編集済
第62話への応援コメント
罪悪感や喪失感から逃れるために自己を他者化した。それが菅野下さんの演技の正体だと読んだのですが、それに対する千秋くんの言葉がなぜ解決に繋がるのか。あまり納得できませんでした。(菅野下さんが納得しているのに、私が違うというのも野暮ですが……)
菅野下さんの苦しみは友だちの自殺に由来しており、その逃避の手段として、菅野下さんは自己の他者化を選んだにすぎません。つまり彼女の演技は苦しみの副産物であり、本質的な苦しみとは関係がない。したがって、問題の解決のために向き合うべきは、演技に至る以前の彼女自身です。そこまで明確にわかるのに、なぜ千秋くんは2つの自己に明確な境界はないという遠回りな議論を持ち込んだのか、その意図がわかりませんでした。(最後に至った結論を考えても、普通に「苦しみの原点に向き合おう」と言えば良いのでは……?)
もう一点。
これは私の個人的な立場が多分に反映されますが、「元来人って心が原動力で自己中心的な生き物」という言葉は引っかかりました。「自己中心的」というのが単に「自由意志に基づく」程度の意味ならば良いのですが、「結局はすべて自分のため」という意味ならば、私はあえて否定したいです。
たとえば旧約聖書の『創世記』にある『イサクの犠牲』という物語が挙げられます。アブラハムは神の言葉に従い、息子のイサクを生贄に捧げました。この行為の中に果たして「自分のため」という動機が認められるでしょうか。行為には「〜したい」という動機だけでなく、「〜すべき」という動機も存在し、その中心に事故があるとは限らないように思います。
そもそも千秋くんは、他者の感情は予測しかできないという立場であり、それならば行為の動機も理解できないはずです。つまり真に利他的な動機に基づく行為の存在を否定できない。千秋くんは何を持って人を「自己中心的な生き物」としたのか、もう少し聞いてみたいなと思いました。
例によって長くなってしまいましたが、今後の更新も楽しみにしています!
ps.
わざわざ調べて頂きありがとうございます!
私も宗教については詳しくないのですが、『イサクの犠牲』はキルケゴールという思想家が「おそれとおののき」という著作の中で考察しており、印象に残ったエピソードです。(ニーチェと同じ実存主義の哲学者ですので、ご興味があればぜひ読んでみて欲しいです……!)
そこから一つ引用したいのが、その著作で触れられている、神はアブラハムが息子を捧げた行為そのものを讃えたわけではないという記述です。
アブラハムのなしたことは、倫理的に表現すれば、彼はイサクを殺そうとした、のであり、宗教的に表現すれば、彼はイサクをささげようとしたの、である。ところが、ほかならぬこの矛盾の中に、人を眠れなくすることのできる不安があるのである。(中略)この事実だけをまねるのなら、信仰を持たない誰にでもいともたやすいことである。つまり信仰がアブラハムの真似をすることを困難にしているのである。(キルケゴール著,桝田啓三郎訳, 1962年「キルケゴール全集5巻」筑摩書房 p48)
ではアブラハムと信仰を持たない他の人々は何が違うのか。『おそれとおののき』で語られるこの論点は、自分の価値基準を宗教に置いていない私にとっても非常に面白かったのでおすすめしたいです。少なくともアブラハムの中に生じた葛藤が、単なる打算的な動機でないことは理解できるかなと思います。
さっそく脱線してしまいましたが、「結局は全て自分のため」という意見については、私はやはり賛同しかねます。
たとえばアブラハムが息子を捧げた行為について、たしかに結局は自分のためだったと言うこと『も』できると思います。しかしまた、彼が真の信仰にのみ基づいて行為したと言うこと『も』可能です。したがって、「自分のためではない行為もある」という意見に対する反論としては成立していません。
もちろん、自分の行為についての話なら「結局はすべて自分のため」と言っても何もおかしいことはありません。(現に私もそう思って生きています)ただそれを他者にも適用すると、話がおかしくなると思うのです。
他者が何を考えて行動しているかは、本人以外にはわかりません。他者の行為について「それは結局自分のためだ」と言うこともできません。だって他者の感情は予測しかできませんから。もしあらゆる行為の動機を想定して「結局自分のため」に行き着くとしても、それは単に自分が利他的な動機を持っていないから想像ができない、ということに過ぎないと思います。
それと哲学に正解はありませんが根拠は必要なので(ないとただの感想ですね)、その根拠を批判的に検討し合うのが哲学の楽しみ方かなと個人的には思っています。
(返信はあればとても嬉しいですが、気が向いた時で全然大丈夫です! お互い執筆頑張りましょう!)
11月1日追記
コメントとお話を読み返して思ったのですが、もしかしたらナリムさんは「自分のため」という言葉を「自分が意志をした」くらいの意味で使っていたのかなと気が付きました。つまり、心から他者のためを思った行為であろうとも、それを「したい」と意志して行動したのは自分なのだから、それは自分のための行為だと言うことです。私は自己中心的な行為について「意志の主体」ではなく「意志の動機」、つまりその動機が他者のためか自己のためかに焦点を当てて考察していたので、そこで齟齬が生じていたのかもしれません。
私は「どんなに優しくしてる人間にも結局助ける行動のうらに自分の心、エゴがある。」という発言を、「どんなに優しい人間の行動も、それは全て自分の利益のためだ」という意味に読みました。しかしこの発言が単に「どんなに優しい人間の行動も、それは全て自由意志によるものだ」という意味であれば、特に異論はありません。(デカルトの方法論懐疑は行っていないので、私も他者にも自我があることを前提にして生きています)
ただ「自由意志による行為」=「自分の(利益)ための行為」が成立しても、「だからすべての行為は自己中心的だ」というのは、少々暴論な気がしています。これも「自己中心的な行為」が「自分の意志が中心にある行為」というなら異論はないですが、それは一般的な「自己中心的」の使われ方とは、あまりに乖離しているように思います。
たとえば「誰かを助けるのは(盗みを犯してならないのと同じくらい)人として当たり前のことだ。だから人を助ける」という人間と「誰かを助けるとその人に貸しを作って後に優位に立てる。だから人を助ける」という人間がいたとします。「結局は全て自己中」論では、前者の人間も「人として当たり前のことをしたいと思ったのは自分だから、結局すべて自己中だ」になるわけですが、そこに「利己的な動機」「利他的な動機」という部分は一切関与していません。つまり「自己中心的な人間」とは「自由意志に基づいて行動する人間」という意味にしかならないわけです。
私は利他的な動機に基づいて行動する人間に畏敬の念を覚えますが(純粋な利他的な動機に基づき、「自らの行為を選択する」人間の存在については、「結局はすべて自己中」論は否定していませんし、それらも一律に自己中であるとしています)、それを「結局自分がしたいからしてるんでしょ?」と同じ「自己中」の枠で括るのは、人間の行為の動機を、軽視し過ぎているような気がしています。
作者からの返信
返信遅れてすいません。ちょっとイサクの犠牲について調べてたのと、最近忙しくてなかなか返せませんでした。
さてまずは自己犠牲の話についての僕の見解を話します。まあ哲学とかって正直どっちが正解とかでもないんであくまでも僕の一意見として捉えてくれればなと思います。
結論から言うと僕は結局は全て自分のためだと思ってます。薬味さんの意見で「〜すべき」という動機も存在するためその中心に必ずしも自己があるとは限らないとのことですが、僕はべきの中にも自己があると思います。
薬味さんと同じくイサクの犠牲で話したいと思いますが、アブラハムは何度も神との約束をして実現されてきてるし、神に従わなかった時に大変なこともあったから神に従う方が自分にとって有利になる。もう後悔したくないなどの自己欲求が入っているためアブラハムだって自己中心的であると捉えることもできると思います。この意見で気分を害したなら申し訳ないです。
そしてもう一つの菅野下が納得した理由がわからないという点ですが、千秋君はそもそも菅野下を納得させようとして話しておらず、自分の価値観を話しただけに過ぎないため遠回し的な意見に聞こえるのも無理はないと思います。
最後に後々まあいつになるかはわかりませんが千秋君の過去を明かすタイミングになったらこの定義にしたかを話したいと思ってるのでもう少々待ってくれるとありがたいです。
長文失礼しました。
第60話への応援コメント
いつも楽しく読ませていただいてます!
ここまでの話を読んでみて、「他者の感情」というものが、千秋くんの哲学の中でどう捉えられているのかが気になってきました。
今回の話で千秋くんは「人の真意は結構行動に出るもの」と語り、「追いかけるべきかそれとも追いかけないべきか、普通だったら答えはわからないだろう。だが今回の場合は決まっている。追いかけるべきだ。」としていました。つまり千秋くんは他者の行動からその感情をある程度断定しているように思えるのです。(仮に不確定なのであれば「答えが決まっている」とはならないはずです)
しかし54話では、「お前は天川さんのその時の情報を理解したに過ぎないんだよ、天川さんを別に理解したわけじゃない。それにその人の思考なんてその人しかわかんないんだから他人なんて理解できるわけないんだ」としており、他者による感情理解には否定的であるようにも読み取れます。その感情理解の差はどこから生じるのか、というのが私の疑問です。
前話の荒木くん然り、この作品は「正義」と「不正義」がわかりやすく描かれているので、「正義」の側である千秋くんの思想の正当性を分析する読み方はあまり向かないかもと思ってきてもいるのですが、問いを投げさせていただきました。不快に感じられましたらすみません……。
今後の更新も楽しみにしています!
(それと56話と57話の順序が逆になってました。「謝る」と「誤る」、「ず」と「づ」の誤字もありましたので、お伝えさせていただきます。)
作者からの返信
いつもコメント本当にありがとうございます!誤字訂正なだ本当に助かります!
さて問いについて答えていきたいと思うのですが追いかけるか追いかけないか問題の方は普段の千秋自信ならきっと分からないと思うけど、もし予測した通りだった場合行くべきだと思ったからこれからの行動は決まっているって言っていて感情を断定というよりもしもの時を考慮した時に自分をどうするか考えた結果なので感情はこの時は千秋は予測しかできてません。伝え方が悪かったなと思います。
それと問いが不快では全然なくてむしろ自分で考える時間ができてありがたいです😊
第54話への応援コメント
千秋君の哲学は割と懐疑的だと勝手に思っているので、「その人の思考なんてその人しかわかんない」ということで、自分の感情は理解できるという立場をとるのは少し意外でした。
とはいえ「他人(の思考)なんて理解できるわけない」と千秋くんが考えるなら、今後の恋愛方面も気になってきます。千秋君が誰かから交際を希望された場合、彼はその「愛」を認めるのでしょうか。仮に認めたとしても、彼の「優しさは存在しない」の論理を踏まえると、未来でその「愛」が失われる可能性も否定できません。では彼はそこから「愛は存在しない」の結論に達するのでしょうか。
まだ先の話だと思いますが、ヒロインの好意に千秋君が向き合う段階で下す結論の方も楽しみにしています。
第1話への応援コメント
初めまして!
XのRT企画リプより参りました、橘ミコトと申します。
第一話を拝読させて頂きましたので感想を残したいと思います。
キャッチコピーにもありましたが、冒頭から哲学的な話題を提示された本文になっており、正直に申し上げると「人を選びそうだなぁ」といった第一印象を抱きました。
ただ、主人公の価値観(哲学)や日常(アニメを楽しみにするなど)を最初に描写する事で、御作の作風は十分に伝わってくるようです。
文章も非常に平易で読みやすく、引っかかるところもありません。
登場人物も第一話では少なく、場面転換なども理解が容易。
スルスルと読めるWEB小説らしさを感じました。
ラストにも引きをしっかりと用意されており、主人公である「無一」の日常がどのように変化していくのか、今後が楽しみな導入でした!
最後に少し気になった点について…。
確かにラストには
「僕の日常が少しずつ急変していくことに」
と予告されており、展開としてのフックが用意されてはいます。
しかし、その変化は一体いつ始まるのだろう? という展開待ちのやや退屈な読後感が残る可能性が高いのではないかな、と感じてしまいました。
私が第一話を読んだ率直な印象を申し上げますと、
「少し捻くれた哲学を持った、アニメ好きの高校生の独り言を聞かされた」
という感想に落ち着いてしまいます。
例えば、主人公の「優しさ否定論」を彼の内面モノローグではなく、アルバイト中の店主とのやり取りで垣間見せるようなエピソードにしてみるなど、読者にも伝わる具体的な情報といて提示できれば、より御作の魅力も伝わりやすくなるのではないのでしょうか。
他にも、第一話最後の急変を予期する文言を先頭に持ってきて、その後の日常パートにて「優しさ否定論」を展開。
日常パートの最後に「日常が崩れ始める具体的な描写」をフックとして用意する、などです。
「平凡な高校生が日常の急変に巻き込まれる」という展開はWeb小説のテンプレ導入の典型ですので、できれば展開などにもう一捻りが欲しかったかな、という思いを抱いてしまいました。
以上で感想とさせて頂きます。
ただ色々と申し上げましたが、あくまで一意見として参考程度に受け止めていただければ幸いです。
今後も執筆活動を頑張ってください。応援しております!
作者からの返信
コメントありがとうございます!
たしかに1話に関してはまだあまりキャラも登場しておらず、一番最初に書いた文ということもあって独り言みたいになってしまいました。それ以降の話では極力意識しています。あと最後のやつ、たしかに典型的でつまらなかったかもです。捻りを加えられるような推敲が思いついたら変えていきます。長文失礼しました。
編集済
第35話への応援コメント
あやさんが千秋くんを好きになった理由が、幼少期に不安から解放してくれた経験ということなら、必ずしも千秋くんの優しさに惚れたとは限らないのですね。ここは早とちりだったかもしれません。
私は仮に自分が好意を向けられたら、まずはその理由が気になってしまうので、24話で千秋くんにどこが好きなのか問われた際、それを答えないまま千秋くんの卑下を咎めたあやさんに(ストーリー展開の都合ではなくキャラクターとして)もどかしさを覚えましたが、よく考えてみたら好意の理由って必ずしも論理的に説明できるものでもないですよね。言語化が苦手な人もいますし。ダメな男だからこそ惹かれる……!、というような一見非合理的な好意もありますし。
とはいえ、ラブコメ好きとしてはヒロインたちが主人公に惹かれる過程には興味があるので、この辺りも楽しみにして読ませていただきます!
(それとお節介であれば大変申し訳ないのですが、文の終わりに句点ではなく読点を置いているのが、読んでいて少し気になるかもです……。)
ps
コメントの意図が上手く伝わっていなかったかもですね。
あやさんが千秋くんに惚れたこと自体について、特に異議はないのですが、次回からはもう少し誤解されにくい表現を心がけます……。
(ただ脱線は重々承知の上で、一目惚れには「外見」という好きの理由が明確にあることは付け加えておきます)
それとしつこくて申し訳ないのですが、返信の方も含め、文末は「、」ではなく「。」を使った方が読みやすいかと思います。(何か拘りがあるのであれば、余計なお世話なので忘れてください)
作者からの返信
まあたしかに人が幼少期に助けられた経験が必ずしも人を惚れさせるのは限らない、でもあやちゃんの場合惚れたんです、そこに問題提起するのは少し違うことな気がします、だって好きになる理由が一目惚れとかも存在しますからね、それと文終わりの指摘ありがとうございます!直しときます
それに24話で好きな理由を千秋が聞いたというのもちょっと早とちりなのではないでしょうか?文とかみてると自虐しているような言い方なのでちょっとあやちゃんに聞いているようには僕は感じられないです、でも薬味さんがそう感じるってことはまだまだ表現が浅いということなので頑張ります
PS.
何度も文末に指摘させてごめん🙏
編集済
第24話への応援コメント
あやさんは千秋くんの卑下を注意するより、良いところを教えて欲しい気はします。たぶん彼女が好きなのは内面のことなので、優しさが存在しない派の千秋くんは結局否定しそうですが。
ところで、一章は「優しい行為」は存在しないが論点でしたが、今回の話を読むと、「優しい人」が存在するのかも気になってきます。あやさんにとって千秋くんは(たぶん)優しい人ですが、千秋くんにとってはそうではない。では千秋くんは優しい人なのか否か。
一章の議論を踏まえると、まず「優しい人」がいて、それを他者が「優しい人」と認識することで、その人が優しい人と認められる、ということになるのかなと思います。今回の話では、あやさんが千秋くんを「優しい人」と認識しているが、千秋くんは自分を「優しい人」とは認めていない。では千秋くんは「優しい人」ではないのかと言うと、話はそう簡単ではないと思うのです。
たとえば、客観的に見て「優しい人」認められる人物が2人いた時。一方は自分を「優しい人」と認識していて、もう一方は自分を「利己的な人」と認識している。ここで前者の方が「優しい人」となるのは非合理です。前者は自己を謙虚に評価し、後者は過大に評価している可能性があるからです。
ということは「優しい人」を判断するためには、客観的に平等な自己評価が必要ということになりますが、それは現実には不可能です。そういう意味で「優しい人」の存在もまた(自己についての場合も含め)「わからない」ということになりと思います。(なお、「確定的には存在しない、存在するかわからない」は、「存在しない」とは明確に区別する必要があります。ここを=で結ぶと、「神の存在は証明できない」から「神は存在しない」と言えることになってしまうので)
勝手に問題提起をしてしまいすみません。おそらく第三章の「自分と他人」というテーマは、本作の哲学にとっても重要な位置を占めていると思いますので、ぜひ楽しみに読ませていただきます
ps
最もと言ったつもりはありませんでしたが、誤解させてしまっていたら申し訳ないです……後に待つであろう「最も」重要な章も楽しみにしています。(存在の証明と聞くと、ぱっと浮かぶのはデカルトの方法論的懐疑から導かれる「コギト・エルゴ・スム=我思う、故に我あり」でしょうか。こちらも今後の見解を楽しみにしています……!)
作者からの返信
まずこの章が最もと言われても僕はそう思って書いてないです、はい、申し訳ない、そしてあやちゃんが千秋についてもっと良いことを言ってとおっしゃっていましたが、それは最新話付近に好きになった理由を書いているので後々になったらわかりますよ、こういうのは後でわかった方がより深みも出ますしね、そして、存在証明についてですが、まず存在することを証明するっていう事についてよく考える必要があると思います、では存在するってどういう事でしょうか?まだ僕の見解は後の章で書くため書けないのですがそこをまず考えてみることが大事だと思います
編集済
第21話への応援コメント
2章も楽しく読ませて頂きました。
全体を通して読んでみて、千秋くんは自己と他者の価値観にきっちり線を引くタイプなのかなと思いました。優しさも正しさも、社会的に良いとされているものを一度問い直したい。そんな哲学的な姿勢を感じ、共感ができました。(一方で、外(社会)からの価値観の押し付けには敏感でありながら、千秋くん自身が自分の価値観を他人に(やや強引に)押し付けているように見える描写もありましたので、そこは慎重に行われるべきかなと、個人的には感じましたが)
また話がそれてしまいますが、こういった類の哲学に興味がおありでしたら、ニーチェの『道徳の系譜』という著作をお勧めしたいです。”道徳”の起源には弱者の嫉妬(ルサンチマン)があることを明らかにした著作で、社会的な正しさを問い直したい人には、何か刺さるものがあるかもしれません。哲学を学ぶ上で、良くも悪くも私が最も影響を受けた作品なので、おすすめをさせていただきました。
(別に哲学な議論には興味が無いということであれば、遠慮なく教えてください。次回からは控えます……)
3章以降も楽しみにしています。ぜひ完結まで頑張ってください……!
作者からの返信
毎章本当にコメントありがとうございます!!
千秋が価値観を押し付けてるって表現、確かに菅野下編だとより強く出てたかもしれません、まあ本人的にはきっとそのくらい強く言わないと菅野下が変わらないと思った結果だと思いますけどw
哲学の本を勧めてくれてありがとうございます!!ここまでの章の哲学は今まで全部自分が考えた哲学を混ぜてた感じなので一回他の人の哲学とか知りたいと思っていたので助かります(^ω^)
編集済
第11話への応援コメント
ここまで楽しく読ませていただきました。テンポが良くていいですね。
余計な指摘だとは思いつつ、少し気になった点があるので、少し触れさせてください。それは「優しさが無い」と「優しさが必要無い」が、混同されているように思われる点です。
千秋くんは「優しさは相手のためになるかわからないから、優しいという言葉は存在しない」としていますが、「優しさが相手のためになるのかわからない」から導かれるのは、「優しさは必要ない」ということまでであり、「優しさが存在しない」までは証明できません。(さらに言えば、作中に挙げられた例の解決策については、「娘と丁寧に話し合ったうえで、2人で最善の方法を模索する」といったアプローチもあり、優しさが相手のためにならないの主張にも議論の余地があると思います。
他人が自分をどう思うかなんてわからない、だから相手のことを過度に考えても仕方ない」という話には(ある程度)同意できるのですが、「優しさは存在しない」という話になると、また別の議論が必要になるのかなと思います。
哲学がテーマの作品ということで、また語り過ぎてしまってすみません……。
確固たる思想を持った主人公は好きなので、今後の展開も楽しみにしています!
ps.
返信の方も読ませていただきました。
本筋とはずれていってしまうので、あまり深入りするべきではないと思いつつ、哲学好きとしてつい語りたくなってしまうので、どうかお許しください。(スルーして頂いても構わないです)
おそらくおっしゃりたいのは、「現在の相手のための優しさは、未来の相手にとって優しくない」、「未来の相手のための優しさは、現在の相手にとって優しくない」、それなら「真の優しさは存在しない」ということかと思います。しかしこの例では「現在の相手にとっての優しさが、現在の相手にとっても未来の相手にとっても優しいとされる行為」があえて排除されているように思えるのです。たとえば「教室で一人ぼっちでいつもさみしそうにしているクラスメイトに、勇気を持って話しかけたら、その子の学校生活が楽しくなり、笑顔で卒業することができました」という事象が考えられます。これは「現在の相手のための優しさが、現在の相手にとっても未来の相手にとっても優しい行為」と言えるのではないでしょうか。
「優しさが存在しない」という命題は、一つでも優しさが存在すれば否定できてしまうので、「優しさが存在しない」は言いすぎで、作中に挙げられた例で言えるのはやはり、(その行為が本当に相手の役に立つかはわからないという意味で)「優しさは必要ない」までだと思います。
(哲学的な議論としての話なので、千秋くんの思想を批判したいわけではないです。お目汚し失礼しました)
さらにコメント
めんどくさいなんてとんでもないです。こういう哲学的な議論は大好きです。
コメント欄で長々と話すのはどうかと思いつつ、せっかくタグに哲学があるので、もう少し議論ができたら嬉しいです。
「相手の認識によって変わるなら優しさという行為は不確定で、変化しやすいものだから、優しいは、存在の可能性としてはあるが、確定的に存在することはない」とのことでしたが、それが「優しさは存在しない」になるならば、(優しさはという行為は不確定なので、優しさが確定的に存在しないとは言えないという意味で)「優しさは存在する」も言えてしまうと、まず率直に思いました。つまり主語が大きすぎるかなと。上の議論から導かれるのは「優しさは存在しない」=「あらゆる優しさが存在しない」ではなく、「ある行為に係る優しさは確定的には存在しない」までだと思います。(そして当然それは作中の「優しさは存在しない」とは異なります。なぜなら「優しさは存在するかもしれない」もまた言えるからです)
もう一点気になっているのは、優しさは他者の認識によって完結するものという前提です。私は優しさの基準を人の善意=動機と考えているのですが、ナリムさんの説によると、まったく同じ動機によるまったく同じ行為でも、受け手の側の認識により、それが優しさであるか変化することになります。たとえば落ちている財布を交番に届けるという行為一つ取っても、受け手の認識で優しいか否かが決まることになり、それは一般的な優しさの定義とはずれているように思うのですがいかがでしょうか。
(お時間ある時にご返信を頂けたらとても嬉しいです)
作者からの返信
まあいちようキャラが高校生なのでそこまで思想が完璧ではないなは仕方ないことだと思います。指摘はありがたいです(^ω^)それに哲学の話をできる人が周りにいないのでこういう意見は正直助かります
ps.
返信の返信も見させてもらいました、僕が言いたかったのはちょっと違くて「現在の相手のための思いやりは、未来の相手
あとこれからは僕の考えなのですがこの先は、なんかこいつ適当にほざいてるなとかな感じで見てもらえればいいのですが
主人公が語っているのは2つの優しさがあり一つ目はその場だけの優しさでこれは相手の将来を潰す可能性がある2つ目は逆に今の相手を壊す可能性がある、その時相手からしたら優しさは優しさと受け取れず
ノットイコールになるから優しいというのは存在しないと言っているのであって必要がないとはまた別な気がします。混同してるわけじゃなくて明確にないと主人公は考えています。
ps.
返信の返信も見させてもらいました、僕が言いたかったのはちょっと違くて「現在の相手のための思いやりは、未来の相手に思いやりと認識されない場合がある」
「未来の相手のための思いやりは、現在の相手自身がそれを思いやりとして認識しない場合がある」、この場合「現在もしくは未来のための思いやりが、どちらの方でも思いやりと認識できる場合」を排除したいわけではなく、この場合、相手の認識によって変わるなら優しさという行為は不確定で、変化しやすいものだから、優しいは、存在の可能性としてはあるが、確定的に存在することはないよねってことです。
なんかこんなこと毎回返しててめんどくさいやつで申し訳ない
返信の返信、
まあ薬味さん的にはどうでもいいかもしれないけどこの議論を通して新たに生まれた問があってそもそも存在ってなんだと思うようになりました、先の議論でもあるように僕は優しさは変動性があるから存在するとも言えるし存在しないとも言えるってことだと考えると、どっちとも言えるなら存在確かにそこにあるけどないって矛盾してることに疑問を覚え存在ってなんだと思い始めました、まだ未定ですが存在についての哲学もこの後の章で書けたらなと思います。
そして優しさについての前提の話なのですが、まあ確かに僕の優しさの前提と薬味さんの前提が異なっているので今思うと議論が食い違ったりするのは当たり前ですよねwでは真剣に返させてもらうと確かに優しさについての定義についてですか、僕が思ってた優しさとかは相手によって感じる時の優しさこれが前提です、ですが一般的な優しさはその動機が優しさと言っていますね、僕が思ったのは動機は優しさというより思いやりという表現の方が近しいのではないでしょうか?だから思いやり🟰動機、思いやりを持つことは動機を持つことでその結果が優しさ(相手の認識によって異なる)じゃないでしょうか?以上です、長ったらしくてすいません、あと僕も議論できて楽しいです!新しい問も生まれたのでありがとうございます
第1話への応援コメント
哲学という言葉に引かれて読み始めました。最初の語りの雰囲気が好きです。
物語の本質とはずれてしまうかもしれませんが、私も「優しさ」について少し考えてみました。
おそらく主人公(千秋くん)が想定しているのは「感情」ではなく「行為」としての優しさだと思うのですが、そうすると、「真に優しい行為は存在しない」というのが、(千秋くん)の主張になります。
ここで注目すべきは、千秋くんが優しい行為を、相手ためになる=役に立つ行為だと考えている点です。逆に言うと、現在あるいは未来の相手にとって望ましくない行為は、優しい行為とは言えない。そして相手の考え・未来について確実なことは、他者である私にはわからない。その意味で、何が優しい行為かもわからない=真に優しい行為は存在しない、ということが説明できると思います。
ただ私の立場としては「真に優しい行為」=「相手のためになる行為」という論理には納得できていません。なぜなら優しさは「結果」ではなく「動機」で決まるものだと考えるからです。すなわち「真に優しい行為」とは「真に利他的感情からなされる行為」だと私は考えます。そして「真に利他的な感情」はおそらく存在し得る。したがって「真に優しい行為も」存在すると思います。その点で上記の論理には同意できていません。
もちろん、その優しさからくる行為で、相手が不利益を被っては意味がない、という意見もよくわかります。現に私も、他者の親切が逆に重みになってしまうことはありますし、心配するより放っておいて欲しいと思ってしまうこともあります。それでも、それが100%私のためを想った行為なら、それは「真に優しい行為」であり、真の優しさは存在するのだと、私は思うのです。
愛や道徳は、哲学の中でも特に私が好きなテーマなので、つい語りすぎてしまいました。(話半分に読んでもらえたら嬉しいです)
私も初めて投稿した小説は、哲学に焦点を当てたラブコメでしたので、とても親近感を感じています。これから読んでいくのが楽しみです……!
作者からの返信
たしかに、薬味さんの考えもわからなくはないな、薬味さん的には、優しいというのは相手を思いやる気持ち自体が優しさってことですもんね〜、まあわからなくもないですね👍これからまだもう少し先だけどその動機の原点に入って優しさも考えた話も投稿する予定なので引き続きみてくれたらありがたいですね(^ω^)
第3話への応援コメント
Xから来ました。
女の子に優しいキャラを書いてるんですけど、この優しさっていう支配をどう表現しようか悩んでて、それっぽい導入されてたので、つい伺いました。
この主人公も優しい。でも、優しさや正しさをどう定義するのかって難しいので、どう哲学的折り合いをつけてくれるのか、楽しみに読ませて頂きます。
作者からの返信
なるほど、優しさっていう支配って言ってるの面白いですね、僕は自分の価値観や考えを織り交ぜて作ったので、ムーランさんにとって優しさがどのようなものかを考えて、その考えを誰かの考えに反映したり、もしくは行動とかに入れたりするのが良いのではないでしょうか?なんか僕も作家歴長くないので上手く伝えられなくてすいません、長文失礼しました🙇
第3話への応援コメント
一話一話がサクサク読めて隙間時間に良いなと思いました!!
応援♪