第6話 夕暮れの残響
家に着いたのは午前九時過ぎ。
カーテンの隙間から射す柔らかい光が、床の上でゆらめき、薄い影を落としている。
鞄を置き、革靴を脱いでベッドに倒れ込む。
冷たいシーツに触れるたび、昨日までの苛立ちも胸のざらつきも、少しずつ遠くへ押しやられていくようだった。
天井をぼんやり見つめていると、玄関のドアが静かに開く音がした。
一瞬、背中に小さな気配を感じる。
「ただいまー!」
紗菜の声だ。軽やかで、少し息が上がっている。
俺はベッドの上で体を起こし、振り向く。
「あ、紗菜、もう帰ってきたのか」
「うん、今日は創立記念日で早く終わったんだよ」
少し心配そうに俺を見上げる紗菜の瞳。
「お兄ちゃん、今日は帰るの早いね。どうしたの?」
「大丈夫、ちょっと休んだだけ」
そう答えると、紗菜は納得したように頷き、少し考え込むようにしてベッドの脇に立った。
「ねえ、お兄ちゃん」
紗菜が声を潜める。
「せっかくだし、外に行かない?前の埋め合わせ!」
俺は少しだけ考えた。
昨日の苛立ちや、胸のざらつきがまだ完全に消えているわけではない。
でも、紗菜の真剣な眼差しを見ると、断る理由もなかった。
「……そうだな、気分転換に行ってみるか」
紗菜の顔がぱっと明るくなる。
「やったー! じゃあ急いで準備しよ!」
そう言うと、彼女は台所に駆け込んで小さな足音を響かせる。
俺はベッドから立ち上がり、靴下を履き替え、リュックを肩にかける。
カーテンを少し開けて外の光を確かめると、街はまだ午前の柔らかい光に包まれていた。
深呼吸してから、紗菜の後を追いかけ、玄関を出る。
「行こう、紗菜」
「うん!」
外に出ると、まだ朝の静けさが残る空気が顔を撫でる。
街路樹の葉がかすかに揺れ、足元のアスファルトに光と影が絡む。
紗菜は小さな手を軽く握り、駆け出すように歩く。
その姿を見ながら、俺も自然と歩を進める。
駅前のショッピングモールに着くと、昼前の時間帯で人通りは少しずつ増えてきている。
紗菜は目を輝かせながら、ウィンドウを覗いたり、飾り付けを指で追ったりする。
「これ、かわいい!」
「わあ、これ見て!」
彼女の声に、思わず笑みが浮かぶ。
俺は軽く相槌を打ちながら、ショーウィンドウに映る自分の影をぼんやりと眺める。
先程までの胸のざらつきが少し和らぎ、代わりに淡い安堵が胸をくすぐった。
紗菜はアクセサリーショップで小さな指輪を手に取り、楽しそうに笑う。
俺は隣で肩を軽く叩き、「いいんじゃないか」と短く言った。
文房具店や服飾店を順番に回り、俺は荷物を持つだけ。
声を交わすのは最低限で、紗菜の楽しそうな声を聞くことだけで十分だった。
長い買い物を終え、外に出ると空は淡い橙色に染まり、夕暮れの匂いが街に漂う。
紗菜は袋を持ち、楽しそうに歩く。
「ちょっと寄っていこうよ」
紗菜の言葉に誘われるように、近くの小さな公園に立ち寄った。
夕暮れの光が砂場やベンチ、木々の影を長く伸ばす。
目の前の景色は、見慣れた公園だ。
でも、胸の奥に微かに広がる懐かしい感覚があった。
遠くで聞こえる、かすかな子どもの泣き声。
――この声……やっぱりどこかで。
幼い頃、同じような光景、同じような風、遠くで聞こえた泣き声。
名前も顔も思い出せない。
でも、心の奥に小さな残像として残っている。
紗菜と遊んだ日々ではないはずなのに、なぜか胸がざわつく。
俺は立ち止まり、風と砂の感触を確かめるように息を吸った。
夕暮れの光に照らされた公園の景色は、目に映るものすべてが現実でありながら、どこか遠い記憶と重なり合っていた。
泣き声の余韻が胸の奥をかすかに揺らす。
思い出せないけれど、確かに存在していた誰かの残像のようなもの。
紗菜は滑り台に駆け上がり、楽しそうに笑う。
その声は温かく、現実にある安心感だ。
でも遠くで聞こえる泣き声、夕暮れの公園の感覚は、名前も知らぬ誰か――幼い女の子――の残像のようで、胸の奥に切ない影を落とす。
俺は砂の感触を確かめるように立ち止まり、夕暮れの光を受けてぼんやりと景色を眺めた。
懐かしさの正体は思い出せそうで思い出せない。
けれど、心に引っかかるざわつきだけは確かに残る。
夕暮れの静けさに包まれながら。
公園を後にすると、紗菜は楽しそうに袋を持ち歩き、足取りも軽い。
俺は少し後ろを歩きながら、夕暮れに染まる街の景色をぼんやりと眺めていた。
舗道に落ちる橙色の光。
車のライトや看板の明かりが、街を柔らかく包む。
普段なら何気なく通り過ぎる道も、今日だけはどこか異質に感じられた。
遠くで鳴る電車の音、子どもたちの声、商店街の呼び声――
すべてが淡く混ざり合い、胸の奥に静かなざわつきを残す。
歩きながら、ふと足元に目を落とす。
コンクリートの上にできた自分の影が、微かに揺れる。あの公園で感じた、名前も思い出せない誰かの残像のような感覚が、まだ胸の奥でくすぶっていた。
懐かしい、違和感。
それは確かに、幼い頃の思い出の一片なのに、何かが足りない、何かが遠い。
紗菜が前方でふと立ち止まった。
「ねえ、お兄ちゃん、あのお店も寄っていこうよ」
その声に、俺は少しだけ微笑む。
言葉には出さないけれど、紗菜と歩く時間が、どこか心をほぐしてくれる。
駅前のスーパー着くと、人の波が少し増え、歩くのに少しだけ気を使う。
紗菜は小さな声で「今日のご飯は何にしよっか」と言いながら、棚に並ぶ商品を見る。
俺はそれを眺めながら、少し微笑ましい気持ちになるのを実感する。
買い物を終え、帰り道を歩く。
夕暮れの空は徐々に色を深め、街灯が点き始める。
柔らかい光に照らされる歩道、歩く人々の影、静かに揺れる木々の葉。
紗菜が買い物袋を下げてる手とは、逆の手を伸ばして俺の肩に優しく触れた。
「お兄ちゃん、疲れてない?」
「大丈夫、少し歩くだけだし」
「本当に? 今日は早く帰ったみたいだし、心配になっちゃって」
「心配してくれるのかよ、紗菜」
少し照れくさくて、笑いながら答える。
「だって、お兄ちゃんが元気じゃないと、つまんないじゃん」
紗菜は小さく肩をすくめて笑う。俺も自然に口元が緩む。
「そうか……じゃあ、もう少しゆっくり歩こう」
「うん!」
駅前を過ぎ、家に近づくと、空は橙色から深い藍色へと変わり始めた。
街灯の光が歩道に反射し、長い影を落とす。
夕暮れの静けさが、いつもよりゆっくりと胸に沁み込む。
玄関に着き、ドアを開けると室内には柔らかい明かりが灯っていた。
紗菜が荷物を置き、少し疲れたように息を整える。
「今日は楽しかったね」
その声に、俺は軽く頷く。
「うん……悪くなかった」
靴を脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。
部屋の中に差し込む夕暮れの光が、床に長く影を落とす。
隣で紗菜が荷物を整理する音だけが響き、空間は静かに満たされていた。
因みにこの作品のヒロインは1人だけだよ。
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