第49話 日常へ
光陰矢の如し。あの不思議な一夏の出来事から既にニヶ月が経過していた。
常盤はひとつあくびをして、先ほどまで突っ伏していた机上を見やった。先日新規で請け負った一軒家のデザイン画が中途半端な出来で放置されている。散々なそれをとっくりと眺めた常盤は、奇妙な罪悪感に胸をくすぐられながら溜息を吐き出した。
自慢でも何でもないが、学生時代からこのかた、作業中に睡魔に襲われることなど滅多になかった。あったとしても睡眠不足が祟ってのことであって、何の理由もなく寝落ちたのは今回が初めてだ。
何故だろうか、と。空白部分をなぞる。何枚目か数えることすらも飽いたそれは、だからと言って完全な駄作とは言えない代物だ。見る者が見ればきっと評価してくれることだろう。しかし、どれだけ丹精込めても形ばかり美しいものに仕上がってしまうような錯覚に囚われて、常盤はこれ以上描き進めることができなかった。
そもそもどうしてそのような思考に陥ってしまうのか、心当たりはある。珍しいことに、全くと言っていいほどアイデアが浮かばないのだ。特段難しい注文を受けたわけでもあれこれと要望を付けられたわけでもない。今までの顧客と比べたら融通が利き過ぎているくらいだ。だが、二人暮らしを想定した間取りであればあとは好きにしていいよと丸投げされるのもそれはそれで困りものだった。
それでも当初は、住む人の未来図を踏まえた設計を、と筆先を走らせていたのだが、常盤の好みや理想が反映されすぎて最早デザイナーズハウスでしかない。そしてそう言った家は趣味嗜好が先行しすぎて住みにくくなりやすい。
自己満足の塊を、これが貴方方の理想ですと宣えるほど常盤の神経は図太くなかった。
手元のデザイン画をしばし眺めて、勢いよく破り捨てる。細かい紙片が雪のように散って床に落ちるのをぼんやりと目で追った。生まれてくることのできなかった我が子が先に捨てられた子たちと床で泣いている。
「……形にできなくて、ごめん」
胸中に立ち込める暗鬱とした感情を飲み下して、小さく謝罪を紡ぐ。
自由すぎても不自由になるのだと、この仕事を始めてから初めて知った。
新しい紙を一枚取り出して、机上に置く。心情的には仕事をする気分でもないため日を置いてから心持ち新たに描きたいところだが、何如せんこれは趣味ではなく仕事である。当然、納期がある。一応期限まで猶予はあるが、引き受けている仕事はこれ以外にもあるためあまり悠長にしてもいられない。
せめて何かしらヒントになるような言葉はなかったかと、依頼を受けた時の記憶を手繰る。会話はさして覚えていなかったが、今度こそ気楽に兄妹で住める家がいいのだと柔らかに笑っていたふたりが妙に眩しかったのを覚えている。
そして、それがひどく羨ましかったのも覚えている。
だから寝てしまったのだろうかともう一度あくびをしてペンを握り直す。仕事に私情を挟むという貴重な体験を受けて踊っていたはずの指は、うたた寝の間に関節を強張らせていた。
責めるように
自然と手が動き出した。まだぎこちないが、それでも感じるままに線が描かれる。
最後の一線を描き終えた常盤はペンを置くと、ぐっと天井に向かって両手を突き上げた。強張った肩甲骨が嫌な音を立てる。じんわりと伝わる痛みは腰からのようで、時計を見れば起きてから優に二時間は経とうとしていた。
「終わったか」
今日も今日とて飽きずにアトリエに訪れていた誠司が読んでいた本から目を上げた。眼鏡越しの瞳が怜悧な輝きを放っている。
透徹した声色が紡ぐ聞き飽きた問いかけに常盤は椅子から立ち上がった。そのまま彼の前まで歩を進めて、じっと見下ろしてみる。
ざんばらな髪も、くたびれた服も、無駄に長い手足も、見飽きたものだ。均整は取れているものの身長のわりに肉がない体が軽くソファに沈んでいる様すら何ら目新しくない。
変わり映えのしないやつだ、と心中で愚痴ったのが聞こえたわけでもないだろうに、誠司が目を瞬かせた。
「何だ」
「何も。強いて言うなら、君が此処へ訪れる理由を考えていた」
それはアトリエを拠点として以来ずっと抱き続けてきた疑問だ。とは言え、問いを躱すために何気なく口にしただけで、返事を期待していたわけではない。
しかし、それを聞いた誠司はぴたりと動きを止めて何やら考え込むように俯いた。
自分に正直な彼は衝動的な行動をしない一方で、検討することもあまりない。質問の解が必要か否か決めるのは相手であろうに、それは君の知ることではないだとか説明する根拠が足りないだとかあれこれと理由をつけてにべもなく拒絶する。
その誠司が、何気ない質問に一考の余地を見せている。もしや答えてくれる気なのかと意外な思いで常盤は彼を見守った。
どうしても知りたいわけではない。あの館で誠司の安否が知れない時間を過ごした今、漫然と過ごす時間も以前ほど常盤の精神を削らなくなった。第三者の存在が要因となって拗れた関係になりながらも最後は手を取り合って堕ちていったふたりを目の当たりにして、案外どうとでもなるものだという身も蓋もない真理を手に入れた。
だから、真実常盤は答えを望んでいたわけではなかった。教えてくれるなら知りたいな、と思うだけで、なんとなく、聞いても聞かなくても何も変わらない気がして以前ほど答えを欲していたわけではない。
だからと言って答えなくていいと言うのも何か違う気がして、常盤は生唾を飲み込んだ。指先に痺れが走る。嫌な緊張感が頭をぐらぐらと煮詰めて眩暈がする。
誠司が顔を上げた。薄い唇が僅かに開かれる。
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