第9話
――高校二年生の秋くらいからかな。私、みんなからいじめられてたんだ。
――誰も味方してくれなくて、辛くて苦しくて耐えきれなくて、もう全部最悪って思ったんだ。それで三年生の夏に、水泳の授業中にプールで死んじゃった。
なぜ英梨が幽霊となって学校に留まっているのか聞いた際、死因についてそう言及していたはずだ。体が水の中に沈んでいったとも語っていたから、恐らく英梨は溺死している。
数分考えこんで、壮悟はふと顔を上げた。
「ちょい待て。〝まじないの絵筆〟と北高の七不思議、あと英梨ちゃんな。その全部が関係しとるとは限らへんのちゃうか」
「ていうのは?」
壮悟の予想に、敏毅と英梨がそろってこてんと首を傾けた。
「まず聞きたいねんけど、英梨ちゃんはプールで溺れてもうたんで
「はっきり覚えてないけど、多分そうだよ。鼻をつまんでプールの底まで沈んだのはなんとなく記憶にあるかも」
不慮の事故で溺れたのではなく、自らの意思で息を止めたのか。いじめが過激化して誰かに無理やり沈められたわけでもなさそうだ。
「それを踏まえたうえで考えると、や。副部長さんは絵筆使った後に実際に絵ェ上手なったけど、そのあと階段から落っこちたんを当時の部員さんたちは絵筆の副作用のせい、あと美術部に憑りついとる幽霊――多分過去にも霊感のある誰かが英梨ちゃんを見たことあるからそう伝わっとるんやろな――そのせいやって思ったんやんな。確かに階段から落ちるんも一歩
絵筆の効果にしてもそうだ。「これを使えば絵が上手くなるに違いない」という思い込みが強く働いた結果、単純に副部長の実力で技術が向上しただけの可能性も捨てきれない。いわゆるプラセボ効果である。
「〝まじないの絵筆〟と七不思議、ほんで英梨ちゃんのこと」壮悟は一つ挙げるごとに右手の人差し指から薬指にかけて順に伸ばした。「一つ一つは独立しとんのに、話が伝わるうちに誰かが勝手に一緒くたにしてしもうたんやと俺は思う。敏毅はどうや」
「言われてみれば……?」
完全に納得したわけではない様子で、敏毅は唸りながら顎を擦っている。
「七不思議で明確に『死ぬ』って一言が入ってるのは美術部の噂だけで、〝まじないの絵筆〟の逸話もあるし、そんな状態で副部長が階段から落ちて死にかけたから、色んなものがごちゃごちゃになったってことか……?」
「そういうことなんちゃうかな。やから別に、副部長が階段から落ちたんは英梨ちゃんのせいやないと思う」
はっと英梨が目を瞠ったかと思うと、大きな瞳いっぱいに涙が溜まっていく。こぼれた涙は頬から顎に伝い、床に落ちる寸前で消えた。
誰だって「自分のせいで人が死ぬ」と言われて苦しくないわけがない。しかもよりによって好意を寄せている相手からそれを指摘され、内心かなり傷ついていたのだろう。英梨は指の背で掬うように涙を拭い、消え入りそうな声で「ありがとう」とくり返していた。
次いで壮悟は敏毅に「絵筆の箱、もう一回見してくれへん」と手を差し出した。
二限目の授業終わりぶりに改めて持った箱は、紐が異様に固く巻かれている以外は特にこれといって特徴は無い。箱を矯めつ眇めつ確認する傍らで、壮悟は敏毅を一瞥した。妙に不安そうなのは筆が死を呼ぶかもしれないと考えているからか。
箱の表面をさらりと撫でて、壮悟は小さくうなずく。
「イヤな感じとかせぇへんし、これになんか憑りついとることはないと思うぞ」
「……アキお前、そういうのも分かんの?」
「霊能者やないで断言出来るわけちゃうけどな」
疑義の目を向けてくる敏毅に、壮悟は箱を振りつつあえてからりと笑ってみせた。
壮悟に備わっているのはあくまで幽霊の姿が見えて、この世ならざる存在の声や音を聴く能力である。その力を自分なりに研ぎ澄ませて集中した結果、悪いものが憑りついているわけではなさそうと判断を下した。
「なんだ、そうかぁ」敏毅の表情がほっと緩む。肩の力も抜け、大きく息を吐きながらのけ反っていた。「あの人に会うために霊感は欲しいし、どんなことでもするとは言ったけど、死ぬのはちょっと違うっていうか」
「やからなんか暗かったんか」
「そういうこと。幽霊になればあの人に会える確率も上がるかもしれないけど、未練がある人全員が幽霊になるとは限らないじゃん。僕は別に死にたいわけじゃないしさ。けど持っても問題ないなら大丈夫か」
「かも知れへんけど、言うたやろ。断言出来るわけちゃう」
壮悟は箱のふたを指先で軽く叩いた。ぽこん、と厚紙の軽い音が響く。
「先輩の話通りなんやったら、箱の内側にお札張ってあるんやろ。それのおかげで俺がなんも感じやんだけかも」
「あーなるほど。一理あるなぁ」
でもまあ大丈夫だろ、と敏毅が壮悟の手から箱を取っていく。
「お札が悪いもの祓ってくれてなにも憑いてないってことかも知れないし、いざ絵筆を持ってやっぱりヤバそうってなっても、お札があるなら箱に戻せばなんとかなりそうじゃん?」
「楽観的の極みやな。調子戻ってきたみたいでええけど」
「英梨ちゃんも、ごめんな。僕ちょっと冷静さ失ってたわ」
敏毅は壮悟に英梨のいる位置を聞いたうえで、床に下りるなり彼女に向かって深々と頭を下げた。
「英梨ちゃんは絵を完成させたくてここにいるだけだもんな。言い方悪くなるんだけど、誰かを自分の道連れにしようとか、そんなことするような子じゃないって、アキの通訳越しだけど話してて分かってたはずなのに、少しビビっちゃってた。英梨ちゃんの絵、僕が完成させるって約束したばっかりなのにな。本当にごめん」
「そんなっ、全然いいよ。気にしてないからっ」
英梨は敏毅に頭を上げてもらおうと慌てている。驚きすぎて自分の声が聞こえないことすら失念しているようで、謝罪し続ける敏毅の肩を叩こうとしては手がすり抜け、さらにわたわたと狼狽えていた。
「壮悟くんっ」英梨が困ったように呼んでくる。許している旨を伝えてほしいようだが、壮悟は机に頬杖をついて「あーあ、英梨ちゃん怒っとるで」と真逆のことを敏毅に告げた。
「えっマジ? ……いや絶対嘘だろ。アキがニヤついてる」
「お前と英梨ちゃんがカップルみたいで微笑ましいなー思とるだけや。ほら、ええんか。もっとちゃんと謝らへんと許してもらえへんのちゃう」
「くそー、英梨ちゃんを視れて話せるようになればアキを信じなくて済むのに……!」
ぐぎぎ、と奇怪な呻き声を漏らして敏毅がより深く頭を下げる。それがおかしかったのか、英梨の顔がようやく明るくなる。美術室にはしばらく壮悟の忍び笑いと、壮悟にしか聞こえない英梨の軽やかな笑い声が響いていた。
敏毅がやっと頭を上げた頃、不意に美術室の扉がノックされた。はい、と敏毅が返事をすれば、扉が内側に向かって開く。
顔を覗かせたのは壮悟がよく知った人物だった。身長は英梨と敏毅の間くらい。こざっぱりとした黒いボブカットに、襟と袖口がフリルで飾られた白いブラウス、カジュアルな動きやすそうなデニムパンツ姿。
吹奏楽部顧問の
「あらぁ、まだ残っとる生徒がおったんやねぇ」
小藤はおっとりと頬に手を当てて美術室を見回し、壮悟に気づくと「あれれ」と目を瞬かせた。
「なんで
「ちゃいます。コイツと一緒に帰ろと思て迎えに来て、そのままちょっと駄弁っとったんです。先生はなんで美術室に?」
「鍵かかってへん窓がないかとか、居残っとる子ォのチェックしとるの。暁戸くんと佐久間くんも、お喋りするんはええけどそろそろお家帰らなあかんよ。あと五分で校門閉められてまうに」
「えっ、うわほんまや」
部活終わりにそのまま来た壮悟はいつでも帰れる準備が整っているが、敏毅は〝まじないの絵筆〟に気を取られて荷物をまとめていなかったらしい。小藤から「四十秒で支度せなねぇ」とどこかで聞いたような台詞で急かされ、三十秒と経たずに筆箱やスケッチブックなどを乱雑にスクールバッグに詰め込んで支度を済ませていた。
「ほんなら俺と敏毅は帰るで、また明日……英梨ちゃん?」
壮悟は腕を組んで一点を見つめたまま動かない英梨に首を傾げた。彼女の視線は美術室の出入り口で待つ小藤に向けられている。
「どうしたん、英梨ちゃん」
「……ううん。なんだか見たことある人な気がしただけ」
「小藤先生が? 吹奏楽部の顧問やし、夕方の見回りとかもしとるんなら英梨ちゃんが美術室の近くうろうろしとる時にすれ違たりとかしとるんちゃう」
「そういうんじゃなくて、なんだろう……」
英梨は唇を指で押し上げて悩んでいたが、結局分からなかったらしい。「なんでもない」と首を横に振ったあとも、苦いものを噛んだように表情はすっきりしていなかった。
壮悟と敏毅は十九時ちょうどに校門から出た。梅雨入りが発表された空は灰色の雲が多く、西の山に沈んだ太陽の残照を受け止めて不穏な色に染まっている。林へ飛び去って行くカラスたちの鳴き声が遠い。
北高の坂を下りきったあたりで敏毅が緩やかに足を止め、壮悟もつられて立ち止まる。忘れ物でもしたのかと聞けば、敏毅は首を横に振る。
「先輩が〝まじないの絵筆〟について教えてくれたじゃん。あの話で一つ気になること思い出して。アキ、ちょっとだけ時間いい?」
「電車来るまで十分くらいやで、歩きながら聞くんでもええなら」
登下校に使っているローカル線の本数は一時間に二本程度だ。次の電車を逃すと三十分近く待たなければならず、そうなれば家に着くのが二十一時近くになってしまう。壮悟の家庭に門限は設けられていないが、あまりに遅いと母から雷を落とされかねない。
じゃあそれで、と敏毅は坂を下っていた時と同じ速度のまま再び歩き出した。このスピードであれば余裕で電車に間に合うだろう。
「美術部に憑りついてる幽霊のせいで生徒が毎年一人死ぬって聞いた時に、去年と一昨年に死んだ生徒はいないって言ってたけどさ」
「そうらしいな。やから七不思議の七番目に信憑性あらへんって」
「じゃあ、その前は?」
道端の電柱に取り付けられている蛍光灯の寿命が近いらしい。白くくすんだ光が不規則に明滅した。
「三年前、四年前、それよりさらに前はどうだと思う?」
「どうって……どうやろな」
「火のないところに煙は立たないっていうだろ。他のどの部活でもなく『美術部』に『誰か死ぬ』って噂がある以上、過去に部員が少なくとも一人は亡くなってるはず」
「少なくとも一人って、その一人は……」
誰やねん、と続けようとして思い至る。かつて美術部に所属し、プールで命を落とした生徒。
――英梨ちゃんか。
「話してくれた先輩が入学したのは――留年してないなら――一昨年で、三年より前のことを知らない、だから『去年と一昨年』って言い方をしただけだとは思うけどさ。でもやっぱり引っかかるっていうか、あとはまあ好奇心?」
「そんな気になるんやったら三年より前のこと知ってそうな人に聞いたらええやん。それでなんも無いなら無いでええし」
壮悟の提案に、敏毅が自転車のベルを鳴らしながら眉を寄せる。学校を出る直前に聴いて耳に残っていたからなのか〝蛍の光〟のリズムだった。
「三年以上前のこと知ってる先輩なんかいるかな。〝まじないの絵筆〟のことすら簡単に教えてくれなかったのに、死んだ部員がいるかなんて余計に聞くの難しそう」
「先輩にこだわる必要あらへんやん」
心当たりがないらしく、敏毅は首を傾げている。
「簡単な話やんか――先生たちや」
「……あっ、ああ!」
ちりりん、とベルがひと際強くならされる。敏毅の頭上に浮かんでいた透明な疑問符が弾けて消えたように見えた。
翌日、全ての授業が終わって部活に向かう前、壮悟は職員室前の廊下の壁にもたれていた。引き戸に取り付けられた小窓から室内を覗けば、敏毅が小太りの男性教員と話し込んでいる。
教師陣の誰かに美術部にまつわる噂を聞く、というのを実行している最中である。敏毅に対応しているのは美術部の顧問で、たぷんと突き出した腹から本名に掠りもしない〝たぬき先生〟の愛称で生徒から親しまれている。北高へ赴任したのは四年前だそうで、三年生の先輩が把握していないことも知っている可能性が非常に高かった。
敏毅は五分もせずに職員室から出てきた。表情から察するに期待していた回答は得られなかったのだろう。
「『三年以上前の美術部の生徒で亡くなった子はいますか』って結構真面目に聞いたんだけど、全体的にはぐらかされたっていうか、濁された感じ。『なぜそんなことを知りたいんですか』って聞かれてすぐに答えられなかったのも、変な不信感持たせちゃったかも。たぬき先生があんな渋い顔してるの初めて見た」
こんな顔、と敏毅が目を細めて唇をへの字に曲げ、左右の眉尻に指を添えて力いっぱい中央に向かって押す。渋い顔というより一種の変顔だった。
「けどあれなんやな、俺あんまたぬき先生のこと知らんけど、嘘つくんが苦手なん? 死んだ生徒居らへんなら『居らへん』って言えばええのに、はぐらかしたんやろ」
「まあなー。本当に知らないのかもしれないけど、亡くなった生徒に配慮したのかもしれない。今日はいったん引き上げるとして、明日はもうちょっと粘ってみる」
「いっそのこと英梨ちゃんの名前出してみるとかは? 『どこで名前知ったんや』くらいは思われるかもしれへんけど、教えてもらいやすなるんちゃう」
「英梨ちゃんを利用するみたいで気が引けるけど、一つの手としてそれはありかー。他の先生に聞いてみるのも視野に入れないと」
入学しておよそ二カ月半経つが、壮悟も敏毅も、北高の教師全員を把握していない。授業や部活で接点があり、話しかけやすいかつ三年以上前のことを知っていそうな人物に絞るとかなり限られてくる。
渡り廊下を歩きながら事情を聞けそうな教師の候補を挙げていると、前方を歩いていた女子生徒たちの「小藤ちゃんバイバーイ」と気安い挨拶が耳に届いた。職員室へ戻るところなのか、第二棟方向から来た小藤が手を振りつつも「コラコラ」と女子生徒たちを咎める。
「お友だちちゃうんやから、ちゃんと〝小藤先生〟って呼ばなあかんに」
はーい、と間延びした返事は聞き流しているのが明らかだったが、日常茶飯事のようで小藤はそれ以上なにも言わずに女子生徒たちの背中を見送っている。
校内で先輩や顧問とすれ違う際には部活時間外であれ必ず挨拶、と吹奏楽部のルールで決まっている。壮悟は小藤に近づき、「こんにちは」と軽く頭を下げた。
「あらぁ、こんにちは。暁戸くんと佐久間くん、昨日はちゃんと真っすぐお家帰った?」
「帰りました。大丈夫です」とうなずく壮悟の隣で、敏毅が意外そうに目を丸くしている。
「昨日も思ったんですけど、小藤先生ってなんで僕の名前覚えてるんですか。僕、吹奏楽部でもないし、音楽も取ってないのに」
北高の〝芸術〟の科目があり、音楽・美術・書道のいずれかを選択して授業を受ける。壮悟は音楽、敏毅は美術をそれぞれ選んでおり、選ばなかった授業の教師とは必然的に顔を合わせる機会がほとんど無い。
「それに先生が受け持ってるのって三年生のクラスですよね。僕の名前覚えるタイミング無さそうなんですけど」
「だってあなた、北高の七不思議調べとるんでしょ?」
敏毅が言葉に詰まる前で、小藤は「うふふ」と朗らかに目を細める。
「先生たちの間でたまに話題になるんよ。成績優秀やのに、七不思議やなんやて賑やかなちょっと変わった子ォが居るって。いつやったか昇降口でこそこそ鏡調べとったんやってねぇ」
〝午前四時四十四分に鳴る幻のチャイム〟のことか。壮悟の部活が終わるのを待っている間、敏毅は一人でパラレルワールドに繋がると噂の鏡を調べていた。その様子を見ていた教師がいたらしい。敏毅の名前は本人の知らないところで教師陣に共有されたようだ。
恥ずかしいのか居心地が悪いのか、敏毅は耳を赤らめて首を掻いていた。
「それって先生みんな僕のこと覚えちゃったってことですか」
「どうやろねぇ。私は記憶力に自信あるで覚えとるけど、他の先生は分からんわ。あ、でも怒っとる先生は一人もおらへんだで、そこまで気にしやんでええに」
「それならまあ、いいかな……」
「ついでに暁戸くん。今日は合奏出来そうやで準備しといてって、部室行ったら部長に伝えといてくれる? 一時間ちょっとは出来ると思うから」
壮悟に頼みごとを一つ託して、小藤は二人の横を通り過ぎようとする。
その寸前、壮悟はハッと閃いた。思いつくや否や、考えていることが口をついて出る。
「小藤先生。先生って北高出身ですよね」
「そうやけど」と小藤が答えるのと、「そうなの?」と敏毅が一驚するのは同時だった。
吹奏楽部の準備室に飾られている全国大会進出記念の写真。その中でホルンを抱えている生徒こそ、当時高校二年生の小藤だと先輩から聞いた覚えがあった。
「七不思議のことで一個聞きたいことあるんです。すぐに終わるんで、ほんのちょっとだけ時間ええですか」
小藤の眉が怪訝そうにひょいと跳ねる。
彼女は腕時計に目を落とすと、「ほんまにちょっとだけやで」とうなずいてくれた。
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