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あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記
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[あけてくれ]

●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。

●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。

●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。

●敬称略。

●おしゃべりがどうしても治りません。

●リンクは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。

●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。

●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。危険です。

●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。

●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。

●こんな日記を読むより、最上の日々最尤日記の方をお勧めします。


始末書詫び状領収書の書き方をお探しの方ははてなアンテナの質問を参照してください。

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2004年11月30日(火)

今日の頭音:「Close to you」カーペンターズの(Key=Ab)

いっとき流行った(いい大人がなぜか皆回答に苦しんだ)「なぜ人を殺してはいけないか」の回答

紹介ばかりで申し訳ないけれど、はまっているのでご勘弁を【露骨に手を抜くおれカネゴン】。シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)。カネゴンは、色川武大の「どんなことにも終りがある」という金言に従って(1)ではないかという気がする。なおこれと同様の論旨は三浦先生の著書にも収録されている。以下は戯言です【オール戯言おれカネゴン】。

ということは、この世というシミュレーションを司る神の存在は否定しきれないということにもなったりしないだろうか。VirtualPCやVMWareで既にご存知のとおり、シミュレーションの中で別のシミュレーションが実行されることはまったく問題がない。コンピュータの中で起きていることがまったくの虚構だとロマンチックに考える人も既に相当減っているだろうし。最終結論はもう少し待った方がよさそうだけど、もしかすると論理を辿っていつの間にか神にたどり着くという凄いことになったりしないだろうか。カネゴンとしてはそっちの世界で停電が起きないことを願っています【ぱっと消えるはおれカネゴン】。

有名な「government of the people, for the people, by the people」の「of the people」の解釈がこれほど揺れているとは知らなかった。昔天声人語か何かで、of the peopleとは「人民に責任があるという意味だ」とも書かれていたような覚えが。もとが語呂合わせというのもあるけど何とも人騒がせ。見方を変えれば、これほどまでに注目され、解釈が揺れまくるというのはこの言葉が生命を持っているということなのかもしれないけど。論理記号とかを導入してその揺らぎを完全に除去してしまったら、案外あっさり死んでしまったりして。

人形は顔が命だけど、いい加減であることこそが言葉の生命の源だったらどうしよう【どうもせぬとはおれカネゴン】。

嘘をつくと脳がフル回転。この間(2004.11.20)日記で適当に書いたことが的中というか、ナンバーズで小当たりが来たような心持ち【増長するとはおれカネゴン】。ボケ防止のためにありとあらゆる嘘をつきまくる健康法がそのうちあるある大事典あたりでもっともらしく紹介され、日本全国津々浦々まで大小さまざまな嘘で満ち満ちて「日本人はみな嘘つきだ」という命題が真に見えてしまうその日が来たらたいそう暮らしやすくなるだろうか。

2004年11月28日(日)

今日の頭音:「Someday」佐野元春(Key=C)

頭音は好き嫌いに関わらず鳴ってしまうのがつらいところ。

三浦先生の「心理パラドクス」を読み終る。カネゴンの理解が及ばない箇所も多々あるけれど、やはり激しく面白い【活用できぬおれカネゴン】。

心理実験の結果から、もしかすると言語によって考え方が違ってくる可能性があるらしいことがわかってきたとあった。同一人物でも、たとえば英語で考えたときと中国語で考えたときで違う回答をする傾向があったりするとか。従来の心理テストは、圧倒的に欧米で行なわれていることが多いため、もしかすると欧米言語ローカルの特性に過ぎない心理がうっかり全人類共通の心理と誤って解釈されている可能性があるらしいとも。ご多分に洩れず、心理実験によっては男と女で回答の傾向が異なることがあるという結果を発表したところフェミニズム方面から怒涛の苦情が来たらしい。

本書の最後にあった「論理学>数学>物理学(2ch風)」という主張はやはり論理学者ならではなのかもしれない。何だか附に落ちなかったのは、「論理学>数学」が本当に成り立つためには、集合という恣意的な存在を頭ごなしに認める必要があるという点。論理学では「集合が実在すること」はなぜか前提におかれていないそうだ(論理学のベースに集合論を組み込めばあらゆる数学を生み出せることは確認されているらしいけど)。なので一般には「数学>論理学」という意見の方が主流らしい。集合のどのへんが恣意的なのだろう。

と書いてみて、「恣意的」の意味がカネゴンよくわかってなかったことに気付いたので調べると、「その場の思い付きの」、最近だと「都合よく作り出された/判断された」みたいな意味らしい。言葉の意味はわかったけど、先生の意図が今一つ読み切れない。うう。

2004年11月27日(土)

今日の頭音:「Baby's in black」Beatles(Key=A)

三浦先生の続巻「心理パラドクス」を書店で見つけて衝動買い。まだ読み終っていないのだけど、心理というよりはむしろ論理となかよしペアであるところの「倫理」に突入しているように思える。

その中で「進化論が正しかったら、そのせいで道徳が滅びるだろうか」というある意味ホットな議論が行なわれていた。結論としては「決してそんなことはない」とのこと。利己的な要素を含む進化それ自体はランダムなものだが、利他を尊ぶ道徳はそれとは別物で、道徳は目的を持った体系だからだとのこと。リチャード・ドーキンスすら「科学者として私はダーウィン主義を支持するが、人間の諸問題については逆に反ダーウィン主義で対応しなければならないと思うしそれを熱烈に支持する」と主張しているらしい。この本では「事実(進化)と価値(道徳)はそれぞれ別の判断が必要であり、混同してはならない」と再三注意している。一歩間違えば果てしない泥沼に陥りかねない議論に勇気を以って斬り込んだ、大変に天晴れな主張。

かのすげこまくんにおいても、「遺伝子が自分に命令するから(松沢先生を襲うのを)やめられない」と泣きながら主張する(そして激しくツッコまれる)シーンがあったけど、あれは、カネゴンたちにありがちな論理と価値観の混乱を見事にシミュレートしていたと今更ながらに思う【五里霧中とはおれカネゴン】。

そしてその議論の延長として、「自然なもの」だから「善」であるという自然主義の主張は、事実と価値観を混同した結果であり、論理の混乱であると一刀両断していた。これは奇しくも、色川武大と同じ結論だったりする。三浦先生がカイジを愛読しているらしいことは前回日記に書いたけど、カイジの作者である福本もある意味阿佐田哲也の子供たちの一人みたいなものなので、無理矢理ながら何となく因果のめぐりを感じてしまう。

2004年11月26日(金)

今日の頭音:「Lazy Bird」Woody Herman(Key=G?)

本日の仕事は休み。

中野監督の鋭い直観。やはり善意はしくじったときの被害が最も大きいのだろうか。

先日CATV(おそらくディスカバリーチャンネル)で、何年前だかわからないけどオーストラリアのアボリジニの子供たちが入植者たちによって強制的に親から引き離され、彼らが言うところの野蛮な文明を排除することによって文化的な生活を集団で強要されたというドキュメンタリーをやっていた。昔社会科で習った白豪主義ってこれのことなのだろうか。これはこれで一つのプロパガンダなのだろうけど、「ここ(集団キャンプ)にいる間、私たちはずっとみじめでした。」と語ったキャンプ経験者の苦悶に満ちた表情が忘れられない。と同時に、もしカネゴンが彼らに接したときに果して上から見下ろすことなく対等に接することができるかどうか甚だ自信がなくなってきた【隙さえあればおれカネゴン】。ある英文法の教科書の例文で「ナチスの連中は、一人一人はとてもいい奴らだった。歴史を回想する中でしか彼らにおぞましさを感じられない。」というのがあったけど、相手がオタであろうと秋葉者であろうと何であろうと、個々人を一括りの集団として扱う時点で誰もが罪を免れないのだろうか【A級戦犯おれカネゴン】。その一方、集団としてひとからげに扱うと圧倒的に思考を節約できてしまう以上、こんな便利な方法を皆が放棄するとも思えないし、誰もが心の中に多少なりとも奴隷根性を忍ばせていて自ら積極的に集団に帰属しようとする(それによって集団が現実になる)現象がある以上、どうにもならないのだろうか。カネゴンそろそろわけわからなくなってきました【よるべないとはおれカネゴン】。

2004年11月25日(木)

今日の頭音:「ラヴィ!」(Key=Gm)

順調に日記が減少中【土日祝日おれカネゴン】。

前回の恥ずかしい日記を早く下に送らねば。焦ると出てこない。

何となくNHK BSをつけていたら、上水道の流れを利用してちゃっかり電気を起こすマイクロ発電機が紹介されていた(浄水場とかに設置するらしい)。今までどうしてこれに気付かなかったのだろう【後出しジャンケンおれカネゴン】。これまではコストの問題で実用化できなかったらしい。トイレのコックに取り付けて、流した水でちょろちょろと発電するダイナモも紹介されていて、一台13万円は高いか安いか。男子トイレの朝顔に一斉に羽車が取り付けられるのはいつの日になるか【飛び散りまくるおれカネゴン】。

そのまま続けて、顧客の社員をサンプル抽出して1/10秒単位でカメラで逐一監視し、どこに仕事の無駄があるかを細かく調べ上げて生産性を向上させるというビジネスが紹介されていた。それを請け負っていたのがソフトウェアの巨人で、小さなことからコツコツとというよりビッグブラザーセンス爆発。ちょこまかと落ち着きないことこの上ないカネゴンがサンプリングされたらきっと惨たんたる結果になりそう。

カネゴンの勘違いでなければ、個別のノウハウは別にして、何が生産性を向上させるのかという一般的な解決はどうもないらしい(あったら皆飛びついている)。クルーグマンの本で唯一覚えているのが、生産性の向上はとても重要なのだけど、そのために何をしたらいいのかは本当にわからないらしいということ【そこまで止まりのおれカネゴン】。カネゴン自身は、生産性はいったいどこまで向上してしまうのか、皆はどこまで向上することを当てにしているのかが昔から疑問なのだけど、これまたわからない。10万年に1秒しか狂わない時計が10万年ノンストップで動くわけではないと思うのだけど、皆はどこまでリニアに期待しているのだろう。

手元の資料によると、カネゴンが常日頃こういう使える人になりたかったとあこがれるシュペーアは、軍需大臣就任直後から資材の調達・開発・生産までを一元化し、軍や党の関与を排除して合理的に再編成したことによって生産性を飛躍的に向上させたとある(1942年を100とすると1944年7月には322)。数値の信憑性は知らないけど、生産性というとついこのことを思い出してしまいます。

ブギ浮きイカす邦題100選。カネゴンが中古レコードで買った「太陽と戦慄」のジャケットは、いったいどういう経緯か、十分に使い古し脇の下が黄色く染まった柔道着そっくりの物凄い臭気を発していて、あの音を思い出すと必ず連想再生されてしまう【突然悶えるおれカネゴン】。

2004年11月22日(月)

今日の頭音:「俺たちは天使だ」SHOGUN(Key=C)

日記のルールも人それぞれであることを知る。カネゴンの場合どうなのだろう【猪口才なるとはおれカネゴン】。

  • 基本は「だ・である調」なのだけど、恥ずかしいので「だ・である・のだ」は使わない。
  • ときによって、あえて「です・ます」もほんのりと混ぜる。
  • 週刊新潮の吊り広告みたいな体言止めはそう言えば使ったことなかった。
  • 先祖の言葉を書き過ぎないようにする。
  • 「てにをは」をよく間違えるので、特に注意。
  • 文と文との意味上のつながりはもはや自らに期待できないので、せめて一つ一つの文はまともなものにする。
  • 一つの文が長くなりすぎないようにする。
  • 係結びを遠くの場所に結びつけない。
  • 書いてアップロードしてからもどんどん直す。一週間経過してから直すことも。
  • 自他ともに個人情報には触れない。
  • なるべく濁して書く。断定しない。
  • 自分が説明できない言葉(現代思想系など)は使わない。相当かっこ悪くても自分で解きほぐした言葉だけを使う。カネゴンがどこを勘違いしているかが読んだ人にわかるように書く。
  • 調子に乗って形容しすぎない。
  • 見栄をはらない。恥ずかしさに負けない【負けてもよいぞおれカネゴン】。
  • 話し言葉とは相当かけ離れているけど気にしない。
  • 書こうと思って忘れた話の方が圧倒的に多いけど気にしない。
  • 一つのパラグラフに全然違う話が混じったりするのはさすがに気になる。
  • 気に入らなかったら何度でもボツにする。忘れた頃に再挑戦する。
  • つい説明が面倒でリンクで済ませたり何も説明しなかったりする。
  • 落ち込み系の話は20年経過するまで書かない。
  • フォントいじり・色変更は、ごくまれにのみ行なう。ナニワ金融道における見開き2ページの使用頻度ぐらい(全話でたった1回)。いずれにしろ、中野監督ぐらい芸達者でないとなかなかキマらないのは確か。
  • 訃報の背景は黒にする。

世界英語聖書 (WEB) FAQ。前にも書いたような気はするのだけど、いろいろと著作権が絡んで大変であるらしい。「ジェームズ王欽定訳至上主義」という尊皇攘夷みたいな響きの言葉を初めて知る。

アルカロイドとは何なのか、今までぼんやりとしか知らなかった。カネゴンが小学校の頃、たまたま持っていた朝日新聞社の少年少女理科年鑑にたまたま毒草の特集があって、繰返し読んでたばかりにそればかり覚えてしまったことがあった【ろくなことせぬおれカネゴン】。ところでこの年鑑、その後「少年朝日年鑑」となったり「朝日ファミリー理科年鑑」なったりところころと名称が変わり、紛らわしいことおびただしい。

書評:お金には正しさがあるか。現代思想みたいな本を読もうという気には未だなれないけど、デリダという人の主張をこうやってコンパクトにまとめてもらえると何ともありがたい【ショートカットのおれカネゴン】。ここからカネゴンが勝手に読み取る限りでは、やっぱりイデア論は有害だったのだと思わざるを得ない。美味しんぼを読むまでもなく、「どこかに本物(イデア)がある」と思い込む限り、今目の前にあるものはすべて偽物扱いされるというか。目障りと思えるものをきれいさっぱり排除した理想社会を追求することは実ははじめからやり直したい症候群と変わらないというか、「今あるものをどうやって改良するか」というエンジニアっぽい取り組み方とは思った以上に距離があるのかもしれない。

「お金から自由になりたいからお金が欲しい」というのは確かにある。お金そのものについては、大昔にカネゴンが読んだ異星の客(Stranger in a Strange Land)という小説で「お金は、うまく使えば正しいことに役に立ちます」と当たり前のことをさらっと言ってのけていたことに驚かされたことがあり、以来カネゴンの中でそれが基本周波数となっている。同時に作者のハインラインが紛れもなく関西人の心を持っていることを改めて確信。田辺聖子訳のハインライン希望。

2004年11月20日(土)

今日の頭音:「少年時代」井上陽水(Key=Bb)

本当に久しぶりに秋葉原に寄ったら、駅構内の工事がやっと終ってかなり広々としていた。駅ビルでつい本を衝動買い。

その後、深夜浅草橋某所にて、映画の撮影を突然に見学。カネゴンもかなり緊張しながらビデオの録画スイッチを押したりした【間違えそうなおれカネゴン】。目の前でプロの役者が演技している姿はやはり迫力。

どうして嘘をつくと心が苦しくなるのだろう。これまでの経験からして【経験豊富なおれカネゴン】、嘘をつくそのこと自体より、そのために辻褄を合わせ続けないといけない(かつ、それが嘘であることを常に忘れないようにしていないといけない)ことの方が遥かにつらいような気がする。自分の記憶、知識、行動すべてについて、それが自分の嘘にマッチしているかどうか、他のことと矛盾しないかどうかをいちいち照らし合わせないといけなくなってしまう。人間の場合そのプロセスは自動化できないので、嘘をつくことの心苦しさとは、情報処理能力がアップアップしてしまった結果なのだろうか。

よく「オブジェクト指向プログラミングは人間の思考に似ている」みたいなことを言われるけど、それになぞらえるなら、嘘をつくということはベースクラスを書き換えて処理の重たい初期化メソッドを大多数のオブジェクトにうっかり追加してしまったような状態なのだろうか【生兵法とはおれカネゴン】。ということは、辻褄の処理能力がなまじ優れているハイパースレッディングな人は平気で嘘をつき通せたりするのだろうか。

逆に、方便として嘘をつく場合(家族がガンを本人に告知しないなど)、そのために処理能力上の苦しさが生じることによって、嘘をつく側自身の苦痛が軽減されるということはあるかもしれない。方便のために苦しみを引き受けたということで、気持ちが清算されるというか。

よほど単純な人でない限り、誰しも自分の中にたった一つしか秩序の体系がないということはなく、普通はいくつもの秩序を心の中に抱えていて(根っ子はつながっているかもしれない)、場合によってそれらを都合良く使い分けている(=ある秩序で矛盾が生じたら別の秩序にちゃっかり切替える)らしい。でないとテレビドラマを見るたびに全部本当のことだと信じて大騒ぎしてしまうし、映画で人がたくさん殺されるところを平気で見られるはずがない。ところでそういう使い分けが逆に災いしてしまったりすることはないだろうか【災いしたとはおれカネゴン】。

どんなヤクザでも「筋目に合わない」ことを最も嫌うし、「こうなったのは○○人が悪い」みたいに劇的に思考を節約することは広く見られるので、みんな基本的に嘘をつくことが好きではないしオッカムの剃刀が大好きであるということでいいのだろうか【まとまりないとはおれカネゴン】。

一慨に言えることではないのだけど、縄文時代の昔から営業職と技術職は何かと対立することが多い。一慨に言えることではないのだけど、広い意味での技術職風の気質の人は、ある秩序の一貫性を重んじることが多く、こういう風に秩序をその場の都合に合わせて素早く切替えるということが得意でない(または重視しない)人が多いような気がする。将来、営業職の面接の場で面接者に何らかの嘘をついてもらい、それについていかに素早く辻褄を合わせて滔々と弁舌できるかどうかで能力を測るようなことがあったらどうしよう。

Word Spyは英語の流行り言葉の定番データベース。後赤ちゃん言葉辞典【赤ちゃん野郎のおれカネゴン】。

scholar.google.com。説明不要な感じ。

三浦先生の論理パラドクスベルトラン(Bertrand)のパラドックスというのを初めて知り、今更驚く。問題の捉え方次第でこうまで答が変わってしまうことがありうるとは。先生によれば、「無作為」の範囲が曖昧であることがまずいのだろうとあるけれど、(問題文を変えない場合)完全な解決はまだ得られていないらしいとも。本田先生言うとおり、確率は思った以上に取扱要注意であることを痛感【今日も背伸びのおれカネゴン】。

2004年11月17日(水)

(頭音停止キャンペーン中)

具体的には書かないけど、本日激しく嬉しいことがあった【踊り狂うはおれカネゴン】。たとえるなら、地球近辺をたまたま流していた宇宙人がふと立ち寄って一発でカネゴンをさらってくれたような嬉しさ【そんな願望おれカネゴン】。がんばってお礼の手紙書きます。

一応それ↑に関連。日記に書くのが遅れましたが、BSマンガ夜話で11/30(火)23:00よりあすなひろしの回が決定。「ゲスト未定」はもしやあの方なのだろうか。皆の者、花火じゃ、巨大な花火を夜空にどんと打ち上げい。

日記と頭音づけの生活から一転して、日中集中力を途切れさせないようにするのに大童。日記も書かずアンテナも見ず、脇目もふらず夢も見ず、沈香も焚かず屁もひらず、果してどこまで続くか。できなければカネゴンはクズです。

現役のカウンセラーが書いた「心の相談室with」は盛りだくさん【やはりよそ見のおれカネゴン】。とりあえずはエッセイ「心の金曜日」の中から「お母さんの7箇条・お父さんの5箇条」。

肖像画撤去。もう10年も前に、JN師匠が「あの国ではとっくに政権交替の準備を回りの連中がこっそり進めているよ」と語っていたのを思い出した。

今月のScientific Americanによると、宇宙で観測される恒星の大部分は二重星で、太陽みたいにぽつんと単独である恒星の方が少ないとのこと。そこまではある程度わかっていたらしいのだけど、ビッグバンから間もない頃次々に誕生した恒星(成分のほとんどが水素で、金属を含まないのでかなり性質が異なり、寿命が数百万年と極めて短い)まで二重星だらけだったことがシミュレーションの結果などから判明しつつあり(三重星や四重星も決して珍しくない)、赤外線で丁寧にガス雲を観測した結果でもさらに二重星の割合が多くなってきたとあって(赤外線はガスに邪魔されにくい)、宇宙物理学者が頭を抱え始めているらしい。明らかに二重星の方ができやすい理由があるはずなのだけど、ラプラス以来の惑星形成説では、単純な渦から二重星が誕生することをそのままではとてもうまく説明できそうにないので【ごちゃごちゃ書くとはおれカネゴン】。太陽系が宇宙の片田舎であることが示されてしまったというか。

ふと思ったのだけど、カネゴンたちが日常見かける大小さまざまな「渦巻」は、実は重力の影響下という特殊な条件での現象であって、無重力の世界ではもしかするとまったく違う考え方をしないといけないのに、ついそれに因われてしまうのかもしれない。洗面所や流しの排水孔みたいなものがあるわけではないのだから。どちらかというとタバコの煙で輪を作るみたいなガス雲の動きの方が何となく自然な気がしないでもない。まだ続きを読んでないので怪しいけど【途中で書くとはおれカネゴン】。

2004年11月16日(火)

(頭音停止キャンペーン中)

今や現実逃避ツールとなりつつある日記も何とかして減らします【遅まきながらおれカネゴン】。

FireFoxを試してみて実に軽快なので即インストール【流行りに乗ったおれカネゴン】。この種のソフトウェアとしては珍しく、ヘルプがかなりきちんと翻訳されているのもありがたい。Windowsは何の問題もなかったけど、debianはdebパッケージでインストールしようとするとあれこれ文句を言われた(knoppixがstableなので仕方ない)ので、素直にtar.gzを取ってきてインストール。

しかしながら Windows UpdateはIEでないとアクセスさせてくれないので、WindowsからIEを取り除くわけにいかないのが困ったところ。IEのモジュールは他でもさんざん使い回されているのでなおさら。

圏外さんの三つ子の魂が不惑を越える。冒頭部分はてっきりカネゴンの悪事がばらされたのかと思い、焦る【皆はとっくにおれカネゴン】。カネゴンは大学の前にさらに3年も足踏みしているのでなおさらどこにも顔向けできない。なおさら日記など書いている場合ではないという闇雲な焦りに因われてしまいそう。今までのパターンで、カネゴンが焦るとき(特に価値判断を迫られるとき)にろくな結果を呼ばないことはもうわかりきっているので、何とかして平常心を取り戻そうとしてさらに焦る【ぐるりと回っておれカネゴン】。うう。

2004年11月14日(日)

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論理サバイバルを読み進めていたら、突如賭博破戒録カイジが引用されていて思わず吹き出す。ありえないほどの極限状況でおのれの推論力を総動員して勝利をとことん追求せざるを得ないカイジは論理学者からも注目されていたことに。次は代紋Take2(文字どおり複雑怪奇なヤクザの論理学を極限まで追求している傑作)でお願いします【厚かましいとはおれカネゴン】。

2004年11月13日(土)

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今後は家でしか日記を書きません。

一度で十分なのだけど、一度「嫌な奴」になってみたい【何が何だかおれカネゴン】。

TVのニュースでアラファト議長の若かりし頃(60年代)の映像を初めて見、その勇姿がまるで劇画の主人公のようにワイルドで危険かつセクシーな男の香りに満ち満ちていて、これなら間違いなく男女問わずもてたであろうことを確信【劇画が基準のおれカネゴン】。

携帯電話が不妊の原因か【判断保留のおれカネゴン】。

ずっと前に買ったきり保留になっていた三浦先生(特撮が好き)論理サバイバルをやっと読みはじめる。姉妹書論理パラドクスと併せれば、パラドックスを網羅した最新の図鑑としても役に立つ。パラドックスと思われている有名な命題が実はパラドックスではないなど、今更のようにいろいろと驚かされる【カビが生えてるおれカネゴン】。この本はおそらく劇画原作者や劇作家にとっても非常に役に立つかもしれない。

読んでるうちにカネゴンわからなくなってしまった点が一つ。日本語では(例外はもちろんあるものの)一般的に「A[は]Bである」という言明は、「B[が]Aである」という言明と等価であると説明されていた。たとえば「太郎君は風邪をひいています」は「風邪をひいているのが太郎君です」と同等であり、「太郎君が風邪をひいています」は「風邪を引いているのは太郎君です」と同等であるということらしい。訓練が不足しているか例外に引きずられているせいだと思うのだけど、これが今のところカネゴンアイには何となく等価に見えない。

どうやら、日本語で「AはBである」というのは「A⊂B」であり、「AがBである」というのは「A⊃B」であるということらしい。書きながら考えてみる【知力に限界おれカネゴン】。

「うたはともだち」は「うた⊂ともだち」、つまり「ともだちという集合の中にうたが含まれる(=うた以外にもともだちはいるかもしれない)」ということなのだろう。それをひっくり返した「ともだちがうただ」は「ともだち⊃うた」となる(意味は同じ)。ただ「ともだちがうただ」という言い方は宇多田ひかるが友達でもない限り日常ではあまりしないと思うけど【うたがともだちおれカネゴン】。

一方「俺が村田だ」は「俺⊃村田」、「俺という集合の中に[他でもないあの村田であるという性質]が含まれる(=他の奴はあの村田ではない)」ということなのだろう。それをひっくり返した「村田は俺だ」は「村田⊂俺」ということになる(意味は同じ)。

つまり、「が」を使用する場合、無意識にその前に「他でもないあの」という言葉が後ろに補われていて、「は」を使用する場合、これまた無意識に「他にもそういうものはあるかもしれないけど」という言葉が後ろに補われているということになる。

「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさん[が]おりました。おじいさん[は]山へ柴苅りに、おばあさん[は]川へ洗濯に行きました。」という文の場合は、最初はこの規則とは異なっているかと思ったけど(英語のaとtheのような使われ方)、「あるところにおりましたの[は]おじいさんとおばあさんでした。山へ柴苅りに行ったの[が]おじいさんで、川へ洗濯に行ったの[が]おばあさんでした。」と多少不自然ながらも変換できた(後半は[は]でもおかしくないと思うけど)。よく議題に上がる「象は鼻が長い」も、よく見るとこの規則に確かに合っていることに今気付いた。ただ「長いは鼻が象」とは絶対言わないだろうけど。

さっきも書いたけど、例外は多々ある。ここで言う「は」と「が」は、おそらく論理学用に最適化された一面があるというか、おそらくisとhasに対応づけようとしたのではないかと。とこれだけ書いてみてやっと納得できました。お騒がせしました【マッチとポンプのおれカネゴン】。

ついでに三浦先生のブログ巡回決定。

2004年11月10日(水)

(頭音停止キャンペーン中)

映画秘宝で「オールドボーイ」のことが何度か取り上げられていた。カネゴンは原作の土屋ガロン(元はあの劇画原作者の変名)に深い思い入れがあるので、このところつらそうだった原作者氏にやっとツキがまわったようでほっとする【沈みっぱなしのおれカネゴン】。なお、奇しくも色川武大の同名の短編小説があった(内容はまったく違うけれど根底で通じるものは一応ある)。

この劇画原作者氏がそれなりに広く受けていたのは80年代で、半ば意図的かつ自虐的な時代錯誤ネタを得意としていた(「劇画」という時点で当時既にギャグだった)。同じく時代錯誤ネタと語学ネタを得意としていた別の劇画原作者氏とつまらないことで仲違いし、相手はあれよあれよと出世して時代錯誤ネタと氏を切り捨てた一方、こちらは器用に立ち回ることを潔しとしないせいか意地になって時代錯誤ネタにしがみつきつつも次第にぱっとしなくなっていた。

この映画が今の韓国で突然受けたのは、ちょうど日本で言うと80年代後半に相当しているからなのかもしれない【論理にならぬおれカネゴン】。時代錯誤をネタにする場合時代との距離感が極めて重要なので、近すぎでもだめだし離れすぎていてもだめだったりする。彼の原作が受けるにはこういう風潮が必要なのかも。だとしたら、常に80年代後半バブル高揚感があの感じに漂うアジアの国を選んで彼の劇画および映画を順に巡業(翻訳/吹き替え)すれば、当分の間うまく回ったりしないだろうか【泥の舟とはおれカネゴン】。と言いつつもカネゴン実はバブルの頃の雰囲気はTV以外ではまったく知らず恩恵を受けた試しもないのでよくわからないのだけど【地べた這いずるおれカネゴン】。

常々思うのだけど【常々思うなおれカネゴン】、映画でも漫画でも小説でも、筋が通っていて論理的に破綻さえしていなければそれはいい話なのだろうか【違うと言えないおれカネゴン】。どんなに筋道だって論理的に説明されようと自分が殺されたり恋人を奪われたり民族ごと浄化されたりすることに納得できる人はいない以上、勧善懲悪なり親殺し子殺しなり恋愛なりのお話テンプレートには常に破綻の可能性が含まれている。

いつの間にかしなくなっていたのだけど、大昔のカネゴンは、誰も見ていない広い場所に逃げ込んでは空(くう)に向かってめいいっぱい叫んでいた【涙にじんでおれカネゴン】。普段は慎重に抑制しているけど、その制限を外すと自分でも驚くほどでかい声が出てしまうので、場所だけは周到に選定していたのだけど【そこが小者のおれカネゴン】。

ビタミンEを大量摂取すると有害の恐れ。どんなに摂取しても害がないものはこの世にあるのだろうか。

Blogless Googleは、ブログやはてなダイアリーなどを結果から取り除いてくれる。かなり便利そう。

広告しない広告。ジャイアンの歌もずっと聴かされると平気になってきたりするみたいなものだろうか。

2004年11月09日(火)

今日の頭音: 「Pangaea」Miles Davis(Key=D)

おそらく本邦初公開の催眠の情報+研究Webサイトを御紹介いただきました。下心や宣伝に汚染されることなく、常日頃暗示にかかりやすいカネゴンが本当に知りたかったことが書き尽くされている。そして奇しくもカネゴンがやっと読み終った「人間の本性を考える」とも密接につながる内容。たぶんすべての科学者必読【たぶんで済ますおれカネゴン】。

蛙男商会さんの必殺コンテンツ「菅井くんと家族石 #1-#8」(from 知人のML)。カネゴンは腹の皮が極限までよじれてしまいました【涙流しておれカネゴン】。家人に指摘されるまでタイトルの駄洒落にまったく気がつかなかった。

この見事な合成音声(だと思うのだけど)は、もしかするといつぞやhirax.netで紹介されたCANTORではないかと推測。ひょっとしたらひょっとして、DTMの台頭でスタジオミュージシャンがごっそり駆逐されてしまったように、近い将来声優/アナウンサー/TVタレント市場にも激震が走るかもしれない。

近い将来、義務教育に「詐欺のあらゆる手口」が追加されるのかもしれない。もちろん防止のためで、詐欺の手口が広く知れ渡るために子供が真似するのではないかと心配するのは早計。ただ完全に普及するまでは、学校で教えてもらえなかった現在の大人たちおよびお年寄りが順々に餌食になることはあるかもしれないけど【食べてもらえぬおれカネゴン】。

地震、地震。

またも新しいコミュニケーションツール「NOTA」登場。

カネゴンはどうやら権威主義的性格そのものらしいとようやく思い知らされる【正しく認識おれカネゴン】。ただ、おそらく自分にとっての権威を軽薄に取り替えまくっているために、カネゴンが何に対して権威を感じるのかが(自他共に)わけわからなくなっているだけなのかもしれない。うう。

2004年11月08日(月)

今日の頭音: 「Oye Como Va」(Key=Am)

先日、普段はめったに乗らない某所のJR沿線の駅および車両で、地元とおぼしき多数の中学生集団を見かけ、普段近所で見かける同年代の子とあまりに雰囲気が違っていることに驚く。何とも素朴というか三丁目の夕日というかどこか古代人の血を感じさせる【石もて追われいおれカネゴン】。

ずっと以前インド人(ニューデリーあたりの出身の大変な金持ち)から聞いた話では、かの地域ではもうカースト制度をかれこれ数千年も継続してしまっているために、カーストによって顔が完璧に違ってしまっているのだそうだ(カーストを超えた婚姻は現在でも非常に困難)。進化の圧となる要因にはさまざまなものが考えられるので一口にはとてもくくれないけど、日本における「おしゃれな沿線」とか「そうでない沿線」みたいな至極適当な区分が、数千年どころか数十年でたちまち住民の顔に反映されるようなことがあったらどうしよう【地雷を踏むとはおれカネゴン】。やはりときどき椅子取りゲームみたいなものを強制しないといかんとかそういうことになってしまうのだろうか。

世界の人口は2300年には90億人、平均寿命は95歳に。かつて大流行りした「地球は氷河期に近づいている」と並ぶマルサスの「人口は幾何級数的に伸びる」という予測は思わぬ形で外れたことに。

つい忘れがちというかカネゴンもやっと思い知るようになってきたのだけど、「これから先どうなるかを誰も知らない」と考えたら少しはみんな楽になるだろうか。

世界中のお年寄りの好みを片っ端から調べまくったら、日本のダルマのように若者が好まないのに不思議にお年寄りが愛して止まないようなアイテムが普遍的に見つかったりするだろうか【山ほどやろうかおれカネゴン】。

全然まとまっていないけど。繰り返し実験を行えないような一度っきりの未来を何らかの形で予言または予測する場合、予言された現象が起きなかったから即外れとは言い難い事情がある。なつかしの2000年問題のように予測に基づいて対策を行った結果、その現象を回避できたという場合がある。これは外れとは言えないし、むしろ当たったと言えそう。その一方、カルトや詐欺集団が、予言が当たった場合は「ほれ見なさい」と、外れた場合は「私が念じたから回避できたのです」とうまく言い逃れてしまうということも確かに起きている。これらの違いを誰が見てもはっきりわかるように示すことは「一般的に」可能なのだろうか。カネゴンには何となく無理なような気がする。一度きりしか生じない(二度目のない)未来は今ひとつ統計との相性が悪そうに見えるのだけど、統計学ではそこのあたりをどんなふうに捉えているのだろう。

上杉謙信は女だった。久しぶりにうっとりするほど夢のある話。もしかしたらあの人も、この人もと想像は膨らむ一方【もしやおぬしもおれカネゴン】。

大変に素晴らしいWebページを教えていただく。お許しを得次第ここに書きます。

2004年11月07日(日)

今日の頭音: 「擬音小唄」嘉門達夫(Key=C)

昨日何となくつけていたCATVで、近年マドンナ化著しいブリトニー・スピアーズが、そのマドンナの影響で最近カバラ秘術にはまっていると報道していた。女子中学生が恋の魔法に入れ込んだついでに恋敵を力一杯呪い倒すみたいなものかと思ったけど、どうもそれどころではないらしく、他にも有名人が続々はまっているらしい。以前映画秘宝の別冊で、サイエントロジーという新興宗教がハリウッドスターの間で流行っているとあったけど、次の流行のサイクルはこれなのかも【目糞鼻糞おれカネゴン】。

もちろんかの悪魔くんは「数千年にもわたるカバラの研究からは何ものも生まれていないではないか」と一刀両断していた【なれなれしいとはおれカネゴン】。

みなさんは、自分の知力に限界を感じたことはありますか【底辺さまようおれカネゴン】。

CATVで「麻雀放浪記」を再見。以前見たときとまた印象が異なり、登場人物の大半が結局は博打のこと以外まったく頭になく、女でも家の権利書でも手に入れた途端に即それを賭けてはすってしまうといういかんともしがたい耽溺ぶりがあまりに悲惨で逆に笑ってしまう。そこのところを強調したらなおいっそう傑作になったかもしれない。

以前にも書いたけど、原作の麻雀放浪記の「寺麻雀」の回で、博打のかたに仏像やら木魚やらが寺の庭にぶっきらぼうにずんずん積み上げられていく描写がおかしくってたまらず、さんざん笑い転げてしまった。おそらく同意してもらえないと思うけど、以来色川武大はカネゴンにとって「一歩間違えればうすら寒いだけになりそうなバイオレンスを見事に笑いに転化させたユーモア小説家」ということになっている【勝手なこととはおれカネゴン】。

2004年11月05日(金)

今日の頭音: 「鹿の糞」吉永小百合(Key=Bb)

出掛けで慌しかったこともあり、カネゴンの聞き間違いの可能性もあるので差し引いて欲しいのだけど【重営倉行きおれカネゴン】、今朝のBSニュースで流されていたアルジャジーラによると、再選が決まったばかりの超大国の統領がイスラエルからの勇み足情報を真に受けて、まだ死んでいないアラファト議長についうっかり弔意を示してしまったと言っていたような気がする。

町山さんの日記「全米の各郡ごとの共和・民主分布図」。

キリスト教関係者を画一的に見てしまうことを防ぐため、教会関係者による連載「クリスチャンは戦争をしてもよいか?」もメモ。

国旗掲揚・降納の国際マナー。「通常は、公衆の面前で燃やす事は避けてください」というのがいい。カネゴン恥ずかしながら、花の応援団で覚えた団旗の扱い以外何も知らなかった。半旗の写真を見ていると、何だか旗がしょんぼりと演技しているみたいに見えなくもない。

もし人類が何かの間違いで国旗ではなく指人形を国家のシンボルとして使っていたら【Wish you wereおれカネゴン】、遥かに表情豊かに民族の本音を表現しまくったり、民衆を導く自由の女神が旗を持つ代わりに指人形を振り回して「この指止まれ」したりするだろうか。

まったくもって不謹慎と知りつつ、どうしても中野貴雄の日記で笑いを堪えきれない【ぷうと吹き出すおれカネゴン】。たぶん実は最も恐ろしいことだからか。

今日の「人間の本性を考える(下)」。

気取りまくった現代アートがいつしか、どこをどう間違ったのか「観客を怒らせればそれでいい」みたいなムードに乗せられてどんどん低脳になっていく姿に腹を抱える。「芸術にはステータスが本質的に不可欠」ということが心理学などから得られたらしいけど、出してみたらあまりに当たり前な結論。

カネゴンにとってかなり意外だったのは、幸福は(実は芸術も)ゼロサムゲームだという論説。つまり、どんな幸せも、どんな芸術も、他の人みんなが同じものを持っていたらありがたくもなんともないものになってしまうということらしい。そう言われてみれば、今底辺で暮らしている人も、800年前の貴族より遥かに恵まれているはずであるにもかかわらず、なぜそう思えないのかも、藤子F不二雄の短編「福きたる」で福の神と現代人の価値観が激しく食い違っていたことも納得いく【信じやすいはおれカネゴン】。こういう事象はどこかに微分的な性質があるというか、絶対値が重要ではないらしいと思えてきた。人間の本性とやらの面倒臭さと、そこから逃れられないことを痛感。

後この本全般で、「アメリカの良心」という異名を取った今は亡き科学者兼エッセイストのスティーヴン・ジェイ・グールド(の無駄な左翼っぽさ)をかなり敵視している点が面白かった。著者はグールドの論的であるリチャード・ドーキンスとひとまとめにされて攻撃されたらしく、グールドたちから「還元主義」呼ばわりされたことへの反論に相当のページを費やしている。

でも一番驚いたことの一つは、ポストモダンに主張があったということ。カネゴンの読解力が足りないせいか、ポストモダンが一貫して何らかの主張をしていたとはついぞ夢にも思っていなかった。

理系白書ブログ。巡回決定【理系でないとはおれカネゴン】。

ご先祖たちの【】声色は主にドクロベエさまの声です【俗の極みのおれカネゴン】。

イギリスのインフラは恐ろしい(via 徒然なる数学な日々)。他の項目はともかく「鉄道」はかなりシビれる【脱線転覆おれカネゴン】。

「博士の愛した数式」映画化。カネゴンは何となく博士はおひょいさんで決まりかと思ってました。

もしかすると今一番困難かつ大事なのは、偽物でない将来への希望を持てることだったりするだろうか。

2004年11月04日(木)

今日の頭音: 「キャプテンウルトラ」(Key=Em)

休日は二人揃って寝込む。

民主党員と共和党員の脳の違いをスキャン技術で探る

ごく近い将来、目に余る選挙違反を一気に解決しようと焦るあまり、時間を決めて一斉に脳から思念を取り出して直接投票する仕組みが確立されてしまったらどうしよう。しかも投票への思い(強度)まで反映されることになったりしたら、投票期間中は大陸全土の国民が目を血走らせてバビル二世とヨミみたいに真っ二つに分かれてサイコウォーズ状態で火花を飛ばしあったりしたら、ユンケルやタフマンなどのドーピングが過ぎて国民が頭から血を吹き出して続々と倒れたら、そして浮動票の皆さんも面白そうだとわいわい参加してお祭り騒ぎになったらどうしよう【どうもせぬとはおれカネゴン】。その隙にまんまと総攻撃を受けたりしたらどうしよう。

人間の本性を考える(下)の印象に残った部分のピックアップ【間違っとったらおれカネゴン】。

  • 子供の性格や行動パターンは、半分が遺伝、半分が家庭外の要因(友達や外の社会)で決まるというのが今のところ最新の結論らしい。要するに親の影響が予想外に小さいということ。
  • 容姿に恵まれた人は、そうでない人と比べて本音をずばずば言う傾向があり、待たされたときにそうでない人よりも我慢する時間が短い傾向があるとのこと【そうでないとはおれカネゴン】。遺伝が間接的にのみ影響すると考えられる例。
  • これはまだまだ「可能性がある」レベルで裏付はないらしいけど、転校や転居は子供にとっていい影響でない可能性があるらしい(そのたびに子供ヒエラルキーの一番下からやり直さないといけないため)。

カネゴン実は現代思想方面にまったくもって疎かったので、これを読むまで特にフェミニズム方面でそんなにいろんな騒ぎが起きていたことも知らなかったし(知ってたのはソーカル事件ぐらい)、アメリカに左翼がいた(いる)こともアメリカの学生や教授がそれなりに左翼っぽいこともにわかには信じられなかった【無知がはみだすおれカネゴン】。

エンジニア式情報収集法。今まで勇気がなくてIRCに参加したことがなかったことに気が付いたのでメモ

2004年11月02日(火)

今日の頭音: 「菩薩」Steely Dan (Key=G7)

明日が休みだということをすっかり忘れていた。

昨日の続き。やっぱり、脳科学や今どきの心理学などで脳が外界を把握することを「幻想」みたいな言葉を使って説明することは、どこか正確さに欠ける上に余計な摩擦を生んでいるような気がしてならない。はっきり書けないのがもどかしいけど、幻想みたいな言葉で説明されたら、相手が「あなたが必死に握り締めているのは真実ではなく馬の糞です」と言われたように思っても不思議ではないかもしれない【ひたすら濁すおれカネゴン】。

緊急メモ: 秀シリーズの脆弱性と対応。カネゴン家でも鶴亀メール使ってた。

星新一のショートショートをアニメ化

根拠がどのぐらいあるかはわからないけど、20年ほど前にある精神科医が「登校拒否児童はどういうわけか星新一を愛読するんですよね」と語っていたことを突然思い出す【しっかり読んでたおれカネゴン】。

人間の本性を考える(中)によると、さまざまな実験の結果、人間は自分のことを本質的に過大評価する傾向があることがだんだんわかってきたとあった。常日頃、放っておくと自分の能力を数万倍にまで過大評価しそうなために無駄に緊張しがちなカネゴンは思わず脱力【殊勝な振りとはおれカネゴン】。とはいうものの、ほんのわずかずつ背伸びするぐらいの課題(あるいは難易度がもう少し不連続な課題)に挑戦し続けていないといつまでたっても器が大きくならないのも確かなので、器にぴったりはまることしかしないのも良し悪しなのかも。

要点をちまちま書いているときりがないので、どこかのサイト上にまとめたい気もするのだけど、そういうことをしたら無断引用とかで御用提灯に取り囲まれさすまたで絡め取られてしまうだろうか【火付盗賊おれカネゴン】。

2004年11月01日(月)

今日の頭音: 「Time」Pink Floyd (Key=F#m)

店じまいであったことを思い出して慌てて店に駆け込むも、結局何も買わず。カネゴンは昔から、たとえばビデオ屋に行って散々迷った末何も借りられなかったりする。

恐怖の崋山ツアー。その最中に地震が起きたらとちらりと考えるだけで平衡感覚が失われそう【血の気を失うおれカネゴン】。この恐怖を新しい刑罰に応用できないだろうか【刑だ罰だとおれカネゴン】。「床が透明なエレベータ」の刑とか。

全然関係ないのだけど、日本中にある夥しい水墨画(現代ものや偽物除く)は基本的に中国奥地の絶景を描写していることが非常に多いのだけど、それを実際に見て描いた日本人画家はいったいどのぐらいいたのだろう。おそらく日本ではほとんど誰も見たことがないはずなのに皆が不思議に知っている風景としてこうした絶景が定着してしまっているような気が。

メモ: ブログ専用検索エンジンテクノラティ

土日は人間の本性を考えるでつぶれる【半分残っておれカネゴン】。

この本に限らず「脳が感じているのは現実ではなく幻想だ」とか「幻だ」「(詳しい意味は知らないけど)共同幻想だ」というようなマトリックスっぽい表現を見かけるたびに思うのだけど、幻想とかではなくて、「単に脳は現実を『このように』把握しようとする」と説明したらだめなのだろうか。

この種の考えを見るたびに、(そっち方面はナマかじりだけど)どこかにイデア論がちらつくというか、「どこかに本物がある。これは偽物だ」「これは本当の自分じゃない。どこかに本当の自分があるはずだ」「これは本当の理想社会じゃない。どうにかがんばれば地上天国を実現できるはずだ」みたいにものごとを考えたら、たとえお釈迦さまでも100%苦しくなってしまうような気がするのだけど、またカネゴンはまずいことを書いてしまったのでしょうか。イデアっぽい考え方は意外に害が大きいとカネゴン密かに信じてます【言ってまうとはおれカネゴン】。

何だか最近の町山さんの日記が「コメントのつけられる田中ニュース」みたいな趣き(内容ではなく語り口が)。

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