、どうかしてますって! え? なんで、私の家に知らない女の子がいるの!? ちゃんと鍵かけてたよね!? ま、まさか泥棒!? いや、こんな小さな子がそんなことするわけないか……。
思考がグルグル回って、戸惑ったけれど、なんとか「ど、どちら様でしょうか……?」という形式的な
「もー、自分のことなのに、憶えてないのぉ? 私だってば、ワ・タ・シ!」
見るからにぷんすかぷん! といった様子で、女の子は私の近くまで歩み寄ってきた。
ところが、私はさらに驚いてしまった。
この近さでようやく分かったけれど、その女の子は、小学生の時の私自身だった。
な、なんで、私が二人もいるの!?
またもや思考がグルグル回った。
「む、昔っていうか、小学生の時の私……?」
「そうだよー! はぁ〜、やっと思い出してくれたよ〜。あ、それより、今、すっごくお腹減ってるの。だから、ご飯作ってー!」
いきなりかよ。ワガママだな、この子。そういえば、この頃の私は、お母さんによく駄々こねてたなぁ。
「で、でも、ご飯って言っても、私料理下手だし、今さっき買ってきたコンビニ弁当も、一人分しかないんだけど……」
「キッチン棚にカップヌードルあるでしょ? それ食べたい! あ、シーフード味ね!」
な、なんでバレてるのよ……。いつ漁られたんだろ。けど、シーフードが好きなのは、今も昔も変わってないなぁ。
「う、うん、じゃあ、そうしよっか……」
「わーい!」
可愛らしく喜ぶその子は、何の装飾もない純白のワンピースを着ていて、まさしく天使のような見た目だった(いや、自分で自分を天使って言うのは、なんかキモいな……)。ていうか、私、あんな服持ってたっけ?
「いただきまーす!」
「いただきます……」
今までご飯を食べる時に、そんなことを言える余裕はなかった。だから、〝いただきます〟という言葉には、どこか新鮮さがあった。弁当に入っていた唐揚げも、口にした途端、いつもより美味しく感じた。
目の前の「私」は、カップヌードルをとても美味しそうに食べていた。慣れ親しんだ匂いが、向かいに座っている私のもとまで届いて、鼻をくすぐった。彼女は、急いで食べようとしたのか、「あちっ!」と何回も言っていて、そうしている様子がとても可愛らしかった。
「実はさっきね、家の中見学させてもらったんだけど、すごいね! 一人暮らしなんて!」
「ああ、うん」
「お仕事もしてるんでしょー?」
「……うん、そうだね」
「いいなぁー、憧れちゃう! 私もはやく大人になりたいなぁ」
「……」
そうだ、この子に色々聞かないと。過去の私が今ここにいるなんて、マジで意味分かんないし。
「あ、あのさぁ、小学生の私は、一体どこから来たの?」
「え? そりゃ、もちろん、私が小学生の時からだよ」
当然でしょ? みたいな顔をされた。
「いや、えっと、そりゃそうなんだろうけど、そのー、どうして昔の私が、未来の私のところに来てるのかなぁと思って……」
私がそう聞くと、彼女は、痛いところを衝かれたような顔をした。
「……神様が降りてきたの」
「……え?」
「んー、えっとね、簡単に言うと、私が寝てる時に、夢の中に神様が降りてきて、私に『未来へ行ってきなさい』って言ってきたの」
「ゆ、夢の中に神様が出てきたの!? え、じゃあ、ここは、昔の私の夢の中ってこと!?」
「うーん、それは私もよく分かんない。気付いた時には、もうこの部屋にいたから」
「寝たまま、未来に来たってこと……?」
「多分? 私もね、いきなり神様が現れて、最初はすごくびっくりしたんだけど、神様と話してるうちに、段々『行かないといけないな』って思うようになったの。だから、神様の言う通りにして、未来の私に会いに来たの」
一連の話を聞いて、私は頭を抱えた。「私」からの説明を聞いても、全然状況が理解できない。
「ま、まぁ、経緯は分かったんだけどさ、なんで神様は、小学生の私に『未来に行け』なんて言ってきたの? それに、どうして小学生の私は、未来へ行こうって思ったの……?」
彼女が一瞬動きを止めた。すると、何か核心に近付いたというか、いわゆる「待ってました!」みたいな顔をして、
「えっと、未来の私はさ、今、何か困ってることとか、悩んでることとかってある……?」
と尋ねてきた。
今度は、私が痛いところを衝かれてしまった。
と同時に、喉にグッときた。自分の中に溜まっていた色んな感情が、急に込み上げてきた。
不意に、今日まで無理して背負っていたものが、この子の前なら、吐き出せると思ってしまった。何もかも、彼女に打ち明けられそうな気がした。
そして、理由を考えるよりも先に、口が動いていた。
もしかしたら、その時の私は、純粋だった頃の私に、いっそのこと浄化されたかったのかもしれない。
私は、昔の私に、全てを話した。
ブラックな仕事量、古い価値観が漂う職場、煩わしい人間関係、疲労で動かない体、それらに対する愚痴、自分の惨めさ。
そうやって散々仕事のことを語っていくうちに、ぽろぽろと涙が落ちてきて、いつの間にか、私は彼女の前でむせび泣いていた。
情けない。本当に情けない。
小学生の私にはよく分からないような話ばっかして、一人で勝手にいきり立って、それでいて、今は泣き散らかして……。仕事ばっかしてたせいで、私は救いようのない馬鹿になってしまったのかもしれない。
お偉い人の下で働かされて、搾取される、そうやって生きていくしかない類いの人間。
————私は自分のことが大っ嫌いになりそうだった。
けど、その瞬間、背中に温もりを感じた。
向かいにいたはずの彼女が、私の背中にぎゅっと抱きついていた。彼女の体は、私の全身を包み込めるほど大きくないのに、彼女のハグは、とてつもない安心感を私に与えてくれた。それはまるで、お母さんに抱きしめられている時のような感覚だった。いつしか、私は泣き止んでいた。
私が泣き止むのを見て、彼女は、子供らしく大きな安堵の息をつくと、私に対して、大人の微笑を見せてくれた。
「もう泣き止んだね。よかったよかった」
「うん……。ごめんね、一方的に喋った上に、泣いたりなんかしちゃって」
「ううん、大丈夫! 聞いてきたのは私のほうだから」
彼女は少し大げさに首を横に振った。そして、懐かしさを帯びた優しい口調で話し始めた。
「色々話してくれて、ありがとう。会った時から、ずっと暗い顔してたから、心配だったの。
えっとね、私が未来の私のもとに来たのは、神様から、未来の私がお仕事ですごく苦しんでるって聞いたからなの。だから助けてあげてほしいって、神様に言われたの。そんなこと聞いたら、行くしかないでしょ? だって、自分自身のことだもん。
あのね、未来の私が働いてる会社の話は、私にはまだよく分からないんだけど、未来の私が、つらくて苦しいって感じてるなら、私は、そのお仕事は辞めたほうがいいと思うの」
「……辞めて、いいの?」
「うん、そうだよ。無理したって、いいことなんかないし。つらかったら、逃げていいと思うよ……」
私の心を覆っていた殻に少しずつヒビが入っていった。そんな私に、彼女は言葉を畳みかけた。
「多分ね、未来の私は、大人になったから、色々と難しいことや複雑なことがあって、めちゃくちゃ忙しくて、大変なんだと思う。でも、そのせいで、余裕がなくなって、どうしようもないぐらい疲れてるように見えるよ……。
だからね、未来の私は、もっといい別のお仕事に就けばいいと思うの。お、大人の事情とかはよく分からないから、こんな単純じゃないと思うけど……。だ、だってさ! 未来の私は憶えてるかな? 私の将来の夢! 『一番楽しくて、一番幸せな、お仕事がしたい』って!」
―――――そうだった。
心の殻は、「私自身」の言葉で砕け散った。小学生からのド正論すぎる説教を経て、私はやっと自分自身を見つめられた。
私は現実をちゃんと見ているつもりでいた。どんなことがあっても、それが現実だって自分に言い聞かせて、受け止めようとした。大人になるってのはこういうことで、耐えられない自分が弱いだけなんだって思い込んだ。面倒くささから派生した言い訳ばかり、すぐに思い浮かんできた。
でも、私は、本当は大人に成り済ましてたんだ。結局、今のままでいるのは、嫌で嫌で仕方なかったんだ。私は大人になんかなっていなかった。きっとまだまだ子供なんだ。そう気付かせてくれた小学生の私のほうが、ずっと大人だったんだね……。
彼女の言葉は、甘酸っぱい感覚を伴って、私の胸に優しく突き刺さった。
そうして、その時、私は、すっごく久しぶりに、笑うことができた気がした。
「……そうだね。うん、『私』の言う通りにするよ」
「うん! そうしよ! あとはやくご飯も食べちゃお! 私のシーフードは、麺が伸びまくっちゃったけどね……」
「じゃあ、もう一個作っちゃおっか。何がいいー?」
「カレー味!」
やっぱり今も昔も、私は私だった。
翌日、私は堂々と辞表を出して、会社を出て行った。会社を出たのは、秋の夕暮れ時、雲一つない空の下だった。
エントランスを出ると、ビル群を照らす夕日を眺めながら、小学生の私が待ってくれていた。
「あ、待ってたよ〜! 出してきたー?」
「うん、辞めてきたよ。はぁー、スッキリしたぁー! まぁ、でも、これから新しい仕事見つけなきゃいけないけどね……」
「そんなことより、とりあえずお祝いしようよ、お祝い! 祝退職・脱ブラック企業の会!」
「そう言いつつ、どうせお腹減ってるから、ご飯食べたいだけでしょー?」
「えへへー、正解!」
「仕方ないなぁー。まぁ、私もお腹減ってるから、そうしよっか。じゃあ、お祝いってことで、昔の私が払ってよね?」
「えええ!? ちょ、ちょっと待って、私、お金持ってないよぉ……」
「あははは、冗談冗談。で、どこがいい?」
「駅前のファミレス!」
「あそこ、去年潰れちゃったよ」
「ええ!?」
「もっと美味しいお店が近くにあるから、そこ行こうよ。ちゃんとお子様メニューもあるし」
「だ、誰がお子様だぁー!」
彼女にぽこぽこと叩かれながらも、私は明るい気分だった。こんなに楽しいって思ったの、いつぶりだろう。
ていうか、この子、一体いつまで未来の私のもとにいるんだろう。
「ところで、帰らないの? 過去には」
お店に着き、案内の順番が来るのを待っている時に、さり気なく彼女に聞いてみた。
「うーん」
「どうしたの?」
「神様と話してた時にはね、未来の私が元気になったら帰れるって神様が言ってたんだけど、なんで戻らないんだろう……」
「まだ私が元気じゃないってことなのかな。もしかして、無事再就職できるまでは、元気じゃない判定なのか……」
「じゃあ、それまでは私が見守るってことだね! 未来の私と一緒にいられるの嬉しい!」
「でも、寝たまま、未来に来たんでしょ? 時の流れ同じだったら、昔の私、今の時点で半日以上寝てることにならない?」
「ほんとだ! 寝すぎだね〜」
「なおさら私がはやく仕事見つけないとね〜」
思わず二人でクスクス笑ってしまった。
「……結局、昔の私の夢に出てきた神様って、誰なんだろうね?」
「確かに……。けど、あの神様は、私たちだけじゃなくて、みんな一人一人の中にいるのかもね」
3rd SINGLE「祝杯」 五十嵐璃乃 @Rino_Igarashi
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