第33話:器の試練、海の難題

永禄九年(一五六六年)の夏。

南蛮との交易が拡大するにつれ、

武田政庁の財務を預かる家康(徳川家康)は、

新たな試練に直面していた。

駿河の清水港には、

南蛮船が頻繁に行き交い、

異国の品々が山と積まれる。

潮風が運ぶ生臭い魚の匂いに混じり、

甘く、しかしどこか刺激的な香料の香りが漂う。

活気ある人々の声の中に、

子供たちが真似る異国の言葉の響きが交ざり合う。

停泊する南蛮船の巨大な船体が、

波に揺られ、きしむ音が、

遠くから微かに聞こえてくる。

そこは、信虎が築き上げた、

日の本と異国を結ぶ、

新たな活気の渦だった。


しかし、異文化との交流は、

単なる富の流入だけではない。

複雑な流通網の構築、

南蛮商人の商慣習、

そして彼らが要求する新たな税制への対応。

これらは、家康の「堅牢な器」としての能力を、

試すに十分な難題だった。

彼の脳内では、信虎の講義で学んだ、

合理的な経済理論と、

目の前の異文化の混沌が、

激しくぶつかり合っていた。

紙の上に並んだ数字は完璧なのに、

現実の交渉は、まるで予測不能な波のように揺れ動く。


家康は、信虎の講義で培った知識を活かし、

持ち前の実務能力で、

これらの問題に冷静に対処した。

彼は、南蛮商人との交渉に臨み、

互いの慣習を理解しようと努め、

合理的な取引の枠組みを構築していった。

影書院の情報も活用し、

南蛮諸国の経済状況や、

商人の信頼性を分析する。

しかし、異文化間の摩擦は避けられない。

言葉の壁、宗教観の違い、

そして、理解を超えた商売の駆け引きが、

常に家康の前に立ちはだかった。

家康は、ある日、

南蛮商人の強引な要求に直面し、

思わず眉をひそめた。

相手の商人は、豪快に笑い、

手のひらで金貨を弄ぶ。

その底知れぬ笑みと、

計算では測れぬような身振り手振りに、

家康の心に、僅かな動揺が走った。

「父の教えだけでは、測り切れぬものもある」

家康は、時折、静かにそう呟いた。

彼の心には、合理だけでは割り切れない、

人間の感情や不確実性という「点」が、

大きく膨らみ、新たな思考を誘発する。

それが、彼の内面で「試練」という「線」へと分裂していく。

家康は、その複雑な状況を、

地道に、しかし確実に統治していった。

彼の地道な努力が、武田の経済を、

さらなる安定へと導いていった。

家康の額には、いつしか、

苦悩からくる汗が滲んでいた。

しかし、その瞳には、

揺るぎない決意の光が宿っていた。


信虎は、海外交易の拡大を見据え、

駿河の港を拠点とした、

海上貿易のさらなる発展を目指した。

港湾施設の整備は、彼の土木知識が存分に活かされる分野だ。

防波堤の強化、大型船の停泊が可能な埠頭の建設、

そして、荷役作業の効率化を図るための新たな施設の設計。

これらは、信虎の監督のもと、着々と進められた。

彼の頭脳は、未来の技術をこの時代に適用するため、

日夜、影書院で思索を重ねていた。

さらに、航海術の研究も開始された。

南蛮から得られる羅針盤や天文学の知識を、

影書院の識者たちが分析し、

日の本の航海術にどう活かすかを模索する。

それは、将来的な海外進出の布石であり、

信虎が描く「世界」へと繋がる、

新たな「線」の始まりでもあった。

羅針盤の指し示す先には、

まだ見ぬ広大な海が広がっていた。


一方で、信虎の治める国では、

異文化への関心と、それを超える探求心が、

民の間に静かに芽生え始めていた。

甲府の街には、南蛮渡来の菓子や、

珍しい香料を売る露店が立ち並び、

異国の言葉を真似る子供たちの声が聞こえる。

それは、信虎が意図せずとも、

文化的な同化と、

さらなる越境への衝動を生み出していた。

信仰心篤い一部の民は、

宣教師たちの教えにも耳を傾け始め、

寺社からの警戒の声も上がっていたが、

信虎は、その自由な交流をあえて止めなかった。


歩き巫女の中には、

南蛮船がもたらす異国の品々や、

異人との接触を通じて、

信虎の「理」を超えた世界に惹かれ始める者もいた。

彼女たちは、影書院への報告とは別に、

ひそかに南蛮船の水夫から、

海の向こうの物語を聞き集めていた。

それは、遠い異国の地の信仰、

生活、そして人々が持つ、

素朴な感情の物語だった。

武田の港には、信虎の支配下で、

交易を試みる密航者たちが現れ始めた。

彼らは、日の本の品を異国へ運び、

珍しい品々や、異国に関する情報を持ち帰る。

彼らの持つ情報は、影書院にもたらされ、

信虎や千代の「海を越える視野」をさらに刺激する。

それは、信虎の描く「理」の秩序の外に存在する、

人々の「欲」と「探求心」が、

新たな時代を切り拓く可能性を秘めていることを示していた。

ある密航者が持ち帰った、

手のひらに乗るほどの小さな異国の硬貨が、

信虎の卓上にそっと置かれた。

表面には、見たことのない紋様が刻まれている。

それは、遠い海の彼方から届いた、

未来の波紋であった。

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