29 出発
移動手段にはここでも〈転移魔法〉を用いた。場所の座標を正確に割り出す、空間ごと圧縮転送する高等魔法だ。
だが、地形が複雑で魔力が乱れやすい場所――つまり目的地が霧深き山岳地帯のような場所では、転移地点の設定が極端に難しくなる。
以前、学園からオルディアーク公爵家への転移では、既知の安定した座標と整った魔力環境のおかげで、比較的容易に成功した。しかし、今回のような未知の地形で魔力の流れが不安定な場所では、転移の難易度が格段に上がり、魔法陣を浮かびあがらせる特殊な魔法になる。俺は過去の地誌や魔力分布図を照らし合わせ、なんとか比較的安定した地点を選び出した。
アメリアの手をしっかりと握り、深く息を吸い込む。掌から放たれる魔力が空間に染み渡り、目の前の空間が微かに震え始めた。やがて、空間に亀裂が走り、そこから淡い光が漏れ出す。霧のような粒子が舞い上がり、亀裂は徐々に広がっていった。
その中心には、幾何学的な紋様が浮かび上がり、淡い光を放つ魔法陣が現れた。魔法陣の縁からは、青白い光が螺旋を描きながら立ち上り、周囲の空気が張り詰めていく。俺はその中心に意識を集中させ、目的地の座標を思い描いた。次の瞬間、光が一層強く輝き、俺たちの視界を白く染め上げた。
気づくと、俺たちは霧に包まれた岩場の上にいた。空気が冷たい。立っているだけで肌を刺すような冷気が伝わってくる。霧は厚く、足元すら曖昧にしか見えない。だが、魔力の流れを読む限り、ここは間違いなく目的の山域の入り口だ。
「ここが……幻の薬草があるという山岳地帯?」
「ああ。〈セリファ草〉と〈フェレナ草〉は、この霧深き山の斜面、湿った岩陰や苔むした崖の裂け目に群生する傾向がある。どちらも、魔力が自然に満ちた静謐な環境を好む性質があるらしい」
薬草の名を口にするのは、これが初めてだった。
セリファ草――強い苦味を持つ灰緑色の葉で、体内の毒素を分解・排出する作用を持つ。
フェレナ草――柔らかな白い毛に覆われた細長い葉で、強い抗炎症作用を持つが、取り扱いを誤ると逆に身体を冷やしすぎてしまう。
そのどちらも、今の母上にとって不可欠な命綱だ。
俺たちは霧の中を慎重に歩き始めた。岩肌には苔が広がり、場所によっては雪解け水が小さな流れを作っている。足を滑らせれば、転落の危険すらあった。
「アメリア、足元に気をつけろ。ここの霧は濃すぎる。もし凶獣にでも出くわしたら、即応が必要だ」
「……わかってる。オルディアーク公爵夫人のためにも、ちゃんと歩きます」
その時だった。アメリアの足が苔むした岩に滑り、バランスを崩して斜面に倒れ込んだ。
「きゃっ!」
俺は即座に彼女の腕を掴み、引き寄せた。アメリアの体が俺の胸にぶつかり、しばらくそのままの体勢で息を整える。
「大丈夫か?」
「……はい、ありがとう。ちょっと驚いただけです」
アメリアの小さな手に、かすかな緊張が宿っているのがわかった。
それでも一歩も引かず、俺の背をまっすぐに追ってくるその姿は、もはや“守られるだけの存在”ではない。
“家族のために戦う仲間”――そう呼ぶにふさわしい存在だった。
俺たちは霧の中を、命をつなぐ薬草を求めて進んでいく。
その先に、母上の未来があると信じて。