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Megurecaのブログ
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『ヴァインランド』 by トマス・ピンチョン

ヴァインランド
トマス・ピンチョン
新潮社
2011年10月30日 発行
2021年5月15日 2刷
VINELAND(1990)
* 本書は 平成10年12月 新潮社より刊行された後、 平成21年12月訳文改訂の上で河出書房新社の「世界文学全集」に収録された作品『ヴァインランド』に、改めて大幅な訳文の修正を加えて改定したものである。

 

きっかけは、映画『ONE BATTLE AFTER ANOTHER』を観たこと。ディカプリオも良かったのだけれど、ストーリーとしてもめっちゃ楽しかった。調べてみたら、原作というわけではないけれど、本書にインスパイアされたということ。気になったので、図書館で借りて読んでみた。

 

私は、トマス・ピンチョンを読むのは初めて。

トマス・ピンチョンは、ノーベル文学賞候補の常連に名を連ねているアメリカの作家。1937年5月8日生まれで88歳。存命中ってことらしい。1963年『V.』でデビュー、26歳でフォークナー賞に輝く。第2作『競売ナンバー49の叫び』(1966)は、カルト的な人気を博すとともに、ポストモダン小説の代表作としての評価を確立、長大な第3作『重力の虹』(1973)は、メルヴィル『白鯨』ジョイスユリシーズに比肩する、英語圏文学の高峰として語られる。1990年、17年に及ぶ沈黙を破って『ヴァインランド』を発表してからも、奇抜な設定と濃密な構成によって文明に挑戦し人間を問い直すような大作・快作を次々と生み出してきた。『メイスン&ディクスン』(1997)、『逆光』(2006)、『LAヴァイス』(2009)、そして『ブリーディング・エッジ』(2013)と、刊行のたび世界的注目を浴びている。

知らなかったぁ。

 

図書館で予約して、とりに行って本をうけとって驚いた。分厚い・・・・。600ページ超の単行本。これは、なかなか手ごわい。数ページ読んで、なんだかさっぱりわからない。ん?空想の世界?いや、過去?現実?ふざけてるの?演技?なんだなんだ?
そう思って、しばし、温めていた。が、『小説、この小さきもの』でピンチョンが取り上げられていたので、意を決して読み始めた。

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表紙裏の袖には、
”1984年、夏。別れた妻をいまだ忘れられぬゾイド・ホイーラーは、今年もヴァインランドの町で生活保護目当てに窓ガラスへと突撃する。金もなく、身動きもならず、たゆたうだけの日々。娘のプレーリーはすでに14歳、60年代のあの熱く激しい季節から、どれほど遠くまで来てしまったことか―。だが、日常は過去の亡霊の登場で一変する。昔なじみの麻薬捜査官が示唆したあの闇の男、異様なまでの権能を誇り、かつて妻を、母を、奪い去ったあの男の、再びの蠢動。失われた母を求める少女の、封印された“時”をめぐる旅が始まった。

キラめくばかりにちりばめられた60年代、 80年代のカルチャー・アイコンにギャグ。くノ一にカルマ調整師、サナトイドといった特異なキャラたち。だがその過剰なまでのポップ さの意匠の背後から明らかになってゆく60年代の闘争の熱気、苦い歴史。
重力の虹』から17年の沈黙を破った大作にして全米図書賞最終候補、スピード感抜群なのに超重量級の傑作が全面改訳。絶品解説「ヴァインランド案内」付。”
とある。

 

感想。
いやぁ、、、すごい、重層感だった。何がって、一言で言えないのだけれど、時間軸が色々と移り変わるのと、誰の視点なのかも移り変わる。そこが、スピード感なのだ。そして、映画がもとにしたのは、60年代~80年代という時代背景と、若き活動家の現在があって、若さの勢いで娘を生んだものの子育てを投げ出した母といまでのその相手を思い娘を大事に思うダメおやじ(映画ではディカプリオ)と娘の家族愛。そして、それをかき乱す偏執狂的捜査官(映画ではショーン・ペン)の存在。

 

正直言って、ストーリーは映画より断然面白い。でも、1本の映画にしたら5時間くらいかかりそう。

 

直線的な時間で言えば、現在の父と娘が暮らす様子から始まり、捜査官の再登場で生活が脅かされるが、最後は娘は母と再会。その母は別の家庭をつくり、幸せにくらしていた。ヴィンランドに多くの家族や関係者があつまり、ほんわか・・・。
だが、その途中に語られる父や母の過去の話が、重層的に展開する。加えて、登場する様々な人物の物語が追加され、縦にも横にも広がっていく。

 

読みながら、これは過去の振り返りか?今の話か?とときどきわからなくなるのだけれど、会話にでてくる言葉、音楽や映画の話、政権の話で過去なのだとわかる。

 

最後に、訳者佐藤さんの「時を縫う語りの図」という円グラフのような図がある。これが、秀逸。解説も秀逸だけれど、この物語をこう図にするか!とまさに膝を打つ。年表のような直線ではなく、円なのだ。始まりは最後に終わりと時代が重なる。うまく説明できない、、、けど。

ストーリーのなかには、ときどき「ぶっとんでる」話が出てくる。ゴジラの足に襲われたり、飛行機が謎の飛行物体に追跡されて人が乗り込んできたり。物語の始まりも、気が狂ったかのようなゾイド(主人公)の行動が、映画のアクションスタントなんだか、現実の異常行動なのかよくわからない。読み進むと、どうやらわざと「異常」な行為をしていて、プレーリー(娘)も、それをわかっている。最後の方に明確に、「精神障害者」ということにしてヘクタ(ゾイドを時々助けてくれる捜査官)に救われてムショから出してもらって以来、ず~っと支援の小切手を政府から受け取るための生活手段だったことがわかる。

中には、なんだ?と意味不明な言葉もたくさんでてくる。一般用語なのか、ピンチョンの造語なのかもよくわからなかった。本書のテーマを言いあらわしているような言葉が、「サナトイド」。繰り返し出て来るけれど、意味不明だったので、chatGPTに聞いてみた。

Q:サナトイドな車?
A:『ヴァインランド』に登場する奇妙な造語で、ゾンビのように半死半生の、あるいは「死んだように生きている」人々を乗せる車という皮肉・風刺的な表現として使われます。
ピンチョンは造語が多く、「sanatoid」は sanatorium(療養所)、sanitary(衛生的)、android(アンドロイド) などの語感を混ぜたようなニュアンスを持つ言葉と解釈されています。

だって。

つまり、60~80年代の活動家は、今ではそのなりを潜め、TV漬けのくだらない日々が日常になってしまっている、というテーマからきている様子。TVといえば、本当の生活と、映画やTVの中の世界の交錯も、本書のわかりにくさの一つだった。時代をあらわすカルチャーの一つが、映画やTV。毒にも薬にもならないTVに夢中になって生きる空しさもテーマなのか?食べ物も、メキシカンがジャンキーにでてくる。ピザよりもメキシカン料理なところも時代を示しているのかもしれない。

 

以下ネタバレあり。

主な登場人物
ゾイド・ホーラー:娘とつつましく暮らしている元ヒッピー。妻であったフレシネは、プレーリーを生んでまもなく家出。かつてはバンドでキーボード担当。フレシネと別れた後は演奏で身を立てようとするが、失敗。今では「精神異常」のふりをして政府から小切手をもらって暮らしている。

 

プレーリーゾイド娘。物語の始まり、1984年には14歳。パンクな友人はバンドマン・イザヤ。ゾイドと暮らす家は、ある日突然男たちに襲撃される。襲撃者のヘッドは、ブロック・ヴォンド、ワシントン連邦検察。プレーリーは、イザヤが演奏をする結婚披露宴のトイレで、DLと出会って、ブロックから逃げつつ母探しの旅が始まる。

 

フレシネ:プレーリーを生んだ母。かつてはDL達と一緒に活動していたが、ブロックに仲間を売り渡してしまう。それでも、DLに救われたフレシネ。

 

ブロック・ヴォンド:偏執狂男。権力者。若かりし頃フレシネは一度はブロックと親密になるが、やがてブロックの元から逃げ出す。そしてフレシネが出会ったのがゾイド

 

DL:ダリル・ルイーズ・チェイスティン:フレシネと一緒に学生運動をしていた女性。今の相棒はタケシ。DLは、禅や悟りの世界である日本の文化を知るタケシと知り合い、なぞの「くノ一救道会」で「ニンジェット」(忍者からの造語?)の訓練も受けていた。トイレで、プレーリーがタケシの名刺のようなものを持っているのを見つけて、プレーリーに話しかける。プレーリーはそれをお守りだと思って常に持っているとゾイドから無理やり持たされていた。

 

タケシ:DLのパートナー。日本が場面の話に登場。 DLと一緒にプレーリーのママ(フレシネ)探しにつき合う。

 

・ヴァン・ミータ:ゾイドのバンド仲間。時々、ゾイドを助ける。

 

・ラルフ・ウェイヴォーン・ジュニアとシニア:ヴィンランドの住人。シニアの娘の結婚式で、イザヤたちが演奏。プレーリーとDLの出会いにつながる。

 

サーシャ:フレシネの母。プレーリーの祖母。ゾイドの義母。サーシャも元活動家。

 

フラッシュ:フレシネのパートナー。それなりにまともに暮らしていたのに、ウォーターゲートとそれに絡んださまざまな告発のため、金ぴか時代は終わる。

 

ストーリーは要約しようがないので、気になった表現などを覚書。

ピンチョンは、日本に来たことがあったのか、タケシにからんでマニアックな日本の話がちょいちょい出てくる。サラリーマン、禅、星占い、「ソノ名ヲキケバ、ナク子モダマル、ヤマグチグミ」。あらすじとは直接関係のないところで、ちょいちょい、笑いを挟んでくる。忍法「雀返し」、忍法「死の鼻ほじり」、「チンピラ・ゴジラ」これも、超絶技法か。
そして「西新宿のヒルトン東京」で、タケシはブロックと初対面。まぁ、ちょっと権力とヤクザの象徴??ピンチョンの日本カルチャーの取り混ぜ方が微妙でうまい。

「オメエの脳みそ、コンニャクゼリーか?」という会話も出てくる。原作も「こんにゃくゼリー」だったのだろうか。これが誰のセリフだったかは、あまりストーリーに関係ない。ただ、その前後の会話が
「何もみえね、どうしてだろう。」
「闇夜だからよ」
「オメエの脳みそ、コンニャクゼリーか?」
と、このくだらなさ・・・。

 

SFっぽいのは、怪獣の足跡とか、飛行機の人さらいだけでなく、DL、タケシ、プレーリーを乗せて走るトランザムの様子にも。
”その姿は不可視といえずとも半可視で、誰かに監視されているとはどうにも見えない。秘密は特殊塗料にあった。” 結晶の微視構造を利用して反射光の屈折の度を変えることができる代物で塗られていた。

ピンチョンは、物理化学にも詳しいのか?

 

「ってことは、レーガン再選」と、政治のゆくえに悲しむ人びとの描写は、時代を示している。レーガンは、もとカリフォルニア州知事。ヴァインランドはカリフォルニア州にあることになっている。

 

偏執狂ブロックの表現に、
”やがて彼の信じたロンブローゾの理論は体全体に適用され、罪人的体型というものの認識に彼を導いた”
ロンブローゾ?調べてみた。
”ロンブローゾは、1876年に有名な生来性犯罪者説を提唱した。それは,つぎのような趣旨のものであった。「犯罪者は,人類の一つの特別の変異,すなわち一つの特有な人類学的類型として特徴づけられる。この類型は,身体的表徴と精神的表徴を有する。前者は,左右不均等な頭蓋骨,長い下顎,平たい鼻,まばらな顎ひげなどであり,後者は,道徳的感情の欠如,残忍性,酒色たんでき,痛覚の鈍麻などである。このような人間は,生れながら必然的に犯罪者となるものである。そして,この類型は,野蛮人類型への復帰(隔世遺伝)によって生ずるものである。」”
もちろん、今日では否定されている。
ブロックは、仕事だけでなく女探しでも、体に罪深さをみてとるようになっていた。


ゾイドが生れたばかりのプレーリーに対面したときの描写。
”すげえ、オレにウィンクしている。”
この子とオレとは、どこかの異世界ですでに出会っている。
この眼はちゃんとオレが誰だかわかっている。
ゾイドにとっては、あの時プレーリーの幻視された眼差しがそれだった。「なんだ、あなただったの!」って言ってるみたいな誕生の瞬間のプレーリーの眼は、後のゾイドの人生でえかけがえのないものとなった。”

ゾイドのプレーリーのあふれんばかりの愛情は今も続いている。

 

すったもんだの逃走劇があり、人びとの出会いがあり、すべてがすったもんだの末、最後にゾイド、フレシネ、プレーリー、フラッシュらが一同に会する。女たちが大人な会話をするなか、男たちはやっぱりちょっと抜けていて、かっこ悪くて、それが愛おしい物語になっている。

 

ゾイドは、大きな赤ちゃんだ。 しだいに明かされていくフレシネの悪行の過去にも、プレーリーは目を背けない。そして、それでもDLにもゾイドにも、加えてブロックにも愛されたフレシネ。フレシネもまた大きな赤ちゃんだった。でも今では母性も宿している。

 

放送禁止用語じゃない?というような言葉もたくさん出てくる。ののしり言葉の汚さは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン君に負けてない。アメリカ文学って、こういうのが好きなのかなぁ?!と思ってしまう。これが、ポストモダンなのかな。

 

長かったけど、面白かった。

読書は楽しい。

 

 

『あちらにいる鬼』  by 井上荒野

あちらにいる鬼
井上荒野
朝日文庫
2021年11月30日 第1刷発行

 

山田詠美『三頭の蝶の道』でモデルとなった瀬戸内寂聴さんに関する本。いつか読もうと思っていた。

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本書も、一緒にいただいたので、読んでみた。

 

本の帯には、
”映画化決定
作家の父井上光晴と、私の不倫が始まったとき、作者は五歳だった。 瀬戸内寂聴

父と母、そして瀬戸内寂聴をモデルに、逃れようもなく混じり合う3人の〈特別な関係〉を、長女である著者が書ききった衝撃作。

本書は、「井上光晴の妻」「瀬戸内寂聴」という二人の 内面のみを描くことを目的にした小説ではない。
(‥‥) 実際の父母とはことなる彼らを描くことは、実際の父母と重なって見える誰かを描くよりも、「本物」の彼らを表現することになるのだろうし、それこそが小説を書くということの真髄なのではないだろうか。 (解説より)  川上弘美
とある。

小説とは何なのか、ということを考えながら、『小説、この小さきもの』『三頭の蝶の道』を読み、最後に本書を読んだ。

 

本の裏の説明には、
”1966年、講演旅行をきっかけに男女の中となる2人の作家。白木篤郎と長内みはる。 繰り返される情事に気づきながらも心を乱さない篤郎の美しい妻笙子。愛と〈書くこと〉に貫かれた人間たちの生を書き 切った傑。 至高の情愛に終わりはあるのか? (解説・川上弘美)”

とある。

 

作者の井上荒野(いのうえあれの)は、1961年東京都生まれ。89年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』で直木賞など、作品多数。
私は初めて読んだ。

 

感想。

へぇ〜〜〜〜。
どこまでが本当の話なんだろう?
瀬戸内寂聴さんが、実生活で、夫と幼い娘を残して、若い男と出奔したと言うのは知っている。そしてその後、井上光晴との不倫というのは、井上光晴を知らないし、出家する前の寂聴さんを知らないので、私にはよくわからない。

とりあえず、この話を、現実の寂聴さんから切り離して読んだとしてみて、面白いかと言われると、ちょっと微妙。不倫しまくる男白木篤郎が、どうしようもなく、女にだらしがない。それだけではなく、嘘つき。どうしてそんな嘘を?と思うような小さな嘘を重ねて生きてきた男。虚勢を張っているものの、本当は小さくて嘘つきで悲しくて寂しい男に見えてくる。そんな男を愛した2人の女。女たちは、このどうしようもない男をめぐって、共感しあってしまったのだろうか。諍いを起こすこともなく。なぜか、一つの鞘に収まるかのように生きていく二人。それぞれに生きていく。一人の男を介して。

 

以下、ネタバレあり。

主な登場人物
白木篤郎:小説家。物語の始まり、長内みはると知り合った時点では41歳。妻と1人の娘。
白木笙子:篤郎の妻。36歳。
白木海里:篤郎と笙子の娘。5歳。
長内みはる:小説家。篤郎と知り合った時点で45歳。子供と夫を捨てて、出奔した経験がある。
真二:みはると暮らしている若い男。篤郎と出会ったあと、二人は別れる。
白木焔(ほむら):白木家の次女。篤郎とみはるの不倫関係が始まったころに笙子が身ごもっていた。

 

目次にはなっていないけれど、chapterに年と季節が示されている。

Chapter 1  1966 春
Chapter 2  1966 夏〜冬
Chapter 3  1967 〜 1969
Chapter 4  1971 〜 1972
Chapter 5  1973. 11. 14
Chapter 6  1978 〜 1988
Chapter 7  1989 〜 1992
Chapter 8  2014

それぞれのチャプターのあとに、「みはる」あるいは「笙子」あって、それぞれの話が続く。時系列であり、かつ、誰の話だかがすぐ分かるので、構成がわかりやすい。

 

Chapter 1 は、みはると篤郎の出会い、笙子が二人目を妊娠していること、篤郎が浮気した相手が自殺未遂騒ぎを起こすことなどが語られ、大枠の人間関係がつかめる。

みはると篤郎は、編集者と一緒に講演先の徳島へ向かう飛行機の中で出会う。みはるは、岸というもう一人の作家と同席することを楽しみにしていたが、岸は篤郎に興味をしめし、篤郎はみはるに興味をしめす。帰りの飛行機の中で篤郎はトランプでみはるの将来を占い、「 この数年で、あなたは書くものが変わるはずだ。 そう言われるとわかるでしょう。」といった。

そして、実際にそうなっていったのか?どうしたって、寂聴さんの人生と重ねて読んでしまう。

 

そして、篤郎と頻繁に会うようになり、みはるは真二と別れる。もちろん、篤郎に妻子があることはわかっている。篤郎と出会って真二と別れたわけではなく、物語の最初から夫と子どもを捨ててまで家をでたみはるだが、真二とはもう長くないと気づいている。

篤郎はみはるの家に初めてきたときに、いきなり靴下を脱いでくつろぎ始める。篤郎は、特に美男子とは描かれていない。小柄な普通の男。自分の不倫相手が病院に担ぎこまれたときいて、妻を見舞いにいかせる男。笙子の語りでは、二人の結婚が決まったときにも、別の女と付き合っていた篤郎。

 

Chapter 3で、みはるが別れた夫と会う場面で、16、7年前に夫と娘を置いて真二と出奔した経緯が語られる。みはるは、篤郎に自分の作品に赤ペンを入れてもらうようになる。そのために、二人で会う機会も増えていく。篤郎は家族のこともみはるに色々とはなす。後ろめたさは感じられない。篤郎が、ちょっと、と言って出かけていく先が女のところであることも笙子にはわかっている。

 

Chapter 4は、二人が出会ってからすでに5年。みはるは更年期の症状に煩わされるようになる。あるとき篤郎が、今日は着物を着ておいでよ、というので波の模様の絹紅梅に、帆船を織り込んだ紗の帯でおしゃれをしてでかけると、横浜港へ連れていかれた。「アッロー」と巨大な白人女に抱きすくめられる篤郎。どうやら、ソ連で知り合った女性が日本に来ていて、その彼女の帰国の見送りにみはるは呼ばれたらしい。その短い間に篤郎はこの女とも関係していた。
 二女の焔が生れ人数が増えた白木家では、新居探しが始まっている。白木家の家族団らんは、あくまでも普通の家族の団らん。


Chapter 5  1973. 11. 14は、みはるの出家の話。出家の前、みはるは捨てた娘から連絡をもらい、はじめて会う。結婚するということだった。が、出家するつもりだとの話は娘にしなかった。ニュースでそのことを知った娘から「私のせいか?」と聞かれたみはるは、「あなたには何も関係ないわ」と突き放す。
そして、出家の日。みはるの姉が立ち合い、涙する。みはるは、「寂光」となった。得度式のあとみはるは幼なじみの別荘に雲隠れすることにしていた。タクシーで別荘に来てみると、そこに篤郎がまっていた。まさか来るとは思わなかったけど、ただ、場所を伝えてはあった。篤郎は、笙子に行った方がいいと言われてきたのだった。
二人きりになっても、いままでのように体をあわせることもできなくなってしまった二人。篤郎は、トランプを持ってきていた。が、上手く占えないといって、途中でトランプ占いをやめた。自宅では、篤郎がもちだしたトランプを、12歳の海里がさがしていた。

 

Chapter 6から、「みはる」は「寂光」として語られる。すでに、人気者になっている寂光。いつのまにか「奥さん」ではなく「笙子さん」と呼ぶ関係になっている。笙子もまた、心の中で「長内みはる」とよんでいたはずが「長内さん」と呼ぶようになっていた。
3人で会うことも増えていく。

 

Chapter 7で、海里が文学新人賞をとる。寂光も選考員だった。そして、篤郎のがんが見つかる。手術のために入院した篤郎。見舞う家族と寂光。同じころ、湾岸戦争がはじまり、寂光は断食を決行。68歳の体で断食をし、8日目に倒れて運び出された。 集まった 寄付金を 医薬品に変えて寂光は自らバグダッド へ持っていく。戻ってくると、篤郎のがんは、肝臓、肺と転移していた。だんだんと弱っていく篤郎。笙子は両手の親指の付け根が腱鞘炎のように痛むまで、篤郎の足をもみつづけた。

篤郎は、腹具合がおかしいといったあと、黒い液体を吐き続けた。医師からは後二週間くらいといわれる。

 

寂光は篤郎に会いに行く。寂光や娘たちの前では泣かないと、病室をでて泣きじゃくる笙子。寂光が見舞いに来た翌々日、篤郎は死んだ。篤郎は、寂光が晋山(僧侶が新たに一寺の住職となること)した天仙寺に納骨された。

 

最後、2014年は、年老いた寂光の様子。海里は小説家となり、結婚している。笙子もまた、がんに侵されていた。そして、自分も篤郎と一緒に天仙寺に納骨されるのだと思う。いつか、寂光も近くに納骨されるのかもしれない。

意識が遠のいていく笙子が、篤郎が昔の笑顔でお迎えに来てくれている姿を目にしている場面で物語はおわる。

 

なんという、みはると笙子という二人の関係。

 

海里が、、、井上荒野がどこまで描き切ったのかはわからないけれど、ここに描かれる「みはる」「寂光」は、鬼ではない。タイトルでは「鬼」だけれど、ありえない女二人の友情物語なのか。でも、間に篤郎という男がいなければ、この二人の関係は成立しなかった。

 

これは、こういうのを小説というのかもしれない、と思う。”自分を描くことは他人を描くことで、他人を描くことは自分を描くこと。”(『小説、この小さきもの』)あくまでもフィクションなのだ。かといって、自分が生きていきた道とかけ離れすぎているわけでもない。

 

書いていないことも、美化してかいていることも、あるかもしれない。だって、小説だもの。少なくとも、二人の女の間に信頼が生れたのは確かなことなんだろう。鬼は、どこにでもいるのかもしれない。鬼と呼べば鬼だし、坊主とよべば坊主なのかもしれない。

 

読み終わってから、なんというかじんわりとくる小説だった。

 

そして、今回、『小説、この小さきもの』『三頭の蝶の道』そして本書を読んで思ったのは、だれも寂聴さんにはなれないし、なる必要もないんだな、ってこと。そして、著者の井上さんも、寂聴さんになる必要もないし、まったく違う一人の作家。お父さんがどんな小説家だったかは知らないけれど、知らなくていいかな、という気がしている。親子で作家というのは、、、子にとっては、結構しんどい商売だろうな、と思う。

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司馬遼太郎さんの言葉が頭をよぎる。

「 作家の席が二百あるとして、ひとり 亡くなったからと言って、 泉ちゃん(村木さんの本名)が代わりに座ることはできない。その席は 永久欠番だから、 201番目の席を自分で作らなくちゃいけないんだよ。」

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小説を書くということ、それを生業とする小説家という職業、私の知らない世界。

面白いな。

 

知らないことがたくさんあるって、楽しい。

 

 

『三頭の蝶の道』  by 山田詠美

三頭の蝶の道
山田詠美
河出書房
2025年10月20日 初版印刷
2025年10月30日 初版発行

 

小説とは、という話の流れで、『小説、この小さきもの』を読み、次は小説家を描いた作品。これも、知人からのおさがり。山田詠美の新刊が出ていたとは知らなかったので、早々に手に入って嬉しい。

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帯には、
” デビュー40周年記念小説
「 作家は、脳内で人を殺せてこそ、花。 そう思わない?」
かつて女性作家が「女流」と呼ばれた時代があったーーー。
創作をめぐる情熱と愛憎を描く、 山田詠美の新たなる代表作。

女流作家が「女流」と呼ばれていた時代。
現代では問題視されるその呼び名をものともせず、
ひたすら自身の文学に身を捧げた大先輩たちの姿を
四十年間末席で見詰め続けた私だからこそ
書けた作品と自負しています。   ーーー山田詠美
とある。

 

著者の山田詠美は、1959年東京都生まれ。85年「ベッドタイムアイズ」で文藝賞を受賞し、鮮烈なデビューを飾る。87年『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』で直木賞を受賞。近著に『肌馬の系譜』、『もの想う時、ものを書く』。

 

私は、学生時代には、村上春樹山田詠美かというくらい好きだった。今も好きだけど、全部は読んでいないかもしれない。

 

目次
第一章 2015
第二章 2007
第三章 2023
エピローグ

 

感想。
すごい。
すごいよ、ぽんちゃん。
面白い。
233ページの単行本、ほぼ一気読み。

 

三章、それぞれ一人の女流作家の晩年というかお葬式から始まる思い出の振り返り。ベテランの三人と後進の女性作家たちと、男女含む編集出版関係者たち。文壇の人びと。思い出話だから笑える話と、思い出としても笑えない話と。まさに、山田詠美じゃないと書けないだろうなぁ、という感じ。作家としての登場人物には、モデルがいることがわかる。

ただ作家たちがすごいのではなく、それを支えた、いや、一緒にものづくりをした編集者たちの活躍ぶりも読んでいて気持ちいい。文壇へのかかわり方にも色々あるのだと気づかされる。書いている人はすごいけれど、やはり、それを一緒に創り上げた人がいてこその作品なのだ。そう思うと、どんな本でも一冊、一冊、それぞれの熱い思いが込められているんだなぁ、と思う。

 

ついでに、やはり著者を知るというのも、大事なんだなと思う。フィクションであっても、この物語が紡ぎ出された背景を感じられると、作品への理解は深まる気がする。

 

以下、ちょっとネタバレあり。

各章に登場するメインの女流作家は
第一章 河合理智子 88歳没:モデルは河野多惠子
第二章 高柳るり子:モデルは大庭みな子
第三章 森羅万里、河合理智子と同い年。:モデルは瀬戸内寂聴

 

はじまりは、
”それはそれは質素な葬式でした。女の書く小説が女流文学と呼ばれ、男のものするそれらより一段低い位にあるとみなされた時代から、声高に女としての自分を主張するでもなく、対抗心あらわな反論を書き殴るでもなく、 ただひたすら 自分の文学 世界を追求した人。”
と、河合理智子の葬式の場面から始まる。

そこに呼ばれたのは、本人の遺言により親族以外は数人の編集者と女性作家3名のみ。女性作家は、河合理智子の同世代の鈴木しょう子、理智子とは親子ほどの歳の差のある玉川桜子と山下路美。

そして、葬式の後に、思い出話として作家の過去、交流関係などが綴られていく。山下路美のモデルは山田詠美、自分なのだろう。その後の歯に衣着せぬ発言だったり、デビューを振り返る場面など、おもわず、実際の昭和の時代を思い出してしまう。

 

編集者たちのモデルは、私にはわからないけれど業界の人ならきっと目に浮かぶのだろう。

残念ながら、私は3人の女流作家のうち瀬戸内寂聴さんしか知らない。本を譲ってくださった知人、本のプロが、他の登場人物のモデルも含めて、教えてくれた。それでも、3人の樹流作家たちが互いに良くも悪くも影響し合っていた様子がリアルで読んでいてそうだったのかもなぁ、、、と業界のいざこざをも想像してしまう。そして、山田詠美の情景描写、心象描写のうまいこと。あぁ、、、それね、、、って、読んでいて時々切なくなる。恋愛のセツナサではなく、生きるということ、女が低く見られていた世界で活躍するということ、女同士の好き嫌い以上の感情。ぽんちゃんならでは、と思わずにはいられない。

多分、本当に、山田詠美以外には書けなかっただろうと思う。少なくとも、男性には書けないのではないだろうか‥‥。「can」とか「able」とか能力の問題ではなく。

 

ストーリー展開として、ものすごく刺激的なものがあるわけではない。あくまでも、女流作家の人生を振り返っている呈がある。でも、それを今今の会話で表したり、思い出話として表したり。時間が行き来する場面もあるけれど、思い出話なので頭は混乱しない。

 

女流作家が亡くなった順ではなく、河合理智子の葬式から始まって、10年前に亡くなった高柳るり子の話に時代が戻り、長生きした森羅万里のはなしで締めくくられる、という展開が時代のリズム感を与えてくれる。編集者たちも重なっていたり、歳をとったり。

いやぁ、うまいわ。
やっぱり、山田詠美の超絶技法がある気がする。


デビュー40周年か。その間に私は何をしてきたのかなぁ、、と思ってしまう。

 

物語の中でも森羅万里は、寂聴さんと同じように長生きをする。かつ、若い時に夫と娘をおいて出奔し、元夫と娘とは絶縁状態。最後に、孫・新吾が万里のもとを訪れ、万里との交流を復活させる。出会ってすぐに自分の孫だと見抜く万里。新吾は作家となる。新吾のモデルは、井上荒野だろう。リアルには、寂聴さんの孫ではなく、寂聴さんの不倫相手の娘。

 

これは、ストーリーもそうだけれど、山田詠美の文章表現を楽しむ一冊という感じ。タイトルとなっている「三頭の蝶の道」につながる、晩年の作家がいつも出会う蝶の話は、もしかしたら本当なのかな?って。蝶には、いつも通るきまった道があって、それを蝶の道というのだ、と。三頭の蝶は、三人の女流作家。自分の道を歩き続けた三人。その様子をずっとみてきた山田詠美だからこそ、自分を信じて生きた三人を、強く、しなやかに、美しく描き出している。

 

ぽんちゃんワールドの言葉たちを覚書。

・” 女性編集者と女性作家との間に生まれる愛とは何に対するものなのか。 ある人は、 当然のように「作品」だと言い、またある人は「人間そのもの」と訳知り顔に答える。 そのどちらも、と頷いてみせる人々もいる。こう教えてくれた人もいました。
「 その人の作品を読んで、その人自身を知った時、逃げ出したい、関わりたくない、と直感でぴんとくるのよ。でも、足が動かない。それどころか、誰よりも近い所にいたくなる。 その時には、もう、その作家に取り憑かれているの。 編集者は、作家に取り憑かれて、なんぼ」”

 

・純文学についての会話の中で、長年高柳るり子を担当した編集者の言葉。
”「そうよ。まあ、そういう人もいるけどね、自分自身を消滅させてしまう人。でもね、 言っとく。 私の知っている純文学に身を捧げた人たちは極限まで身を削った後にそれまでより、もっと上等な肉を再生させていくの。何度もそれを繰り返して、揺るぎない力で覆われた作家という生き物を完成させていくの。」”

 

・第三章で、男女の不道徳な関係を大胆に書いてきた「ある種の女流作家」について、
”父が娘から遠ざけたい「ある種の女流作家」とは、 小説作品の中に 性愛のテーマを織り込みながら、 臆することなく人間を書き切ろうとする女たちのことでした。 宇野千代瀬戸内寂聴河野多惠子、 大庭みな子、高柳るり子、そして、森羅万里・・・ 女流の歴史の中で、 まだまだ数は多くはありませんが、性愛に人間の根源を見出す書き手の歴史は続いてきました。あの、女が圧倒的に不自由な時代に、子をなすためだけではない性の有りようを描こうとしてきた女たち。”

物語と現実とが混ざって、おもわず評論を聞いているような気になってしまった。

 

・河合理智子を長年担当していた編集者・間宮乃里子の言葉。
”でも、と乃里子は敬愛してやまなかった河合理智子のために言いたくなるのです。河合先生は、 純文学の奴隷だった。 そして、同時に主人でもあろうとしていた。 その姿を間近に見ていた 自分は、純文学を辛気臭いなどと言い捨てる訳にはいかない。そこに、 真剣に対峙していた作家と編集者がいたことを語り継がなくてはならない。そうだ今度赤羽瑤子先輩に会って話を聞かせてもらおう。 文学という本流に飛び込んだ偉大なる先人たちの話を。”

 

・” 森羅万里は自分の内なる邪悪なものの存在を十分理解していました。そして、あらゆる人やものを使って自分の力で浄化させていく。 そこで生まれた言葉が結晶化して小説作品に散りばめられるのです。” 

 

山田詠美から先輩女性作家たちへ、そして編集者たちへのエール、って感じもする。

亡くなってしまった作家の新作はもう読むことはできない。でも、過去にさかのぼればさかのぼるほど、新しいその人を見つけ出すこともできる。

 

エピローグで、ノーベル文学賞を受賞したアメリカの作家、トニ・モリスンの『ビラヴド(BELOVED)』がでてくる。取り上げられた三人の女流作家の作品ももっとよんでみたいけれど、BELOVEDも読んでみたくなった。

 

本の輪は、無限に広がる。

読書は楽しい。

 

ちなみに、読み終わった後、2025年12月6日日経新聞の書評に本書が出ていた。記事では、登場人物について、

”主要の3人は河野多惠子、大庭みな子、瀬戸内寂聴を彷彿(ほうふつ)させ、他にも実在の人物と思わせる人々が登場するが、厳密にモデルとしているわけではなさそうだ。ただ、彼女たちと交流のあった年下の作家、山下路美は、著者がモデルと考えて間違いないだろう。”

とあった。

 

うん、やっぱりね。

 

 

『小説、この小さきもの』 by 鴻巣友季子

小説、この小さきもの
Narrating Mortality  Why We Write Novels
鴻巣友季子
朝日新聞出版
2025年9月30日 第一刷発行

 

本のプロの知り合いが、小説とは何かという話の流れで「 他者を書くということは自己を書くことであり、 自己を書くということは他者を書くことである。」という本書の中のフレーズを教えてくださった。そして、買って読んでみようとおもっていた矢先に、「あげる」といって、下さった。

 

帯には、
” なぜ私たちは小説に「共感」を求めるのか?
翻訳という「 体を張った 読書」から散文文芸=小説の起源を探り、私たちが物語/キャラクターに没入するメカニズムを解き明かす。
ギリシア・ローマ古典、聖書にはじまり、
ウルフ、アーレント、アトウッドを経て、アマンダ・ゴードマン、市川沙央へ
古代と現代、 世界と日本をつなぐ本格文芸評論
書下ろしコラム「文化盗用」「 古典の浄化と読み直し」「市民検閲」を収録

私たちは孤独ゆえに小説を生みだし、
小説を読み書きするゆえに孤独を深めてきたのだ。”
とある。

 

著者の鴻巣さんは、1963年東京都生まれ。翻訳家、文芸評論家。 マーガレット・ミッチェル風と共に去りぬ』(全5巻)、エミリー・ブロンテ嵐が丘』などの訳本の他、著書もある。

私は鴻巣友季子といわれてもよくわからなかったのだけれど、知らないうちに、読んでいたかもしれない。

本書は、「小説トリッパー」2024年夏季号から2025年春季号に掲載されたものに書下ろしコラムをくわえたもの。

 

目次
第一部 小説、感情、孤独
 第一章 詩と小説、色と光
 第二章 小説、この小さきもの
 第三章 近代化、孤独、小説
 コラムⅠ 文化盗用
第二部 神から遠く離れて――小説はいかに共感の器となり得たか
 第一章 デーモンが世界を散文化する
 第二章 散文、労働、翻訳
 第三章 共感を担う話法
 第四章 リレータブルという価値
 コラムⅡ 古典の浄化と読み直し

第三部 フィクションと当事者性――〝真実〞はだれに語り得るか?
 第一章 リアリズムから読み解く共感
 第二章 語り手から読み解く当事者性――人称と視点
 第三章 フィクションでだれになにが書けるか?
 コラムⅢ 市民検閲

第四部 個人と包摂性、独立と連帯
 第一章 咀嚼か窒息か
 第二章 語りにおける回顧と模倣
 第三章 What Are You Going Through?

おわりに 小説とロンリネス――独りきりの私のために

あとがき
主な参考文献
索引

 

感想。
へぇぇ!!
なるほどぉ。
面白かった。

 

小説とは何かなんて考えて読んだことがなかったけれど、なるほど、世の中の読者にはこういうことを考えながら読む人がいるのかとか、こういう文章を文芸評論というのか、と、なるほど、なるほど。『失われた時を求めて』とか『人間失格』とか、こういう視点でよんだら、もっともっと深く楽しめたのかも、とも思った。文芸評論が面白いと思ったのは、初めてかもしれない。

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大量の本や作家が引用されているのだが、読んだことのある作家や作品がでてくると、ふむふむなるほど、となってさらに面白く読める。特に外国の作家は、あぁ、こういう評論にでてくるくらい有名な人だったんだぁ、と思う。丁度、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ONE BATTLE AFTER ANOTHER』を観てめちゃくちゃ面白かったので、一応原作と言われているトマス・ピンチョンの『ヴァインランド』を図書館で借りたのだけど、あまりの分厚さに積読になっていた。でも、ピンチョンも本書で言及されていたので、やっぱり、読まなくっちゃ、と思った。

 

英語で、Narrating Mortality とタイトルにあるので、なんでかな?と思った。直訳すれば、「死を語る」。私たちの命は有限であり、生まれてきたということはいつか必ず死ぬということであり、その限られた時間の中で小説を読み、あるいは小説を書き、様々な「人生」を味わうことに小説の意味があるということ、なのかな?

 

本を読むのは、孤独な作業。だからこそ、そこに共感を求める。かといって、共感できる登場人物だけを求めているわけでもない私たち。代表例として、ラスコーリニコフと友達になりたいか?という話が第二部第四章ででてくる。ラスコーリニコフとは、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公で、老婆殺しをした人物。あるいは、ピンチョンの登場人物と友だちになりたいか?という文も出てくる。

「主人公に共感できないからこの本は好きじゃない」って、短絡すぎないか?とも。

 

なるほど、である。私は、川端康成の本の登場人物にはあまり共感できない。だからといって、読みたくないかというとそうではない。情景描写のうまさに、うっとりしながら読んでしまうところもある。太宰治の『人間失格』だって、葉蔵と友だちになりたい人なんて、いない気がするけれど、いまだに読まれつがれる古典になっているし、私も読んで太宰ってすごいって思った。

 

たしかに、私の場合も、必ずしも共感を求めて小説を読んでいるわけではない。だけど、原田マハが大好きなのは、登場人物に強く共感してしまう人が多いからだ。

 

う~ん、なぜ小説を読むのかと聞かれると、私にはとくに明確な方針があるわけでもないけれど、やっぱり、読書は楽しいのだ。それは、孤独な行為でありつつ、著者との対話があり、「生きる」を感じるからなのかもしれない。ついでに言えば、小説を読むのがこんなに楽しいというのは、歳をとってから思ったことかもしれない。もちろん、子供の時から嫌いではなかったけれど、別に読書家だったわけではない。でも、読書はすればするほど、小説も読めば読むほど、それぞれの本の面白みがわかるようになってくる。
経験を重ねないと、この層が増えていく感じはわからない。

 

渡邉さんの言うように、もっと真剣に「感想文」にも取り組んでいたら、もっと若い時から古典の小説を読むことを楽しめたのかもしれないな。。。

 

共感できなくても、読書がたのしめるということを、鴻巣さんは、自撮り型読書でなはく冒険型読書と言っている。シンパシー【共感】ではなく、エンパシー【他者洞察、洞察的理解】も、読書の楽しみなのだ、と。ついでにいうと、楽しみだけでなく、学びもあるかもしれない。

 

気になったところを覚書。
・「 アルファベットはインターネットよりさらに革命的なテクノロジー だった」:スペインの文献学者イレネ・バジェホの言葉。紀元前千年頃、フェニキア人がアルファベットの基礎をつくった。文字ができたことで、口頭伝承から書き物に残すということができるようになった。より長い文章の記録、伝承が可能になった。

次の革命は、活版印刷

 

・小説の始まりは、叙事詩(ホメロス、ヘシオドスなど)、抒情詩にあり、アルファベットができて「散文」が生まれたこと。のちに、生活言葉(書き言葉ではないもの)で物語が書かれるようになった。詩の時代(日本の和歌も含む)は、韻文だったけれど、話し言葉で文章がかかれるようになったことをバジェホは、「文学は韻文の規律の外に新しい道を見出した」と言っている。

 

・ヘレニズムの時代に、小さな町は大きな帝国に組み込まれた。人々は、気が付くと寄る辺なく、不安になった。現代のグローバリズムと似て、人々は孤独になった。そして、個人主義が進むと、人々は人生訓・倫理観といった大きな主張より、個人の恋愛感情のような小さな物語を求めるようになった

 

・『 恋ははかない、あるいは、ブルーの底のステーキ』 川上弘美、長編:”感染症拡大下での不安と息苦しさ、人びとの触れあえなさと孤独を描いたという点では、一番”だと。

私には、微妙、、、、な一冊だったけど。鴻巣さんは、「本作は記憶をめぐる物語集でもある。 人が存在するとは、 どういうことなのか? 少なくとも 自分が存在するという自覚は、 記憶を手繰ることによって生まれるのだろう。」と。

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「文化盗用」:cultural appropriation。 ある文化、特に少数派や被抑圧側の文化に伝統的・象徴的な要素を他の文化、特に優位にある国や文化圏で創作物や表現に取り入れられ、 利用されること。日本人、黒人をステレオタイプに描いたような・・・・。
問題は、盗用している側はそれに気づいていない。かなり、微妙な話だ…。

 

・細部がストーリーを凌駕して膨れ上がる極端な現象:小説の型の進化で20世紀に起きたこと。ユリシーズ』『 失われた時を求めて』『百年の孤独』、トマス・ピンチョンやロベルト・ボラーニョの諸作、など。

 

「否定的エウレカ:「自分には理解できない」ということを発見すること。それも、小説の面白さの一つと言っていいのかもしれない。例えば、ラスコーリニコフや葉蔵を理解できないとか。あるいは、『雪国』の島村や駒子。

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・書簡体:近代一人称小説の発達に不可欠な形式。『若きウェルテルの悩み』『あしながおじさん』『こころ』など。書簡体のテクストは書き手が三人称客観描写を延々と広げない部分で、日本語に移しやすい。 

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なるほどぉ!と膝を打つ文章がたくさん出てくる。ついでに、読んだことないから読んでみたいな、っていう本も。

 

索引もついている本なので、本の辞書?!がわりににもなりそう。小説好きなら、楽しめる一冊。特に翻訳本の話もたくさん出てくるので、読んだことがあるとちょっと嬉しくなる。

 

自分で小説を書いているわけではないので、小説の形や形式を意識したことはなかった。でも、年齢とともに読書の傾向が変化して、50代になってからは小説も多く読むようになり、自分の本の嗜好が共感ということだけでなく、形式にもあったかもしれない、と気づいた。時間が交差するもの、現実と仮想世界が交差するもの、だんだんと複雑なプロットが楽しめるようになってきた。そうしてみると、村上春樹の文体も年齢とともに変わってきたのかもしれない。

 

小説を分析するって、これまで考えてもみなかったけれど、そういう楽しみ方もあるんだね。

 

人生、一生学び。

読書は楽しい。

 

 



『江戸の忘備録』  by 磯田道史 

江戸の忘備録
磯田道史 
文春文庫
2013年11月10日 第1刷
2019年11月20日 第12刷
* 本書は『江戸の備忘録』 (朝日新聞出版 2008年刊) 文庫化です

 

図書館の特設棚の上にあったのが目についた。

 

裏の説明には、
”信長、秀吉、家康はいかにして乱世を終わらせ、江戸の泰平を築いたのか?江戸時代の「役人の数」「政府の規模」「教育水準」はいかほどだったのか?気鋭の歴史家が民の上に立つ為政者=武士の内実に分け入り、今の日本の土台となった江戸時代の成り立ちを平易な語り口で解き明かす。日本史の勘どころがわかる歴史随筆集。”
とある。

 

磯田さんは、1970年、岡山県生まれ。2002年、 慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。 史料を読みこみ、社会経済史的な知見を生かして、歴史上の人物の精神を再現する仕事を続けている。

磯田さんの歴史の本は、どれも面白い。『武士の家計簿』は、特に面白い。磯田さんの本だから、パッと目についただけで手に取って、借りて読んでみた。

 

目次
信長の好奇心
なぜ信長は殺されたのか?
秀吉の艶書
お稲荷様も脅かした秀吉
家康の人事
・・・・・・ 他。

それぞれの忘備録が2,3ページなので、目次も延々と続く。まさに、忘備録であり、コラムのオムニバスみたい。

 

感想。
面白かった!
やっぱり、磯田さん、面白い。歴史に関する本でありながら、心情描写をみているような気になる。出てくる多くの歴史人物は、有名な人ばかりなので、歴史家ではない私にも何をした人なのかが、ちゃんと思い浮かぶ。織田信長、秀吉、家康、、、宇喜多、細川、池田、、、龍馬、西郷隆盛二宮金次郎山岡鉄舟、、、、漱石、、、、。

目次をみて、気になるところだけを読んでも楽しめると思う。

 

教科書的な歴史の勉強をしつつ、こういう本を読むと思いがけないconnecting dotsが起きて楽しい。

 

ちょっと、覚書
・なぜ信長は殺されたのか?
 → 結局、 信長は 他の能力は優れているのに、 人を信用せず、 人に信用される能力がなかったため、 天下を取れなかったのではないか。「 天下を一にするものは、人を殺すをたしなまざる者である。 なぜなら天下の民は、そういう人を君主に望むから」と紀元前に孟子も言っている。

やはり、非情な人間の天下は持続可能ではない。スターリンとか、、、ね。

 

・居酒屋で出会った人と「岡山出身」の話で盛り上がり、実はその人が宇喜多の子孫であったということが分かった話から。
 →”徳川家康の東軍に属して勝った側は、武士となり城下町に住んだ。一方、石田三成や宇喜多の西軍に属して負けた側は帰農し、庄屋や地主となって農村で力を蓄えていった。明治以後、この庄屋や地主が「地方名望家」となって、政治家や官僚、医者や教育者として、再び近代史に登場する。明治維新関ヶ原の敗者復活の機会となった。”

宇喜多秀家関ヶ原合戦で徳川と戦った西軍総大将。関ヶ原で敗れた時、わずか二歳の秀家の男児を抱いて家臣のひとりが脱出、大分の宇佐まで落ちのびた。秀家の男児は後に大名・細川氏に仕えた。徳川天下では「うきた」とは名乗れず、ずっと「栗田」という名前で明治維新を迎えたということが、居酒屋であったひとから送られてきた資料で判明した、ということ。わぁ、、、、って、鳥肌立った。

 

上杉鷹山:「なせばなる、なさねばならぬ何事も、なさぬは人のなさぬなりけり」
内村鑑三の『代表的日本人』にもでてくる、米沢藩を立て直した人。

 

漱石の教え: 寺田寅彦が書き残している二つの教え。
 → 自然の美しさを自分の目で発見すること。 人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛すること。

 

・”日本人は地球上で最も「へその緒」を大切にする人たちである。 生まれた時のへその緒を桐箱に納め、一生大切にとっている。こんな習俗は日本独自のもの。”

しらなかった。そういわれると、あまりきいたことがない気がする。実家の母に、「へその緒」いらない?とよく聞かれる今日この頃。。。「いらない」、、、とひたすら繰り返している私。今でもへその緒を大切にするってあるのかしら?

 

・”江戸時代の素晴らしさは、この中世寺院のエリート教育から脱して俗世間に「庶民のための教育」を発達させたことである。”
中世までは、難解な漢文を自在に操るのは貴族か武士だけで、貧しい庶民は死ぬまで筆を持つことがなかった。寺でものを教えるのが始まったのは江戸時代。

 

拍手は教育のはじまり
 むすんで、ひらいて、手を打って・・・・♪ は、江戸時代からあったらしい。
拍手(かしわで)は礼儀作法の第一。 古代の日本人は、 神様だけでなく人間に対しても拍手をうっていた。むすんでひらいて、は、その第一歩。

 

・江戸の教育は、自由だった。そもそも、子供たちが一斉に先生の方に向いて教育を受けるのは、明治時代から始まった。
” 明治以降、黒板が登場し、先生が教えるものを子供がじっと座って暗記する、座学、つまりは「目と耳の学び」になった。 それが近代の学校というもので、 国家が国民に画一的な知識を一斉注入するのには、 これが効率が良かった。 しかし、 自分で勝手に何かやる 創造的な人間や 面白い発想は育ちにくい。”
渡邉さんの『共感の論理』に通じる話。

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・元来、この国の農村には「自治」の原型が備わっていた。みんなで話し合って物事をきめることを「衆議」といい、多数決のことを「多分之儀」といって、中世農村にはすでに物事を投票で決める伝統があった。
松元崇さんの『山縣有朋の挫折』に通じる話。

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・年号の「平成」は、幕末にも年号候補になったことがあった。孝明天皇の時代、「元治」という年号にしたら、武家が京都で戦争し、都が丸焼けになってしまった。それはまるで、平清盛らが「保元・平治の乱」で戦ったときの様だった。年号が、保元・平治から一文字徒ずつとったのが悪かった?!そして、年号を変えるということになったとき、「平成」も候補にあがったけれど、「平治」の「平」が入っていたので避けられた。

保元・平治の乱といえば、、、『後白河院

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・「八百長」の語源は、七代目伊勢ノ海親方(相撲取り)にある。八百長こと八百屋の根本長造が、伊勢ノ海囲碁仲間になって、野菜をたくさん買ってもらい、さんざん商売をした。そのうち、伊勢ノ海の相撲茶屋・島屋の株を買い受けて、大いに繫盛した。伊勢ノ海は、囲碁好きが高じて、とうとう碁会所をつくった。ある日、伊勢ノ海は、長造が囲碁の名手・本因坊と対戦をしているところを見学する。すると、自分と打つ時のヘボ碁と違って、長造が見事な碁をうっている。
「あのうそ打ちやろうめ!」
となって、八百長となった。

 

・結婚と離婚の日本史: 戦乱の時代は男社会を作りやすい。 日本史上、 男社会への転換といえば、 南北朝・ 室町期と 明治・大正期。 いずれも 日本人全体が暴力で生存を脅かされ 軍隊が強くなった時代である。平和な時代は女が強くな、 戦乱の時代は男が強くなる。 歴史はこれを繰り返してきた。

ぷぷぷぷ。ちょっと笑ってしまう。今は?平和な時代だろうなぁ。

 

・名づけのはなしで、磯田さん自身が「道史」と名付けられ、現実に史の道に入ってしまった、と。
”人間とは不思議なものである。 布切れ 1枚があってそれがハンカチだと言われれば手ふきに使うが、雑巾だと言われれば使わない。名前というのはかえって実際を支配することも確かにある。案外、名前はこわい。”


私は、「恵」というのが本名だ。「恵まれた子に育ちますように」というのが親の思いだったかもしれない。でも、私はいつのころからか「恵まれて育ち、他人に恵む人になりますように」っていうのが自分の名前なんだと思うようになった。あるいは、両親からそういわれたのか?記憶にはない。でも、「恵む側」になりたいと思うようになっていた。はたして、そうなれているかはわからないけれど、少なくとも、わたしは恵まれている。割と、自分の名前を愛している。

 

・日本で初めて蚊帳をひろめたのは、応神天皇らしい。 応神天皇は本名がホムダワケ。中国の歴史書宋書』にでてくる倭王(さん)と同一人物とも言われる。日本では「八幡さま」とも言われる。全国にある八幡宮は、この帝を祭った社。

 

実家では、鎌倉の鶴岡八幡宮に初詣に行くのが毎年のことだった。今でも八幡宮にいくことはあるけれど、祭られているのは応神天皇だったらしい。応神天王は、仁徳天皇の一代前、第十五代天皇

 

日本史好きなら楽しい一冊。初版が2013年なので、2025年の今には認識が覆されている歴史もあるかもしれないけど、マニアックな話が多いのできっと今でも十分楽しい。全国通訳案内士の勉強をしていなかったら、今でもチンプンカンプンだったかもしれない。やっぱり、いくつになっても学ぶって楽しい。

 

 

『源氏物語の女君たち』  by 瀬戸内寂聴

源氏物語の女君たち
瀬戸内寂聴
NHK出版
2008年8月30日 第1刷発行
*本書は、「NHK人間大学」において1997年4月~6月に放送された「 源氏物語の女性たち」の 番組テキスト、及びそれを元に作成したNHK ライブラリー 『源氏物語の女性たち』(1997年11月)、また、『〈新装版〉 源氏物語の女性たち』(2002年5月)を底本として一部加筆・修正し、改題したものです。

 

源氏物語を読み始めたところで、図書館の棚で目に入ったので 借りて読んでみた。

 

表紙の裏の袖には、
”『源氏物語』が 記録の上で確認されて1千年。
世界最古の大恋愛長編小説のストーリーを追いながら、 源氏が最も心を許した「紫の上」、 男を虜にする魅力の持ち主「夕顔」、 情熱的で官能的な「朧月夜」、 薄幸の美女「浮舟」など、 個性あふれる 女君たちのキャラクターを分析した格好の「源氏」入門書。”
とある。

寂聴さんの源氏物語はまだ読んでいないけれど、入門書として面白そう。

 

目次
はじめに
第1章  紫式部について
第2章 桐壺の更衣藤壺の女御
第3章 葵の上と紫の上
第4章 六条御息所
第5章 夕顔
第6章 空蝉と末摘花
第7章 朧月夜の君
第8章 明石の君と玉鬘
第9章 女三の宮
第10章 雲居の雁と落葉の宮
第11章 宇治の大君と中の君
第12章 浮舟

 

感想。
なるほど、そういうことか、と面白く読んだ。確かに、入門書として読みやすかった。かつ、まだ、角田源氏の第二巻までしか読んでいないけれど、そこで、ここに取り上げられた多くの女性はすでに登場している。ふむふむ、という感じ。六条御息所は、夕顔だけでなく、葵まで呪い殺してしまう・・・・。でも、寂聴さんは、六条御息所をただの悪女とは書いていない。面白い。

 

ちょっと、覚書。
紫式部: 
父は藤原宣孝のぶたか)・受領。母は藤原為信(ためのぶ)の娘。父母の家系はそろって摂政太政大臣藤原良房の兄弟を祖先にする名門。藤原道長にスカウトされて、道長の娘・中宮彰子(しょうし)の女房として宮仕え。
京都市上京区寺町の「蘆山寺」が生まれ育った邸と言われている。そのあたりを、「帚木」「空蝉」の舞台としたのではないか。

 

・物語は、あくまでもフィクション

 

桐壺の更衣:光君の母。更衣とは、後宮の女官の役職で、天皇の寝所に仕え、お召し物の着替えのお世話をするのが仕事。平安時代後宮には皇后、中宮、女御がいて、その下に更衣。皇后、中宮は同じ資格で、先に皇后がいれば後から立后した人は中宮と呼ばれる。

 

弘徽殿の女御:清涼殿にもっと近い弘徽殿を与えらえた女御。源氏物語では、右大臣の長女で、第一皇子を生んでいる。

 

藤壺の女御桐壺の更衣の死から7年がたち、光の君が10歳の時に、帝は亡き桐壺と瓜二つと言われる姫君を後宮に迎えた。この姫君は、先帝(桐壺帝の兄)の忘れ形見でまだ15歳。局は飛香舎、藤壺が与えられたので藤壺の女御。

 

葵の上左大臣の姫君。源氏の君の妻。東宮からも后として所望されたが、それを断り、桐壺帝の願い通り、光の君と娘を結婚させ、左大臣は光の君の後継人にさせることを選んだ。
平安時代、貴族の社会では、親が娘の婿選びをするのは正常なこと。プライドが高い、姫君。源氏との間に男の子、後の夕霧を生む。懐妊中から物の怪に苦しみ、夕霧を生んだ後に亡くなる。葵の上にとりついた物の怪は、六条御息所。結婚生活は10年、26歳で亡くなる。光源氏が結婚したのは12歳。当時、姉さん女房が一般的。。

 

六条御息所:源氏の数多い愛人の中でも、格別に身分が高く、教養深い美人。源氏の7つ年上。

 

紫の上(若紫):葵の上の死後、光君と結婚。源氏18歳の時に病気の加持祈祷を受けに行ったさきで出会った紫の上は、まだ10歳の幼女・若紫。藤壺に似ているので、源氏は自分の二条院に誘拐してくる。若紫は、藤壺の女御の兄・兵部卿の宮の亡妻の娘。源氏の元で育った若紫は、14歳で、源氏と結婚。

 

夕顔:源氏17歳の歳、ラブハントに明け暮れていた時代の相手。惟光(これみつ・乳母の息子・腹心の家来)の家に行く途中で、目にする。実は、頭の中将の昔の女。二人の間には、行方知らずになっている女の子(玉鬘)がいる。夕顔も又、怨霊で死んでしまう。

 

空蝉:源氏の家来筋当たる伊予介の妻(若い後妻)。伊予介の息子の紀伊守の屋敷でみつけ、興味を持ち、いいよる。もう一度会おうとすると、女はするりと逃げ、その衣だけを残していった。

 

末摘花:不細工ちゃん。源氏のことを信じ続けた無垢な女。

 

朧月夜の君:源氏との出会いは、源氏20歳の時。弘徽殿の女御の妹。右大臣の娘。不倫がばれて、源氏は須磨へ。

 

・「賢木」は、藤壺の出家、右大臣邸での源氏と朧月夜の密会が描かれる。

 

・明石の君:須磨に自発的流刑、都落ちをした源氏が明石でであった女。明石の変わり者入道の娘。紫の上より1つ年下。源氏の子を身ごもったあと、源氏は京へ戻る。実は、明石の入道は、桐壺の更衣の従兄妹。

 

・源氏が帰京した翌年、朱雀帝は11歳の東宮(実は、藤壺と源氏の子)に譲位し、源氏(29歳)は内大臣となる。源氏は、明石の君を京へ呼び寄せる。そして、生まれていた明石の子を、紫の上に育てさせる。紫の上は、子供を生んでいない。

 

玉鬘:夕顔の忘れ形見。夕顔亡きあと、乳母に引き取られ筑紫で20歳までを過ごす。背徴するにつれて母譲りの美しさが匂うばかりに、求婚者が後を絶たない。乳母の長男・豊後介が乳母と相談して密かに玉鬘をつれて都に逃げる。途中、行き倒れそうになったところで、宿で、夕顔と共に行方不明になっていた右近と再会。右近からこの話を聞いた源氏は、玉鬘を六条院に引き取り、花散里の君(麗景殿の女御の妹)のもとに預ける。


・『源氏物語』54帖。第一部「桐壺」から「藤裏葉」まで33帖、第二部を「若菜」から「幻」まで8帖、第三部を「匂宮」から「夢浮橋」13帖。とするのが一般的。

と、「第9章 女三の宮」より先は、まだ本編を読んでいない人たちの話がメインになってくるので、ざっと読みにした。本編を読み終わったら、また、読み直してみたい本。 

 

しかし、ここまでで、主な女たちはほとんど出てきた。いまなら、『あさきゆめみし』も、さらさら読めそうな気がしてきた。いやいや、まずは、角田光代現代語訳を通読してみよう。

 

 

 

『共感の論理 日本から始まる教育改革』 by  渡邉雅子

共感の論理
日本から始まる教育改革
渡邉雅子
岩波新書 
2025年9月19日第1刷発行

 

2025年10月18日 日経新聞朝刊の書評 で紹介されていた本。 気になったので図書館で借りて読んでみた。予約してから、1か月くらい順番を待った。
記事には、
”副題は「日本から始まる教育革命」。世界各地で戦争や紛争が起き、経済格差が広がり、気候変動や生態系の破壊が進むなど近代資本主義や科学の枠組みそのものが転換を迫られている時代。著者は個人主義・利己主義的な価値観から利他主義への転換を主張する。その思想を育てる要となるのが、日本の「感想文」にあるという。他者の苦しみや悲しみに共感し、手を差し伸べることができる教育を説く。”
とあった。

 

タイトルだけみると、ただの「共感」に関する心理学の本かと思ってしまうが、教育改革につながる話だという。岩波新書だし、と思って読んでみた。

表紙の裏には、
”五感を働かせた体験に基づいて感情を伝え合い、共感を育む日本の国語教育は、世界から遅れた弱みではなく、AI時代にこそ強みとなる。人間と自然の関係を結び直し、共感的利他主義をベースに政治・経済・法・社会の多元的思考を使い分け、他者と協働する力を養う。価値観の転換を迫られる世界で求められる教育がここに。”
とある。

 

著者の渡邉さんは、コロンビア大学大学院博士課程修了。Ph.D.(博士・社会学)。東京大学社会科学研究所国際日本文化研究センターを経て、現在―名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授。日本学術会議連携会員、日本教育学会理事、日本教社会学会代議員を務める。専攻─知識社会学、比較教育、比較文化。『論理的思考とは何か』(岩波新書,2024年)などの著書あり。

 

目次
はじめに――社会と教育の大転換

序 章  近代の矛盾とポスト近代の価値観
 1 近代の特徴――四領域の機能の分離
 2 近代社会の問題――肥大化した経済領域と資本主義
 3 近代の矛盾の核心――自然と切り離された人間
 4 新パラダイムの社会像――近代の矛盾を超えて
 5 ポスト近代の価値観とは――利他に基づく「少ないほうが豊かな社会」
 6 ポスト近代へのスイッチ――西洋近代資本主義と日本型資本主義

第一章  四つの教育原理――教育文化のモデル
 1 教育の世界的潮流――その隠れた課題
 2 教育の四つのタイプ――教育の目的と手段

第二章  共感の論理――社会原理の日本の教育
 1 作文教育の隠れたカリキュラム
 2 伝統的価値はいかに守られたか
 3 なぜ日本の社会と教育が新パラダイムのモデルになるのか
 4 多元的思考の必要性

第三章  教育のグランドデザイン――利他と多元的思考を育む
 1 新パラダイムリテラシー(読み、書き、思考する力)
 2 リテラシーと社会化
 3 文章様式による段階的作文教育
 4 段階的読解教育
 5 日本の来歴を知る――文化資源としての知識
 コラム 文章の目的と様式を意識させる訓練

終 章  日本から始まる新しい秩序――利他と多元的思考が拓く未来
 日本の教育への三つの提言

 おわりに
 参考・引用文献リスト

 

感想。
すご~~く、面白かった。
これは、すごい本だ。
日本のこころの源流」について勉強会を続けている私にとって、一つの答えの提案でもあった。小学校での「感想文」に始まる日本の作文指導は、他国にない「社会原理」を学ぶための基本になっているというのだ。

はじめに~序章で、近代の社会の歴史とその価値観の変遷、新自由主にはじまる個人主義能力主義、そして人々の孤立と対立、ポスト近代はどうなっていくべきなのか、という本書に必要な考え方の背景が十分に語られている。

最初の方は、社会学の様相もある。読みながら、著者は相当賢い人だ、と思った。知識の量ということではなく、時系列という縦軸と、グローバルに広がる横軸の展開と、双方を俯瞰し抽象を捉え、読み手にわかりやすく説明している。時々、四象限、あるいは表にて全体像を更にわかりやすくまとめてくれている。

 

社会の見方の切り口が、教育原理についても展開されるのだが、先に近代社会の特徴を4つの特徴に切り分け、それが教育にも反映されているという話につながる。
言われてみれば、そもそも教育というのは、その国がつくりたい国民をつくるのが役割なわけで、社会の原理(価値観など)が教育に反映されるのは当たり前のことである。戦前なら、国に尽くす人だったわけだし、戦後には「経済復興」に役立つ人が求められた。ただ、「経済」に価値を置いたとしても、「経済発展」に何を求めるかによって考え方は異なる。
儲けなのか、社会貢献なのか、利他か私利か‥‥。

 

そして、近代社会の特徴を
規範:世俗化=脱宗教
経済:資本主義=脱自給自足経済・脱ギルド
政治:自由主義・平等原理=脱封建制・脱絶対王政
社会:機能的分業=脱身分制秩序
の4領域でみて、どこに重点を置くかが国によって異なっているという。

そして、教育は、
横軸:体系的知識 ~ 経験的知識
縦軸:技術目標 ~価値目標
四象限にきりわけ、どこに重点をおくかによって、教育を

経済原理:経験的知識+技術目的
政治原理: 体系的知識+価値目的
法技術原理: 体系的知識+ 技術目的
社会原理: 経験的知識+価値目的
としている。

それぞれ、代表的な国をあげて、
経済原理:アメリ
政治原理:フランス
法技術原理:イラン
社会原理:日本
と、具体例と共にまとめている。ディベート教育を初等教育から始めるアメリカ、フランス革命の歴史を重んじ哲学的問答を学ぶフランス、神の真理を通じて世界を理解しようとするイラン、そして共感力と他者の視点を理解することで縁起的自己を目指す日本。さもありなん。

本の内容もとても興味深いけれど、私は、著者がどんなことを経験してきた人なのか、ということの方が気になってしまった。相当な研究と経験との積み重ねがないと、このような俯瞰にはたどり着けないと思う。

 

そして、近代の社会問題の多くは、「人間」を「自然の一部」と考えなくなった西洋的思考によるところがあり、、産業革命のような物質的な革命ではなく、「人間は自然の一部」と考えるアミニズム的思考によって「認知革命」を起こすことが求められているのではないか、と。

これまでは、大量生産・大量消費のための技術的、物理的革命が求められてきたけれど、これからは、身近な言葉で言えば「ウェルビーイング」「幸せ指標」を何にもとめるかという考え方、認知を代えていく必要があるのではないかということ。

 

これまで、脱成長とか、コモンが大事といわれれば、そりゃそうだけど、、、と、なにかしっくりこないものがあったのだけれど、著者の主張はとてもわかりやすいし、なるほど、と納得してしまう。経済学者ではなく、社会学者だからなのか?

なんにしても、読んでよかった。
世界の見方に、目からウロコのことがたくさんあった。

 

ちょっと、覚書。

石田梅岩渋沢栄一などの社会の見方、心学について。
”… しかしながら、 西洋資本主義と異なるのは、西洋の近代社会が「個人主義」と「合理的経済人」としての利己主義を認めるのに対して、心学においてそれらは人間の存在根拠となる宇宙の摂理に反し、人々の幸福のもととなる和合を妨げて社会秩序を乱すものとして厳しく排除されなければならないとされた点である。「正直」を貫くということは、必然的に 利他主義となることである。「正直」に基づく利他の表れは、利潤よりも安全や使いやすさを重視した日本のものづくりや客への奉仕を第一にするサービス業、企業利益よりも社会的な利益をまず優先させる 多くの会社の理念となって現代にも引き継がれている”

「正直」とは、「本当のことをいう」という意味ではなく、「私欲」の無さを意味する。

 

・” 私たちが 現在進行形で経験しているパラダイムシフトは、モノ/物質ではなく、認識/情報の世界でおこることなのである。”

 

・ 国際機関 が提唱する社会と教育の変化
「経済発展」 → 「人間中心」

 

・ ”教育は 環境か影響を受けるが、 何を「対応すべき環境」と定めるかによって、自らの選択に沿った教育を作り上げることができる。”

 

・ 教育を一貫性のある一つのシステムと考えるならば、 教育の本質は「手段」ではなく、教育の「目的」にあることがわかる。

 

学校教育における、作文の意味。
 1  個人の認知の方を形成する(情報の編集と構成法の規範を示す)
 2  社会規範を教える( 適切な感情と自己表現の方法)
 3  能力発揮の方法となる( 知識を能力に変換する装置となる)

 

・ ”社会原理を体現する日本の感想文は、序論で書く対象の背景と書き手が対象に対して持っていた 感想を書き、本論で対象を通した書き手の体験を述べ、結論で体験後の感想を述べる。体験の前後での書き手の気持ちや考えの「変化」を感想という形で述べさせるのは、体験を通じた通した自己の成長の軌跡を描かせ、その体験を今後どう自己の行為や生き方に生かすのかを考えさせる目的があるからである。”

作文嫌いだった私は、そんな風に教わった覚えがない・・・・。

” つまり 自分の生活や生き方と どう関わるかという視点を持つことが重要である。 感想文で期待されているのは、個人の体験・感情・生き方を社会の構成員である他者と共有しうる 「共通感覚」として表現すること、つまり「間主観」ー個々の主観が他者との相互の修正を経て、複数の主観の間の一致をみることー の表現として提示することにある。”

 

・日本の社会原理のように「自然の一部としての人間」という自然観をもとにした「利他主義」と、経済原理・ 政治原理・法技術原理にみられる「自然と切り離された人間」という前提をもとにした「利他主義」は、その目的や手段の合理性に大きな違いがある。
社会原理以外の原理がそもそも 個人主義や利己主義を土台にしているという、根本的違いに、多くの人が気が付いていない。

 

・「囚人のジレンマ」から学べるのは、 利他主義が前提となると、全体の利益の最大化が自然に達成できるということ。

 

・”論理的に思考するというと、結論先行のアメリカ式 エッセイが唯一無二の方法のように受け止められている。 それは近現代においては、経済が支配的な価値観だったからである。

 

・ ”昔からしつけは「つ」のつくうちにと言われている。 それは「9つ」以降の数には「つ」がつかないことから、 生涯にわたって常に発動可能な道徳と価値観を身につけるには、9つまでにそれを教え込まないと手遅れになるということである。 道徳/価値観を「内面化」するということは、誰も見ていなくても、罰則などがなくても、価値観に沿った行動が自然に取れるようになることを指す。”

 

・”体験を重視する日本の教育では、 感想文を書いたり詩や俳句を作ったりする時に、 まず 体験してからその実感を綴らせる教育が中心だった。 特に小学校のおける実感重視の書く教育は、「見たまま、聞いたまま、 実感を綴る」 綴り方の伝統を伝え守るべきものとして意識して行うことが推奨される。なぜなら、子供たちが物事を判断する際に、自分の実感や感情を判断のよりどころとする力を養うことにつながるからである。”

感想文を書いたり、作文することに「判断のよりどころとする力」を養うという意味があったとは…。子どもの時、私は、感想文や作文が大嫌いだった。自分の意見を、表現するのが下手だったからかもしれない。

 

・”五感を通じて得られる実感を重んじる姿勢は、 機械化が進んだ 工場の現場でも見られる。 日本の製造業では、 製品を仕上げる際に、 その日の天気や気温、 湿度などを考慮しながら、 人の目や手の感覚によって繊細な機械調整を行う。 こうした 経験値に基づく職人の技は日本のものづくりの伝統となっており、先端技術の粋を集めた分野でも、 他国では真似できない 独自の製品を生み出している。”

 

・ 経験的知識を重視している日本の教育では、本質的な要素のみを取り出して概念化するということは、意識して行われることが少なかったアプローチ。「概念化」については、高等教育の小論文などで、少し学ぶ程度。 しかし 抽象化によって多様な事象やテーマに適用可能となる考え方を学ぶことも大事。

 

・” 高等教育は社会の変革を起こす新しい考えや発見が提案された時に、それを理解し受け入れる 一定の層、少なくともそれに慣習的・因習的な考えから反発しない市民層を創ることが目的の一つである と指摘されている。”

 

・” 小学校の低学年から分析的、論証的な読解を求めることには慎重であるべきだと提言したい。なぜなら、それは子供の利他の社会化を妨げる可能性があるからだ。 小学校ではまず 情緒を介した共感による読解をたっぷりと行い、 他者への思いやりを育むことに重点を置くことを推奨したい。 そして中学校に進む段階で、テクストを証拠に分析的に読む方法へと移行していく。このように、年齢や発達段階に応じて異なる読解の技術を身につけることは、多元的な思考力を育てる第一歩となり、具体から抽象へと思考の発達を導く。”

 

・教師の不足、多忙が社会問題となっている中であっても、各段階での教育の目的やその息を教師が共有する必要がある。
”俗にVUCAの時代と言われる現代は、複雑、不確実、不安定、曖昧といった流動性や予測困難性ばかりが強調されるが、そうした時代をどう生きるのかの指標を教師自身が持たないで教育実践ができるだろうか。”

 

実に内容の濃い「日本の未来」をつくるための提言の本だった。 

私は教育関係者ではないけれど、受験対策ではなく、真の教育を考えるならば、必読書といってもいい。「作文」にその解をもとめなかったとしても、意味ある一冊。

著者の抽象化力は、半端ない。これぞ、抽象化と具体化の実践という一冊。お薦め。

 

最後に、著者から日本教育への三つの提言

提言1:共感的利他主義という価値観の共有が社会の基盤を築く

提言2:利他の価値と多元的思考を段階的に育てる

提言3:日本の教育が新たなパラダイムをつくる