ヴァインランド
トマス・ピンチョン
新潮社
2011年10月30日 発行
2021年5月15日 2刷
VINELAND(1990)
* 本書は 平成10年12月 新潮社より刊行された後、 平成21年12月訳文改訂の上で河出書房新社の「世界文学全集」に収録された作品『ヴァインランド』に、改めて大幅な訳文の修正を加えて改定したものである。
きっかけは、映画『ONE BATTLE AFTER ANOTHER』を観たこと。ディカプリオも良かったのだけれど、ストーリーとしてもめっちゃ楽しかった。調べてみたら、原作というわけではないけれど、本書にインスパイアされたということ。気になったので、図書館で借りて読んでみた。
私は、トマス・ピンチョンを読むのは初めて。
トマス・ピンチョンは、ノーベル文学賞候補の常連に名を連ねているアメリカの作家。1937年5月8日生まれで88歳。存命中ってことらしい。1963年『V.』でデビュー、26歳でフォークナー賞に輝く。第2作『競売ナンバー49の叫び』(1966)は、カルト的な人気を博すとともに、ポストモダン小説の代表作としての評価を確立、長大な第3作『重力の虹』(1973)は、メルヴィルの『白鯨』やジョイスの『ユリシーズ』に比肩する、英語圏文学の高峰として語られる。1990年、17年に及ぶ沈黙を破って『ヴァインランド』を発表してからも、奇抜な設定と濃密な構成によって文明に挑戦し人間を問い直すような大作・快作を次々と生み出してきた。『メイスン&ディクスン』(1997)、『逆光』(2006)、『LAヴァイス』(2009)、そして『ブリーディング・エッジ』(2013)と、刊行のたび世界的注目を浴びている。
知らなかったぁ。
図書館で予約して、とりに行って本をうけとって驚いた。分厚い・・・・。600ページ超の単行本。これは、なかなか手ごわい。数ページ読んで、なんだかさっぱりわからない。ん?空想の世界?いや、過去?現実?ふざけてるの?演技?なんだなんだ?
そう思って、しばし、温めていた。が、『小説、この小さきもの』でピンチョンが取り上げられていたので、意を決して読み始めた。
表紙裏の袖には、
”1984年、夏。別れた妻をいまだ忘れられぬゾイド・ホイーラーは、今年もヴァインランドの町で生活保護目当てに窓ガラスへと突撃する。金もなく、身動きもならず、たゆたうだけの日々。娘のプレーリーはすでに14歳、60年代のあの熱く激しい季節から、どれほど遠くまで来てしまったことか―。だが、日常は過去の亡霊の登場で一変する。昔なじみの麻薬捜査官が示唆したあの闇の男、異様なまでの権能を誇り、かつて妻を、母を、奪い去ったあの男の、再びの蠢動。失われた母を求める少女の、封印された“時”をめぐる旅が始まった。
キラめくばかりにちりばめられた60年代、 80年代のカルチャー・アイコンにギャグ。くノ一にカルマ調整師、サナトイドといった特異なキャラたち。だがその過剰なまでのポップ さの意匠の背後から明らかになってゆく60年代の闘争の熱気、苦い歴史。
『重力の虹』から17年の沈黙を破った大作にして全米図書賞最終候補、スピード感抜群なのに超重量級の傑作が全面改訳。絶品解説「ヴァインランド案内」付。”
とある。
感想。
いやぁ、、、すごい、重層感だった。何がって、一言で言えないのだけれど、時間軸が色々と移り変わるのと、誰の視点なのかも移り変わる。そこが、スピード感なのだ。そして、映画がもとにしたのは、60年代~80年代という時代背景と、若き活動家の現在があって、若さの勢いで娘を生んだものの子育てを投げ出した母といまでのその相手を思い娘を大事に思うダメおやじ(映画ではディカプリオ)と娘の家族愛。そして、それをかき乱す偏執狂的捜査官(映画ではショーン・ペン)の存在。
正直言って、ストーリーは映画より断然面白い。でも、1本の映画にしたら5時間くらいかかりそう。
直線的な時間で言えば、現在の父と娘が暮らす様子から始まり、捜査官の再登場で生活が脅かされるが、最後は娘は母と再会。その母は別の家庭をつくり、幸せにくらしていた。ヴィンランドに多くの家族や関係者があつまり、ほんわか・・・。
だが、その途中に語られる父や母の過去の話が、重層的に展開する。加えて、登場する様々な人物の物語が追加され、縦にも横にも広がっていく。
読みながら、これは過去の振り返りか?今の話か?とときどきわからなくなるのだけれど、会話にでてくる言葉、音楽や映画の話、政権の話で過去なのだとわかる。
最後に、訳者佐藤さんの「時を縫う語りの図」という円グラフのような図がある。これが、秀逸。解説も秀逸だけれど、この物語をこう図にするか!とまさに膝を打つ。年表のような直線ではなく、円なのだ。始まりは最後に終わりと時代が重なる。うまく説明できない、、、けど。
ストーリーのなかには、ときどき「ぶっとんでる」話が出てくる。ゴジラの足に襲われたり、飛行機が謎の飛行物体に追跡されて人が乗り込んできたり。物語の始まりも、気が狂ったかのようなゾイド(主人公)の行動が、映画のアクションスタントなんだか、現実の異常行動なのかよくわからない。読み進むと、どうやらわざと「異常」な行為をしていて、プレーリー(娘)も、それをわかっている。最後の方に明確に、「精神障害者」ということにしてヘクタ(ゾイドを時々助けてくれる捜査官)に救われてムショから出してもらって以来、ず~っと支援の小切手を政府から受け取るための生活手段だったことがわかる。
中には、なんだ?と意味不明な言葉もたくさんでてくる。一般用語なのか、ピンチョンの造語なのかもよくわからなかった。本書のテーマを言いあらわしているような言葉が、「サナトイド」。繰り返し出て来るけれど、意味不明だったので、chatGPTに聞いてみた。
Q:サナトイドな車?
A:『ヴァインランド』に登場する奇妙な造語で、ゾンビのように半死半生の、あるいは「死んだように生きている」人々を乗せる車という皮肉・風刺的な表現として使われます。
ピンチョンは造語が多く、「sanatoid」は sanatorium(療養所)、sanitary(衛生的)、android(アンドロイド) などの語感を混ぜたようなニュアンスを持つ言葉と解釈されています。
だって。
つまり、60~80年代の活動家は、今ではそのなりを潜め、TV漬けのくだらない日々が日常になってしまっている、というテーマからきている様子。TVといえば、本当の生活と、映画やTVの中の世界の交錯も、本書のわかりにくさの一つだった。時代をあらわすカルチャーの一つが、映画やTV。毒にも薬にもならないTVに夢中になって生きる空しさもテーマなのか?食べ物も、メキシカンがジャンキーにでてくる。ピザよりもメキシカン料理なところも時代を示しているのかもしれない。
以下ネタバレあり。
主な登場人物
・ゾイド・ホーラー:娘とつつましく暮らしている元ヒッピー。妻であったフレシネは、プレーリーを生んでまもなく家出。かつてはバンドでキーボード担当。フレシネと別れた後は演奏で身を立てようとするが、失敗。今では「精神異常」のふりをして政府から小切手をもらって暮らしている。
・プレーリー:ゾイドの娘。物語の始まり、1984年には14歳。パンクな友人はバンドマン・イザヤ。ゾイドと暮らす家は、ある日突然男たちに襲撃される。襲撃者のヘッドは、ブロック・ヴォンド、ワシントン連邦検察。プレーリーは、イザヤが演奏をする結婚披露宴のトイレで、DLと出会って、ブロックから逃げつつ母探しの旅が始まる。
・フレシネ:プレーリーを生んだ母。かつてはDL達と一緒に活動していたが、ブロックに仲間を売り渡してしまう。それでも、DLに救われたフレシネ。
・ブロック・ヴォンド:偏執狂男。権力者。若かりし頃フレシネは一度はブロックと親密になるが、やがてブロックの元から逃げ出す。そしてフレシネが出会ったのがゾイド。
・DL:ダリル・ルイーズ・チェイスティン:フレシネと一緒に学生運動をしていた女性。今の相棒はタケシ。DLは、禅や悟りの世界である日本の文化を知るタケシと知り合い、なぞの「くノ一救道会」で「ニンジェット」(忍者からの造語?)の訓練も受けていた。トイレで、プレーリーがタケシの名刺のようなものを持っているのを見つけて、プレーリーに話しかける。プレーリーはそれをお守りだと思って常に持っているとゾイドから無理やり持たされていた。
・タケシ:DLのパートナー。日本が場面の話に登場。 DLと一緒にプレーリーのママ(フレシネ)探しにつき合う。
・ヴァン・ミータ:ゾイドのバンド仲間。時々、ゾイドを助ける。
・ラルフ・ウェイヴォーン・ジュニアとシニア:ヴィンランドの住人。シニアの娘の結婚式で、イザヤたちが演奏。プレーリーとDLの出会いにつながる。
・サーシャ:フレシネの母。プレーリーの祖母。ゾイドの義母。サーシャも元活動家。
・フラッシュ:フレシネのパートナー。それなりにまともに暮らしていたのに、ウォーターゲートとそれに絡んださまざまな告発のため、金ぴか時代は終わる。
ストーリーは要約しようがないので、気になった表現などを覚書。
ピンチョンは、日本に来たことがあったのか、タケシにからんでマニアックな日本の話がちょいちょい出てくる。サラリーマン、禅、星占い、「ソノ名ヲキケバ、ナク子モダマル、ヤマグチグミ」。あらすじとは直接関係のないところで、ちょいちょい、笑いを挟んでくる。忍法「雀返し」、忍法「死の鼻ほじり」、「チンピラ・ゴジラ」これも、超絶技法か。
そして「西新宿のヒルトン東京」で、タケシはブロックと初対面。まぁ、ちょっと権力とヤクザの象徴??ピンチョンの日本カルチャーの取り混ぜ方が微妙でうまい。
「オメエの脳みそ、コンニャクゼリーか?」という会話も出てくる。原作も「こんにゃくゼリー」だったのだろうか。これが誰のセリフだったかは、あまりストーリーに関係ない。ただ、その前後の会話が
「何もみえね、どうしてだろう。」
「闇夜だからよ」
「オメエの脳みそ、コンニャクゼリーか?」
と、このくだらなさ・・・。
SFっぽいのは、怪獣の足跡とか、飛行機の人さらいだけでなく、DL、タケシ、プレーリーを乗せて走るトランザムの様子にも。
”その姿は不可視といえずとも半可視で、誰かに監視されているとはどうにも見えない。秘密は特殊塗料にあった。” 結晶の微視構造を利用して反射光の屈折の度を変えることができる代物で塗られていた。
ピンチョンは、物理化学にも詳しいのか?
「ってことは、レーガン再選」と、政治のゆくえに悲しむ人びとの描写は、時代を示している。レーガンは、もとカリフォルニア州知事。ヴァインランドはカリフォルニア州にあることになっている。
偏執狂ブロックの表現に、
”やがて彼の信じたロンブローゾの理論は体全体に適用され、罪人的体型というものの認識に彼を導いた”
ロンブローゾ?調べてみた。
”ロンブローゾは、1876年に有名な生来性犯罪者説を提唱した。それは,つぎのような趣旨のものであった。「犯罪者は,人類の一つの特別の変異,すなわち一つの特有な人類学的類型として特徴づけられる。この類型は,身体的表徴と精神的表徴を有する。前者は,左右不均等な頭蓋骨,長い下顎,平たい鼻,まばらな顎ひげなどであり,後者は,道徳的感情の欠如,残忍性,酒色たんでき,痛覚の鈍麻などである。このような人間は,生れながら必然的に犯罪者となるものである。そして,この類型は,野蛮人類型への復帰(隔世遺伝)によって生ずるものである。」”
もちろん、今日では否定されている。
ブロックは、仕事だけでなく女探しでも、体に罪深さをみてとるようになっていた。
ゾイドが生れたばかりのプレーリーに対面したときの描写。
”すげえ、オレにウィンクしている。”
この子とオレとは、どこかの異世界ですでに出会っている。
この眼はちゃんとオレが誰だかわかっている。
”ゾイドにとっては、あの時プレーリーの幻視された眼差しがそれだった。「なんだ、あなただったの!」って言ってるみたいな誕生の瞬間のプレーリーの眼は、後のゾイドの人生でえかけがえのないものとなった。”
ゾイドのプレーリーのあふれんばかりの愛情は今も続いている。
すったもんだの逃走劇があり、人びとの出会いがあり、すべてがすったもんだの末、最後にゾイド、フレシネ、プレーリー、フラッシュらが一同に会する。女たちが大人な会話をするなか、男たちはやっぱりちょっと抜けていて、かっこ悪くて、それが愛おしい物語になっている。
ゾイドは、大きな赤ちゃんだ。 しだいに明かされていくフレシネの悪行の過去にも、プレーリーは目を背けない。そして、それでもDLにもゾイドにも、加えてブロックにも愛されたフレシネ。フレシネもまた大きな赤ちゃんだった。でも今では母性も宿している。
放送禁止用語じゃない?というような言葉もたくさん出てくる。ののしり言葉の汚さは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン君に負けてない。アメリカ文学って、こういうのが好きなのかなぁ?!と思ってしまう。これが、ポストモダンなのかな。
長かったけど、面白かった。
読書は楽しい。