第12話 救いの報酬

 掌の中に命の鼓動を感じたその直後、レインの意識は再び暗転した。

 魔力の代償。それはソワン族に刻まれた宿命。

 だが、今の彼はそれを恐れなかった。


(眠ることで、次に繋げる……この眠りは、“逃げ”じゃない)


 レインはかすかに微笑みながら目を閉じた。

 深く、静かに──まるで、大地へと還るかのように。


 * * *


 目覚めたとき、空は再び青白く明けていた。

 リーナがそっと水差しを差し出し、レインはそれをゆっくりと受け取る。


「……ありがとう」


「いえ。おはようございます、先生。今日は……やれる気がしますよね?」


 頷くレインに、リーナは微笑んだ。

 その隣では、メルキオルが新たな調合薬と記録板を準備していた。


「状態は安定していますが、病巣はまだ肺の奥に残ってるようです。だが今なら、レイン先生なら治せるはずです。」


「──ああ。救ってみせる。今日は……すべてを癒し切る」


 三人は再び、患者の枕元に立つ。

 リーナが心配そうに見つめる中、メルキオルが呼吸と心拍を記録しながら補助に入る。

 レインは深く息を吸い、掌を掲げた。

 そこには、昨日よりも鮮明な“再生の紋”が浮かび上がっていた。

 魔力の流れが、自身の内からではなく──外界と共鳴しながら、自然と巡っているのがわかる。

 彼の指先から、淡い緑の光が溢れ出す。それは静かで、優しく、確かな“命”の魔法だった。


「いくぞ……今度こそ、最後まで」


 病巣を視る。

 それは肺の奥深く、痰と血に覆われた重く淀んだ影。

 青魔法では感じることのできなかった、その“生と死のあわい”を──緑魔法は、捉えていた。

 レインは魔力を一点に集中させる。しかし、病巣はしぶとく、何層もの膜のように魔力を拒絶する。


「……くっ……!」


 額から汗が噴き出す。

 魔力は削がれ、掌の奥が痛むほどに消耗していく。


「先生……! 無理はしないで!」


 リーナの声が響くが、彼は頷きもせず、ただ眼を閉じて魔力の奔流に身を任せた。


(感じろ……患者の体を。命の流れを。命が、俺に“助けてくれ”って呼んでる……)


 魔力の奔流に意識を沈める。

 その深奥で、腐った池のような病巣の“核”を捉えた。


(……そこだ)


 残る魔力のすべてを、そこに注ぎ込む。

 瞬間、掌が灼けるように熱くなり、全身から力が抜けていくのを感じた。

 それでも魔力は、緑の奔流となって患者の肺を満たし──

 病巣を、貫いた。

腐った瘴気のような影がほどけ、わずかに苦しげだった患者の表情が緩みはじめる。

発疹が引き、肌に色が戻り──呼吸が、深く穏やかになった。

レインは、患者の脈が落ち着いていくのを見届けると、その場に崩れ落ちた。


「先生っ……!」


 リーナが駆け寄る。だが彼は静かに、微笑んでいた。


「……大丈夫。ちゃんと……治せた……から……」


 そう言い終えるや否や、レインの意識は深い闇へと落ちていった。

 今度の眠りは、命を救った“報酬”としての眠りだった。

 彼の表情は穏やかで、疲れの奥に確かな満足があった。

 命を癒すということ──その第一歩が、今、確かに刻まれたのだった。


 * * *


 レインが目を覚ましたのは、三日目の夜だった。

 辺りには灯がともり、外の森からは虫の音が静かに響いていた。

 寝台の隣でリーナがうたた寝をしており、メルキオルは机に向かって静かに記録を

綴っていた。


「……起きましたか」


 小さな声に反応し、レインはゆっくりと目を開けた。


「……ああ……俺は……」


「大丈夫です。レイン先生はちゃんと、救いましたよ」


 メルキオルの視線の先には、今や穏やかに眠る中年男性の姿があった。

 呼吸は深く、皮膚の異変は跡形もなく、苦しみの影はすでに去っていた。


「……本当に……」


 レインはゆっくりと起き上がり、眠る患者を見つめた。胸の奥に、じんわりとあたたかいものが広がる。

 ──確かに、癒したのだ。誰かの命を、自分の手で。

 その瞬間、リーナが目を覚まし、ぱっと顔を上げた。


「レイン先生……! 起きたんですね!よかった!!」


 涙ぐみながら笑うその姿に、レインも力なく微笑んだ。


「ごめん……でも……ありがとう。二人とも……」


 彼の言葉に、メルキオルは無言で頷き、リーナは目を拭った。

 その夜、三人はひとときだけ、静かな時間を過ごした。

 外では夜風が草木を揺らし、どこか遠くでふくろうが鳴いていた。

 ──小さな村の片隅で、新たな“医術”が生まれつつある。

 それは、癒しの魔法を継ぐ者たちの、最初の成功の記録だった。

 そしてレインは、もう一度だけ深くまぶたを閉じる。

 今度の眠りは、ただ疲れを癒すためのもの。

 命を削る代償ではなく、“人を癒す者”としての、確かな安らぎだった。


 * * *


 その頃──王都セラフィムの東端、アンティア教会総本山・第三聖堂の地下礼拝室では、蝋燭の火が静かに揺れていた。

 巨大な聖像の前、漆黒の法衣に身を包んだ男が一人、静かに跪いている。

 男の名はルキウス=サルヴァリス。教会が誇る“審問の剣”──異端審問官の中でも、特に高位に位置する存在だった。

 その背後で重厚な扉が軋みを上げて開かれる。


「ルキウス殿。聖典院議会より、正式な命が下りました」


 報告を伝えたのは若き助祭であったが、その声には明確な畏れがあった。

 ルキウスは返事もせず、ゆっくりと立ち上がる。


「場所は?」


「西方辺境、ティル村周辺。かつて“ソワン族”の血を引くとされる者が潜伏していた記録があります」


「……癒しの魔法。既に“診療”と称して、人の病を治していると?」


 助祭はわずかに身をすくませながら頷く。


「はい……“びょういん”なる施設を立てようとしている、との噂も。現在は真偽を調査中ですが──」


「異端であることに変わりはないわね」


 ルキウスは無感情に言い放つと、腰に佩いていた長剣をゆっくりと解き、静かに鞘からわずかに抜く。

 刃は黒銀に光り、まるで祈りを拒むような冷たさを湛えていた。


「ソワンの末裔は“知識”を持つ。ならばその知識ごと、聖火で焼き尽くさなきゃね」


「……はっ」


 助祭が頭を垂れる。

 ルキウスは剣を納め、神像の前に一礼すると、くるりと踵を返して歩き出す。


「神の恩寵の名のもとに。私が“真理”を示すとき……行くわよ!!」


 蝋燭の火が一つ、ふっと消えた。

 ルキウス=サルヴァリス──

 彼の出立により、再び“魔”と“癒し”の系譜が教会の前に浮かび上がろうとしていた。

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