幕間

五 健やかな人生は健やかな家から

 そろそろルリ子に車椅子を買おう。あの子も大きくなってきて、娘の小夜湖さよこも妻の氷鶴ひづるも大変そうだ。もちろん電動がいい。

 夕方、玉梓たまずさナサニエル静哉せいやは建築事務所の休憩がてら、ネットで軽く候補を見つくろった。最新型となると価格は四、五〇万ほどだ。


 静哉は働き盛りの三十代、「俺は建築家になるため生まれてきたのだ」というオーラを放っている。自分自身を最初の作品として設計し、その通りに生きてきたと思えるような、完璧なプロポーションと顔貌がんぼうを備えていた。


 現在、彼は一級建築士の資格を二十代の末に取得し、独立を控えている。

 静哉の父はアメリカ出身の地質学者で、ナサニエル名は彼に由来した。父は日本列島の地層を研究する内に母と出会い、帰化して息子をもうけたという訳だ。


「玉梓さん、夕飯どうしますか。昨日のトンカツが残ってますけど」


 同僚の鹿山が給湯室から声をかけた。

 これからもうひと頑張りするため、腹に何か入れなければならない。そのため事務所には簡易なキッチンと冷蔵庫がしつらえられている。

 トンカツというのは、誰かが買ってきた惣菜の余りだ。


「それって何のカツだっけ?」


 アシスタントの一人が不思議そうに言い出し、鹿山が首をひねる。


「え? だと思ってましたけど」

「残った揚げ物なら、卵でとじて丼にしようかあ」これは所長。

「みんな、疲れすぎだろ……」


 休憩を終えると、社内打ち合わせでもらった意見を整理し、それを参考にしながらのデザイン再考だ。電話も減って、設計に集中できるいい時間帯だった。

 二十二時に退勤し、家路に就く。駅のホームで電車を待っていると、ふと紫煙が漂ってきた。静哉はコートの襟で口元や鼻を覆って、そっと喫煙者から離れる。


 今の事務所に静哉が就職を決めたのは、全面禁煙だったからだ。ニコチンは二の次で、ただ、火と煙の存在を感じたくない。

 中学一年生の夏休み、静哉の実家が放火され、両親を一度に失った。

 妻を守るように覆い被さっていた父はそのまま焼死、重度の火傷を負った母も数ヶ月後に病院で死亡。だから、タバコ程度でも火と煙は怖い、憎いとすら思う。


 だからこそ火に強い家を、万全のセキュリティを、それでいて住み心地良く、数世代に渡って継承できる家を造る、それが静哉の夢だ。

 試作第一号となった我が家の前に立つと、身も心も軽くなった。


氷鶴ひづる、帰ったぞ」

「おかえり、静哉」


 日付が変わるまで一時間半を切っているが、妻は玄関まで出迎えてくれる。

 華奢な体を抱きしめ、彼女の首筋に鼻面を埋めて、静哉は一日の終わりを感じた。この腕の中に、自分の人生に決して欠かせないものが収まっている。


 氷鶴の旧姓は筑摩ちくま、静哉と家が近く、物心ついた時には兄妹(氷鶴に言わせれば姉弟)のように育った。自他ともに認める、幼馴染みの親友同士だ。

 そんな二人は、玉梓家の放火事件で離れ離れになってしまった。

 どういうわけか、事件直後から「玉梓家に放火したのは筑摩氷鶴だ」という根も葉もない噂が、まことしやかに出回ったのだ。


――(うちを燃やして、彼女に何の得があるんだ。考えればすぐ分かるデマなのに、なぜよってたかってそれが事実のように扱うんだ?)


 だが、実際に氷鶴は何度も警察に事情聴取され、嫌疑は筑摩夫妻にまで向かう始末。当然ながら、彼女たちは苛烈な誹謗中傷にさらされた。


――(なぜ、氷鶴がそんな言いがかりや、嫌がらせを受けなければいけないんだ?)


 そのころ、まだ人間の悪意に疎かった静哉は混乱したものだ。あのころの彼は純真この上なく、誰かが氷鶴を妬んでの流言だなどと思いもよらなかった。


――(本当はみんな、誰が犯人なのかどうでもいいんじゃないか?)


 それはまさに一件の本質だ。人々は虐げても許されるものを求めており――発端は嫉妬といえ――槍玉に筑摩家が挙がってしまった。

 事実、犯人が捕まった後も、筑摩家への風当たりは何も変わらなかった。

 静哉が「彼女がそんなことをするはずがない」、「ほらやっぱり犯人じゃなかったじゃないか」、と庇っても庇っても事態は好転しない。

 筑摩家は執拗な嫌がらせについて、何度も警察に相談したが、成果ははかばかしくなかった。彼らもまた地域の住民であり、心は加害者側だったのだろう。

 更なる不幸が重なって、筑摩家はその地を離れた。


 嫌がらせをする相手が居なくなっても、口さがない人々はさらに調子に乗って、あることないこと噂する始末。元筑摩家は呪いの家として、今は更地になっている。

 生まれ故郷の人間に、静哉はほとほと愛想が尽きた。

 火と煙に対する静哉の憎悪は、筑摩家を追いつめた人々への投影が半ばを占めているのだろう。あんな事件さえなければ、と。


「氷鶴」

「なんだ」


 大学で再会した時、静哉は彼女が初恋の相手だったと気がついた。同時に「この人だ」とも。人生の伴侶は、氷鶴という女でなければならない、と。


「愛している」

「またそれか。君は口が軽すぎる」


 玉梓家の遺産はそれなりの額があり、静哉は何不自由なく大学まで卒業できた。両親亡き後、面倒を見てくれた祖父母が建築家への道を応援してくれたのも大きい。

 最初、ルリ子を連れてきた時は驚いていたが、孫として受け容れてくれた。


「知っている。お前は大事なことこそ胸の奥で、金庫に秘めておく方が安心するタイプだからな。でも俺は、時々金庫から出して眺めたり、口に出したりしたい」


 氷鶴の金庫を無理に暴くことはしたくない。だが自分は、事あるごとに愛の言葉をささやきたい。彼女の金庫に、一生かけて吹き込んでやるつもりだった。

 幸せな家族と、それを守る居心地の良い家、これに勝る宝があるか? 独立して自分の事務所が軌道に乗れば、年収も増え、より完璧に近づく。


「それに、子供はあともう一人ぐらいは欲しいからな」


 柳腰に手を回し、熱っぽく耳打ちすると、「まったく」と呆れた声が返ってきた。静哉は気分を害することなく、くすくすと笑いをこぼしてしまう。

 その後、氷鶴から子供たちの話を聞いた。重大なものから、他愛ないことまで。

 担任教師の一件は残念だったけれど、小夜湖はよく分かっていないようだし、ショッキングな内容だから成人まで秘密にしておこう、と意見が一致している。

 夕食はハンバーグで、二人とも「ごちそうだ」と大喜びだったらしい。そういえば、ずっと悩んでいた雑貨の通販は、やっと買う物が決まったそうだ。


「二人とも、あっという間に大きくなっていくな」


 ソファでゆったり、氷鶴が入れてくれたホットココアを飲みながらコメントすると、妻が「さて」と隣から立ち上がった。


「ルリ子が育つから、手伝ってくれ」と。


 ああ、もうそんな時か。静哉は真剣な面持ちになって、「分かった」と答えた。ココアを飲み干し、彼女について台所へ入る。氷鶴が冷蔵庫を開けた。


 玉梓家の冷蔵庫は、女主人の性格をよく反映している。調味料、牛乳に卵、数日分の献立に合わせた食材に常備菜、夫の弁当用の食材など詰めこむべき物は多い。

 彼女は収納や仕切りを駆使して、どこに何があるか一目瞭然に整理していた。そんな中、無造作に置かれた一つの包みが違和を放っている。


 ラップ越しに見えるのは、生肉特有のミオグロビンの赤に、脂肪の白が少々。牛と豚を八:二の割合で使った合いびき肉は、夕食の材料だったものだ。

 それがひと握りほど、取り置かれている。庫内に差した光に反応するよう、包みはぴく、とかすかに震えた。中心から数ミリ跳ねるような動きが、ごくごく緩慢に。


 氷鶴が包みを取ると、二人は階段を上がった。目指すは『ルリ子』とファンシーなネームプレートがかかった扉だ。 

 灯りなくとも勝手知ったる娘の部屋、氷鶴は学習机の引き出しから裁縫箱を出した。静哉はベッドからルリ子と呼ばれる布人形を抱き上げ、そっと床へ降ろす。

 眠りから起こさないよう、最大限気遣った優しい仕草だった。


 氷鶴が着せ替えておいたパジャマを脱がせると、胸から腹にかけて一直線に縫い目がある。彼女は裁ちバサミでそれを切ると、上に包みを載せた。

 ラップを取り除き、中の生肉をしっかり振りかける。氷鶴と静哉は夜闇の中で、互いに顔を見合わせると両の手をつなぎ、ルリ子を囲む形で歌い始めた。


「かはそくさん、ざんざんさん、お」

「かはそくさん、ざんざんさん、お」


 ひそひそ声を合わせ、淀みなく口ずさむ二人は、熱のこもった視線を注ぐ。


「かはそくさん、ざんざんさん、お。かはそくさん、ざんざんさん、お。げーてんししょうふ、こじょうしゅどい、しせいだいぢほん、してんがつみょうき」

「かはそくさん、ざんざんさん、お。かはそくさん、ざんざんさん、お。げーてんししょうふ、こじょうしゅどい、しせいだいぢほん、してんがつみょうき」


 誰も触れていないのに、人形がかくん、とわずかに上下する。体の中央から、背筋はいきんを使うようなかすかに跳ねる動き。揺れのためか、載せられたひき肉も震える。


「らいちょうじょうこん、ちーだいどうびょう、じゃくえんにゅうどう、ぎょうさつぼーしゅー、しんだいぼーほっ、じょうしゅーやくり、りきじんぶついー」

「らいちょうじょうこん、ちーだいどうびょう、じゃくえんにゅうどう、ぎょうさつぼーしゅー、しんだいぼーほっ、じょうしゅーやくり、りきじんぶついー」


 小さな肉片が伸び縮みした。ひき肉が動くなどありえないことだが、それ以上に人形は何か。機械でも仕込まれているのか。

 肉の弱々しい動きは次第に強くなり、一粒一粒が小さな虫のようだ。


「だいぼーしょうがー、こーじーがーぶつ、にゅうがーがーにゅう、しんげんがーいー、きょうらいとーがー、ばーとうかいほっ」

「だいぼーしょうがー、こーじーがーぶつ、にゅうがーがーにゅう、しんげんがーいー、きょうらいとーがー、ばーとうかいほっ」


 虫とまで形容したならば、もういいだろう。もはやひき肉は、ウジ虫の群れそのものだった。腹を裂かれた人形の上で、傷口にたかっているように見える。


「しんほっじーほん、りーしゃーじんしん、らいにょーかーしゃー、まんえんまんとく、らいちょうしんいっ」

「しんほっじーほん、りーしゃーじんしん、らいにょーかーしゃー、まんえんまんとく、らいちょうしんいっ」


 肉が動き出してから、腹の中にもぐり込むまで長くはかからなかった。ルリ子は手足をつっぱらせ、ガタガタと痙攣する。

 縫い目でしかない目口から、表情はうかがいしれない。悦んでいるのか、苦しんでいるのか、はたまた憎んでいるのか。


「らいちょうじょうこん、ちーだいどうびょう、じゃくえんにゅうどう……」

「らいちょうじょうこん、ちーだいどうびょう、じゃくえんにゅうどう……」


 この歌はあと六度くり返される。終わったらまた腹を縫い合わせ、ウサギ柄のパジャマを着せてベッドに戻して完了だ。

 朝食の席には家族全員が顔をそろえる。その時、ルリ子は一握りの合いびき肉ぶんだけ大きく、重くなり、頃合いを見て新しい体を作るのだ。

 間違いなくこれは、静哉と氷鶴が夫婦で育むいのちだった。



 あなたは、どんな子が欲しかったの?


 勢至せいし菩薩ぼさつが持つ智慧の光はすべてを照らし、人々を苦しみから解放する。

 その昔、月見は「月待ち」と言い、念仏を唱える場合は「月待ち講」とも言った。これらは満月を愛でる十五夜から始まり、次第に十九夜・二十三夜・二十六夜などにも開催されるようになったという。


 二十三夜の月は密教・修験道では月天子として拝み、その本地である勢至菩薩の真言を三遍、さらに舎利礼文を七遍唱えると、望む子を身ごもるとされた。


 お前は、どんな子を望んだのだ?

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