見上げる女、飛び降りる男
小山内 英
見上げる女、飛び降りる男
「高いところが苦手なんじゃなくて、低いところを見るのが駄目なんだよ」とYは言った。
Yは高所恐怖症である。私の知る限り数回引っ越しをしているが毎回アパートの一階に部屋を借りるし、ガラス張りのエレベーターに乗る際は決して外を見ない。建物の二階以上にいる時は窓に近寄らず、吹き抜けの建物をとても怖がる。
どこに出しても恥ずかしくない立派な高所恐怖症だ。
「違うんだよ。高所自体は怖くないんだ」
Yはうめいた。
Yとは職場の同期だったがサシで飲むのは初めてだった。部署は違うが互いに手掛けていた仕事がひと段落着いたのでささやかだが祝杯をあげにきたのだ。アルコールがまわってきたところで以前から気になっていたYの悪癖について話題に出してみると、予想外の答えが返ってきた。
「高いところから低いところを見るのが嫌いなんだろう?それを高所恐怖症というんじゃないか」と私が言うと、くぐもった声で「全然違う」とYはつぶやいた。
「昔は平気だったんだ」
赤い顔でYは語りだした。
Yが学生時代住んでいた部屋はアパートの4階にあった。大学からは少し離れていたがエレベーターがないため家賃は安く、見晴らしがいいところが気に入っていたという。
「暇なときなんかはベランダから表通りを歩く人をぼんやり眺めるのが好きだったんだよ。犬の散歩しているじいさんとかジョギングしている人とか、遊びながら歩く下校中の小学生とかさ」
今からすると考えられないけど、と自嘲気味にYは笑った。
部屋に彼女が遊びに来た時のことだ。
「私と目があった人、みんな飛び降りちゃうの」と彼女は告白した。
黒く長い髪の毛が印象的な大人しい子だった。いつも伏し目がちで控え目なところが特に気に入っていた、とYは言った。友人に連れられて参加した合コンで出会い、隅の方でおどおどしていた彼女にYの方から積極的に声をかけたのだ。
何度目かにYの部屋を訪れた時におもむろに彼女は言った。
「一番初めは小学生の時。いつも一緒に帰る子がいたんだけどつまらないことで喧嘩してしまって、その子は普段とは違う道で帰るって言ったの。いつもはもっと先の横断歩道でお別れするのに手前の歩道橋を渡るって。私も意地になっていたからじゃあここでバイバイねって言ったんだけれど、やっぱり気になってその子が階段を上るのをずっと見ていた。歩道橋の真ん中まで渡ったころにふとこっちを見たから、手を振るかどうしようか迷っていたら」
目が合った、と思った瞬間に無表情のまま柵を乗り越えて、そのまま。
「普段から交通量の多い、大きな通りだったの。大きいトラックが丁度真下を通りかかるところで、あの子はものすごい勢いで……」
さっきまで一緒だった友人が車にはねられる光景が目に焼き付いている、と淡々と話す彼女の髪をYは慰めるように撫でた。
「その次は中学2年の時だった。1年生の時は仲が良かったのにクラス替えで分かれちゃってそれっきり疎遠になっていた子。私が体育でグラウンドにいて、何気なく見上げた教室の3階の窓際の席だった友達」
やはり目があったと認識した瞬間、何の前触れもなくまるでドアを開けて外に出るような気軽さで友人は窓枠を乗り越えた。
「たしか窓は最初から開いていた気がする。カーテンがひるがえって綺麗だなって場違いに思ったの。教室の中で上がった悲鳴が外にまで響いていたけど」
彼女がいつもおどおどと伏し目がちなのは、それらがトラウマになっているためか。そう思ったYはできる限り優しい声で言った。
「でもそれはたまたまじゃない?きみが見ていたからとか目があったからとかは関係なく、その子たちがたまたま飛び降りようと思ったタイミングが……」
二人目はともかく一人目の子は直前に彼女と喧嘩をしていたのだった、ということを思い出しYは言葉を濁した。まるで彼女と喧嘩をしたのが原因で飛び降りた、という風に聞こえるかもしれない。
しかし彼女はそれに気付いてか気付かずか、首を振ると言った。
「それだけじゃないの。高校生の時も似たようなことがあって、つい最近も」
彼女は両手で顔を覆った。
「私のアパート、ここみたいに見晴らしがよくなくて窓を開けると隣のアパートの窓が見えるの。カーテンを開けた時にたまたまお向かいさんと目があって、なんか気まずいなと思った瞬間」
その後のことを彼女は知らないという。階下で悲鳴が上がり、直後に救急車のサイレンを聴いたそうだ。そちら側のカーテンは閉め二度と開けないことにした、と彼女は言った。引っ越すには貯金が足りないため、まだその部屋に住んでいるとも。Yには彼女の髪を撫で続けることしかできなかった。
「つまり高いところから外を見降ろした時に彼女と目が合った人間はみんなその場から飛び降りる。その話を信じたから高いところが怖いのか」
語り終えたYに私は言った。
Yの話は簡潔だったが不可解でもあった。はたから聞いている私にはYがもう何年も前に付き合っていた子の、ただの思い出話だ。仮にその子に目があった人間を死に至らしめる呪いの力があるというのが事実だとしても、なぜYが怯え続けなければならないのだろう。
「違う、違うんだ」とYはアルコール交じりのため息をついた。
Yは当時二股をかけていた。合コンで出会った黒髪の彼女のほかに、高校時代から付き合っていた彼女がいて、そちらがいわゆる本命彼女というやつだった。
「多分それがバレたんだと思う。なんでバレたのか今になっては分からない。メールを見られたのか、彼女がシャワーを浴びている時に電話していたのがうかつだったのか」
彼女がYに自分の呪いについて告白をした翌朝のことだ。Yはいつものようにアパートの出口まで彼女を送っていった。どんよりとした天気だったという。傘を貸そうか、というYに駅はすぐそこだから、と彼女は断った。
「昨日の友達の話だけど、やっぱりきみは悪くないと思う」
Yは特に深い意味もなくご機嫌取りのつもりで、彼女が言ってほしいだろう言葉を言った。直後に、言わなければよかったと後悔する。
「いいの。本当は私、二人とも嫌いだったから」
Yがその言葉を消化しきる前に、彼女はYが好きないつものやわらかい微笑みを浮かべたまま軽やかな足取りで去っていった。
艶やかな黒髪を見送った後、寝ぼけまなこをこすり部屋に戻ったYは心に引っかき傷を作るような彼女の言葉を頭から追い出してシャワーを浴びた。スマホを眺め時間をつぶし、だらだらと二時間ほど過ぎたころだろうか。外はいつの間にやら土砂降りで、冷蔵庫に何もないものの買い出しも外食も面倒だな、とベランダから外を眺めた時Yはそれに気付いた。
ベランダから見えるいつもの表通りに黒髪の女が立っていた。
今朝は軽やかな薄桃色だったワンピースがぐっしょりと濡れ体に張り付いている。長く艶めく黒髪は重く水を吸い顔を覆っている。まっすぐにこちらを見上げた彼女の表情を確認する前に、Yはカーテンを閉め座り込んだ。
いつからあそこにいたのだろう。目はあっていない。あっていないはずだ。心臓が早鐘を打つように鳴っている。
ほんの数時間前までこの部屋にいた彼女が、やわらかく笑っていた彼女が、伏し目がちで人と目をあわせることを極度に恐れる彼女が。
目があった人間を飛び降りさせる彼女が。
今、窓の下でまっすぐこちらを見ている。
スマホが鳴った。彼女の名前が表示される。思わず漏れそうになった悲鳴を押し殺し、ブロックする。はじかれたように立ち上がり玄関の鍵を閉め、部屋のすべてのカーテンを閉める。決して窓の外を見てはいけない。見られてはいけない。
「その後のことは正直あまり覚えていない。友達の家に転がり込んでアパートの部屋を引き払って、彼女の連絡先をすべてブロックした」
Yの顔は蒼白になっていた。目元だけがアルコールのせいかひどく赤い。
「二股かけていたことを知っていた友達連中はああいう清楚系は怒ると怖いんだ、って笑っていたがそんなもんじゃない。あれから高いところに上るたび、下には彼女の黒髪が見える気がする。俺はいまだに彼女が窓の下にいるんじゃないかと恐ろしくてたまらないんだ」
高いところから窓の下を見降ろすと、黒髪の女がこちらを見上げているのと目があうんじゃないかというのが恐ろしい。
だから俺は高所恐怖症なんかじゃない。
Yはそう締めくくった。
一緒に飲みに行くのは初めてだったがYの話は他にもなかなか興味深く、機会があればまた誘ってみるのもいいかもしれないと思ったが、結局二回目はなかった。
Yが私と飲みに行った帰り、電車が通過する直前に駅のホームから転落し帰らぬ人となったためだ。
目撃者の証言によれば当時のYは泥酔しているというほどでもなくしっかりとした足取りで、自らホームを飛び降りたらしい。
飛び降りる直前にYが「なんでここに」と言っていたことと、向かい側のホームにいた長い黒髪の女が笑っていたことの関係性は、今となってはもう誰にも分からない。
見上げる女、飛び降りる男 小山内 英 @mamenita
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