2005-01-26 鎖国メディアの終焉
寒いには違いないのだがトロントあたりとしてはとりあえず来るべきものがきてますという寒さなので、備えもあれば憂いもある、あれ? 備えがあれば憂いはないはずだが…。しかし、憂いというものがそもそも来るべきものであると予期されているものなら(寒くて部屋に閉じこもることになるは、日照時間は少ないはetc.)、備えあれば憂いなしにならずともいい。
例えば、今からトゲを抜きますよという場合には、備えても痛いし痛くなければ他の異常を考えないとならない。だから、痛くて正常だ。ということは、ともすれば憂い、痛いといった語、ネガティブな状態を指す言葉を見るとそれを排除、それを是正したくなるが、それは意味がなく、むしろ他の異常を誘うだけになる可能性もある。だから、備えあれば憂いなしの本義は、どれだけ当然の経緯であると対象となる人々に理解させられるか、ということといえるだろう。だからなんだ。いやそれだけ。
ま、でもそれだけでもなくて、ストレスと見れば解消、憂いといえば解消、よくない雰囲気といえば解消、なんでも解消しようとする人を見ると、私には、この人には最適化とかバランスというアイデアは絶対に理解できないんだろうかなぁなどしばしば思うのだった。
■ 鎖国メディアの終焉
中身自体は結構どうでもいいんだが(だって、最終的には日本が決めること以外には何もないじゃない)、このgoriさんの話が私としてはとても、まったく、ええ、まったくその通りだったので喜ぶ。
http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/000446.html
テレビ朝日がベーカー氏のいっていることはこれですよ、と伝えているが、他誌と比較し、かつ、英文で伝わったものを読み、さらには大使館がアップしているものを読んだら、意味が違うじゃないかという話。
私自身がこういうことを、ねちねちと追っかけてきたので、今さら何をと言ってみたい気は相当にするし、多くの人もそれに気づいていたのだろうとは思う。だから、私のところみたいな弱小ってか、別に何か面白いってわけでもない、少なくとも「おまけ」はないようなものを読みに来られる方もいるのかなと思っていた。どうもお世話さまでございます、ほんとに。
で、この2週間ぐらいのことを見てて、なんとなく、これってもう本当に「終焉」だなと思った。つまり、私が考えていたのは、朝日に代表されるがしかし朝日だけでもない日本のメジャーなメディア(書籍も含む)は、たいていの人が「外」はないという想定でやっていると思う。日本流の切り口だといえる場合ももちろんなくはないが、それはしかし同時に、フィルターだ。このフィルターが必要な場合もあるが、今となっては弊害の方が多くて目づまりはするし、つまったあげくに、自らすすんで他誌諸々(国内外を問わず)を読もうとする人が増えてきた。つまり、もう溢れかえってるってことだと思う。
そう、今起こっていることは「捏造体質」が現れたとかいうのではなくて、鎖国メディアはもうで存在できない、っていう確認が行われているということではないのだろうか。
仮想鎖国状態で隆盛を誇ったメディアはもうどうしたってもたない。ただそういうことだし、最初っからそれはそうなのだ。しかし、わざわざ閉めようとする人が大きな力を持つ傾向は隠然とあるんだから、ここは私たちの方が、結果的に人々の目づまり→奔流行動が今の事態を招いたように、ず〜っといろんなものを見ようとする窓を開け続けておくことがとても必要だと私は思う。ここで、ふんばらないと、単に朝日的なものへの反論として、思ってもみない方向にひっぱられそうで(具体的でないのがスマソだが)、それが恐いと書きたいところだが、恐いなんて結論しても意味がないので、開けておくことを念頭に生きよう、など呼びかけたい。おお、大きくでたわね(^.^;;
偶然には違いないが、こちらも日本のメジャー新聞と英文記事との「トーンの違い」に言及されていた。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/01/oecd.html
# 道産子 『ネット普及以前は新聞を読み比べるにも、月に最低数千円以上は掛かっていて尚且つアメリカ大使館の英文で発表された原文など入手するすべも無い。こういう捏造(というかこの場合歪曲ですね)報道は朝日に限らずたくさんあるんだろうと思います。
しかし未だに情報は新聞とテレビからしか得ない人もたくさんいて、このような歪曲報道もこれら報道媒体が取り上げなければ存在しないも同然です。
まだ5年はこんな状況ではないでしょうか? 10年後には変わっているでしょうか?
カナダでは主にネットで情報を得る人と、既存メディアから得る人はどちらが多いですか?』
# Soreda 『道産子さんこんにちは。そうですよね、その頃と比べたら今って何?状態ですよ。こちらからの視点で言えば私なんか7年前は翌日の朝日国際版で日本のニュースを見ていた記憶あります。
しかし、テレビしかない、新聞1紙しかないから情報が限られているから必ず「外」なしになるかというとそうでもないと思うんです。本もなくて、他者らしい他者もいない環境とまでなるとそりゃまずいっしょだとは思うけど。背景の異なる人とたくさん話す人、つきあうことを余儀なくされている(これが大事。好みでやってたらいつでもこちらから排除できる)人って、アンテナ大きいし、その中で自分の視点と他者の視点をバランスしながら物事を見ることがうまいような気がします。そしてそれがたとえ国家を超える問題であっても。つまり、量だけの問題ではないだろうと思うんです。あと、こういう書き方をすると、必ず反射的に、日本人は内向きだ、だから外世界のない論調にフィットしてしまうんだ的なことを言う人がこれまでとても多かったと思うんですが、ここは私はこの頃疑問に思っているところです。結論はないんですが。』
# kamiya 『あまりに凡庸で陳腐な表現になってしまいますが、
言語の壁というのが結構大きいんでしょうね。
今でさえ、検索エンジンに英語と日本語以外の
キーワードをぶち込むことは皆無ですし。
機械翻訳の性能が向上して、ついでに検索エンジンとの
連携が高まれば、もうちょっと冒険ができるかも、
と強気に出てみます。
まあ、その翻訳機能向上ってのが一番の壁ですが。』
# Soreda 『
kamiyaさん、どうも。言語の壁ってつまり日本には日本語で書かれたものしかないってことですか? 一般論としては、日本語を上手にあやつる人=だいたい日本人っていう状況なので、対英語、対仏語(つまり植民地を持って帝国展開した又は続行中だ)というところと比べて不利なのは明らかかもしれない。だけど、前提として機能的文盲でない人も多いし起動力も発揮して世界中に人がいる等の足元条件は良好です。だから、もっと異なった考えのものが大多数の人が見やすい位置にあれば話は状況はかなり改善されるかもしれない、という点を追求することの方が、「言語の壁」を理由とするよりも現状の変革に対して効果的なアプローチかと私は考えてます。
ざっくり言って、公開で論争になって外野も結構いろいろ言うっていう状況下にあったらとてももたないようなものが大手を降りすぎてるってことかと思うんですよね。朝日事件はそれをただ明らかにして(だもんで、言論戦から降りて裁判に行くと(^.^;;)くれたんだなと思います。』