第20話

 翌朝、私は京介さんの腕の中で目を覚ました。


 いつもとは違う、深い安らぎに包まれている。

 静かな温もりが、私の全身を満たしていた。


「おはようございます」


 京介さんの優しい声に、私は恥ずかしさで顔を上げることができない。


「おはようございます……」


 小さく答えると、京介さんがそっと私の髪を撫でてくれた。


「雪乃さん、ありがとう」


 その言葉に込められた深い愛情に、私の胸が温かくなる。


「こちらこそ……」


 しばらくそうして寄り添っていると、お鶴さんの声が廊下から聞こえてきた。


「旦那様、奥様、朝食の準備ができております」


 私たちは慌てて身支度を整えたが、お互いの顔を見るたびに頬が赤くなってしまう。


 食卓に向かうと、いつもとは違う様子の私たちを見て、何かを察したのか、お鶴さんが柔らかな微笑みを浮かべた。


「おはようございます、旦那様、奥様。さあ、腕によりをかけた朝食がございますよ」

「はい、いただきます」


 食卓につくと、少し改まった様子で京介さんが口を開いた。


「私たちの絆は、十分に深まったように思います。もう、お梅の幻惑に負けることもないでしょう」

「はい、今なら、お梅さんとも向き合えるような気がしています」


 真の夫婦となった私たちは、ついにお梅との最終的な対決に向かう覚悟を決めた。


 そうして、数日かけて準備を整えた私たちは、翠楼の跡地へと向かった。


 京介さんはいつもよりも多くの薬酒を用意し、私も薬酒縫いで作った守り袋を身につけている。


「雪乃さん、もし危険を感じたら、すぐに私の後ろに下がってください」

「はい。でも、きっと大丈夫です」


 私の声には、以前にはなかった確信があった。京介さんとの絆があれば、お梅の誘惑に負けることはない。


 翠楼の跡地は、以前とは変わらず荒涼としていた。焼け跡に建てられた新しい長屋ばかりが、かつてここにあった悲劇を隠すように佇んでいる。


「ここに、お梅さんのお墓を建てましょう」


 私たちは、翠楼があったとされる場所に小さな石を置き、手を合わせた。


「お梅さん、お話をしませんか。もう、逃げも隠れもいたしません」


 京介さんが、封印の薬酒の小瓶を取り出す。


「雪乃さん、封印を解きます。覚悟はよろしいですか」

「はい」


 京介さんが小瓶の蓋を開くと、私の体から薄緑色の煙が溶け出し、渦を巻いて小瓶の中へと吸い込まれていく。


 それに伴い、体の奥からざわめきが徐々に大きくなっていって、ふわり、と体から影が立ち上った。


『雪乃……京介……やっと話ができるね』


 意外にも、お梅さんの声音は穏やかだった。


『お菊ちゃんのこと、供養してくれてありがとう……それがずっと、わっちには心残りだった……』


 お梅さんもまた、佐代子さんの無念を晴らせなかったことが、心残りだったのか。


「お梅さん……」

『鉄心のことも、すまなかったと思っているよ……』


 その言葉に、京介さんがぐっと何かを堪えるように唇を噛み締める。

 やりきれない思いはある。けれど、お梅さんの悲劇は、怨念は、それだけ強かったのも仕方がないと思えた。

 

「お梅さん。私はあなたのことが許せない気持ちはあります。でも、だからこそあなたのことを供養してやりたい。あなたの怨念が祖父を殺したのならば、あなたの無念をこそ、弔ってやりたいのです」

『お人よしだねぇ……まったく。だけど……』


 そう言って、お梅さんは翠楼の跡地をの方へ振り返ると、不意にその跡地の空間を睨みつけた。


『わっちの無念を供養しても、全ての遊女の無念が晴れるわけではござりんせん。ここには、あまりにも悲劇が多すぎた……』


 お梅の言葉に呼応するように、焼け跡が波打った。

 黒い靄が、焼け跡から次から次に立ち昇る。


「雪乃さん! 後ろへ」


 京介さんが私を庇うように前に立つと、お梅さんがふわり、ふわりと黒い靄の方へ飛んでいった。


『折檻されて死んだ遊女、お蘭、桜、百合ちゃん。孕んだ子を殺された遊女、お鈴。わっちがここへ来るよりはるか昔、年季あけ直前になって騙され、更なる借金を背負わされた遊女……。無念のままに死んでいった子たちが、ここには怨念を滾らせながら、未練に囚われている』


 悍ましいほどに大量の黒い靄が、焼け跡から噴き出した。幻影の炎が、あたりを燃やし尽くすように立ち昇る。


『わっちには、この子を見捨てることはできんせん』


 黒い靄から現れたのは、数えきれないほどの女性たちの影だった。


 美しいかんばせに怨念を滾らせながら、壮絶な死を思わせる血やあざの跡が、体に残っている。


『殺してやる……男どもを皆殺しにしてやる……』

『この世を燃やし尽くしてやる……』

『苦しめ……私たちが苦しんだように……』


 遊女たちの怨念が渦巻き、まるで地獄の業火のような禍々しい気配が立ち込める。


「これは……」


 京介さんが浄化の薬酒を取り出すが、これほど大勢の怨霊を相手にするには、明らかに力不足だった。


『雪乃……京介……危険だから下がりなんし』


 お梅さんが、私たちを庇うように、怨霊の群れの前に立ち塞がる。


『お蘭、桜、百合ちゃん……わっちだよ、お梅だよ。落ち着きなさい』


 しかし、怨霊たちはお梅さんの声など聞こえないかのように、憎悪の鬼と化していた。

 

『全てを燃やし尽くせ……』

「お梅さん!」


 怨霊の塊へと向かっていくお梅さんに、私は叫ぶ。


『雪乃……わっちにはこの子達を止める力はない。早く逃げなんし……』


 そう言うお梅さんを前に、それでも私は立ちすくんで、守り袋を握りしめた。


 瀬織津姫様に祈る。どうか、どうかこの魂たちをお救いください。私たちを守るよりも、どうかこの人たちをお守りください。


 その時、空に雲が立ち込め、幻影の炎に燃え盛る焼け跡を鎮めるように、清浄な雨が降り注いだ。


 雲の隙間から、この上もなく美しい女性の姿が、舞い降りる。


「瀬織津姫様……」


 神々しい光に満ちた瀬織津姫様は、ゆらめく怨霊たちを抱きしめるように手を伸ばした。


『まったく、この時代になっても現世の男どもは仕方がないねぇ。そなたら、苦しみを抱えてこの世に止まるは、もうおよし。妾が許へ来るがよい。その苦しみ、その穢れ、時をかけて洗い流してやろう』


 柔らかく慈愛に満ち溢れた声が、殷々いんいんと響く。

 怨霊たちが、畏れと希望の入り混じった顔で、瀬織津姫様を見上げた。


『お蘭、桜、百合ちゃん……皆。わっちと一緒に行こう』


 お梅さんが優しく微笑みかけると、怨霊たちの顔に初めて安らぎが浮かんだ。


『瀬織津姫様……どうか、救いを。やっと、楽になれる……』


 一人、また一人と、光になって瀬織津姫様の許へと魂は登っていく。


『雪乃……京介……ありがとう。あんたたちのおかげで、みんなを救うことができたでありんす』

「お梅さん」


 お梅さんもまた、光となって瀬織津姫様の許へと立ち上っていった。


「これで……みんな、救われたのかしら」

「そうだと信じましょう。いずれ彼女たちの苦しみが濯がれるのだと」


 そこへ、瀬織津姫が空から降り立ってきた。その周囲は、色とりどりの光の玉が飛び交っている。遊女たちの魂だ。


『妾はこの子達の穢れを濯ぐため、しばらく深き眠りにつく。もはやそなたらに加護を与えてやることもできない。しかし、そなたらであれば自分たちの力のみでやっていくことも出来るであろう。息災であれ、心優しき退魔師たちよ』

「瀬織津姫様……。今までありがとうございました。どうか、彼女たちの魂を鎮めて差し上げてください」


 瀬織津姫様からの加護は、これで終わる。けれど、私たちは大丈夫だと自信を持つことができた。京介さんと一緒なら、これからもきっと、やっていけるだろう。


 瀬織津姫様は天へ還っていくと、あたりに立ち込めていた雨雲はさっと散らされ、陽の光が再び差し始めた。


「終わり、ましたね」

「ええ。彼女たちの魂が、安らかでありますように」


 私たちは、焼け跡に深く手を合わせると、翠楼の跡地を立ち去った。

 

 

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