第14話 どうしてリックと別れちゃったの?
次の日、サビーナはマスクをして一日を過ごすことにした。もちろん風邪などではなく、微かに残る唇の傷痕を、誰かに見られるのが恥ずかしかったからだ。
こんな小さな傷など誰も気にするわけがない。ましてやあんな事故でセヴェリと唇が触れ合ったからだとは誰も気付かないだろう。
しかしそうは思いつつも不安になり、気にして口元を隠して仕事をするより、いっそマスクを付けた方がいいと判断したのだ。
「あら、サビーナ。まだ風邪が良くないなら、休んでいれば?」
昨日休んだのは病気ということになっている。先輩メイドがそう言って心配してくれるのが申し訳ない。
結局は「大したことないんですけど、念のためにマスクをしているんです」と言って普通に仕事を始めた。
最初にセヴェリの部屋にハーブティーを持って行くが、マスクを指摘されることはなかった。代わりにセヴェリは、自身の唇の傷をチョンチョンと指差しながらクスリと笑っていて、サビーナは少し顔が熱くなる。
誰かに見咎められたらどうしようという気持ちと、その気持ちをセヴェリと共有しあってるという不思議な感覚。目を合わすことはなくとも、手が唇に行くたびにあの時のことを思い出すのはセヴェリも同じなのだろう。
ただの事故。
そう言ってしまえばそれだけのことだ。背徳感を共有し合っている……と感じているのはサビーナの一方的な思い込みで、彼にしてみれば取るに足らない出来事だったかもしれない。
でも、それでも。
サビーナはセヴェリを見るだけで、不思議な感覚に襲われるようになっていた。だがサビーナにはまだ、その感情を表現出来る言葉が見つけられない。
サビーナは、優雅にソファーに腰を掛けて足を組んでいる彼に、一冊の本を差し出した。
「セヴェリ様、お約束していた本です」
「ああ、ありがとう」
セヴェリは本を手に取ると、その題名を音読する。
「お花畑で会いましょうシリーズ、月見草の咲く街で……?」
「はい!」
マスクで見えないだろうが、サビーナはニコニコ笑顔で返事をした。するとセヴェリがいきなり向こう側を向いて口元を押さえたかと思うと、ブーッと激しく息を吹き出した。
サビーナは驚きのあまり目を剥いたが、セヴェリはこちらに気付かずクッククックと笑いを抑えるように体を痙攣させている。
「あ、の……セヴェリ様?」
声を掛けてもセヴェリは腹を抱えたまま、こちらを向こうとしてくれなかった。今日の笑い上戸は重症のようである。
仕方なく、サビーナは待った。相変わらずこの人の笑いのツボは、よく分からないなぁと思いながら。
しばらくしてようやくセヴェリの笑いが収まると、ゆっくりとこちらを振り返る。目の端には涙まで溜まっているようだった。
「あの、大丈夫ですか?」
「ふう、いえ、つい……面白そうな題名の本ですね。読むのが楽しみです」
今度はいつものような優しい笑みを向けられてホッとする。しかしサビーナが頭を下げて退室すると、中から再びセヴェリの吹き出す声が聞こえてくるのだった。
この日の仕事を終えてサビーナが部屋に戻ろうとすると、廊下の向こう側から手を振る者がいた。
長くて緩やかなウェーブが掛かった髪、バサバサと揺れるような睫毛、スラリとした手足に大き目のバスト。自信に満ちた足取りでこちらに向かってくるのは、間違いなくキアリカだ。
「キアリカさん。どうかしました?」
「サビーナ、今日のこれからの予定はある?」
「いえ、部屋に戻るだけですが」
「夕食がまだでしょう? 一緒に外に食べに行かない?」
外へ食事に。この屋敷に勤め始めてから、一度として食べに出ていない。サビーナは嬉しくなってコクコクと頷いた。キアリカと一緒に食事をするのは久しぶりだ。
二人は一旦別れ、互いに着替えや準備を済ますと屋敷の庭でもう一度合流した。
私服姿のキアリカは、騎士服姿の時より柔らかなイメージになる。淡いブルーのマキシ丈ワンピースは彼女の女性らしい部分を強調していて、同じ女のサビーナでもポウッとしてしまうほどだ。もしもサビーナが男だったなら、キアリカに一目惚れしてしまっていた事だろう。
対してサビーナは凹凸の少ない平坦な体に、色気のいの字もない服装。一応スカートを履いてはいるが、学生時分と大差ない。
「お待たせ、行きましょうか。なにか食べたい物はある?」
「うーん、そうですね。久々にラウリル料理が食べたいかな」
「いいわね。じゃ、デザートは五種の木の実のアップルクランブル バニラアイス添えで決まりね」
「あー、美味しいですよね! 私はなんにしようかな〜」
ご飯を食べに行くと言いながら、先にデザートを決めてしまうのも仕方のないことだろう。ラウリル公国は果実の栽培が盛んで、フルーツを使ったデザートが絶品なのだから。
二人は街中を歩き、一軒のラウリル料理店に入った。キアリカは一般席に着くつもりはないようで、チップを払って奥の個室へと案内してもらう。
そこで注文を済ますと、料理を待っている間、他愛ない話をした。
「もう本当にねぇ、女騎士ってだけで馬鹿にされて腹が立っちゃうわ。そのくせちょっと笑顔を向けるとだらしなく鼻の下を伸ばしちゃって、情けないったら」
「でも最近は女性騎士が増えてきてるじゃないですか。きっと、今が踏ん張りどころですよ。そのうち男性騎士と同格に扱ってくれる日がきます」
「そうかしら……先は長いわ。私が退役するまでに、そんな日がくればいいけれど」
そんなことを話していると、料理が運ばれてきた。キアリカはラウリル公国の郷土料理、ヘウデュエジというものを注文していた。丸い形のフルーツキッシュをクリームチーズソースの上に乗せた料理だ。
ホカホカと湯気が立ち上るそれをナイフとフォークで切り分けて、ソースをつけて食べている。人が食べているのを見ると、そちらの方が美味しそうに見えるから不思議だ。
「……食べる?」
キアリカがクスリと笑って、お皿をこちらに押し出してくれる。
「いいんですか?」
「いいわよ。その代わり、そっちもちょっと頂戴ね」
そう言って、キアリカはサビーナの頼んだフルーツパスタを指差した。サビーナは「もちろん」と答えて、互いの注文した物を一口食べ合う。ほんの一口で満足できるのだ。どんな味だったか、確かめたいだけなのだから。
「女同志だとこうやって一口交換したり、シェアできるからいいわよねぇ。リックさんに一口頂戴って言った時、何度嫌な顔をされたことか」
「ああ、リックってそういうとこありますね。男の人ってみんなそうなんですか? 私、誰とも付き合ったことがないから分からなくて」
「私もわからないわ。リックさん以外に付き合った人がいないもの」
さらりと言われた言葉に、サビーナは周りの時間を止めて考える。
この超絶美人のキアリカがリックバルド以外の人と付き合ったことがないだなんて、信じられない。確か、二人は別れてから一年以上経っているはずだ。キアリカは優しくて性格もいいというのに、なにか理由でもあるのだろうか。
「……ちょっとサビーナ? 固まって考えないでくれる?」
ハッと気付いて見ると、キアリカがこちらを見て苦笑いをしている。
「あ、ご、ごめんなさい……なんか意外で」
「あら、そんなに遊んでいるように見えたかしら」
「そ、そういうわけじゃ!」
サビーナは慌てて両手を左右に振る。そんなサビーナを見て、キアリカはクスクス笑っていた。
「サビーナはどうなの? 付き合ったことはなくても、好きな人くらいいるでしょう?」
「いませんよ。私って小説の中だけで満足しちゃってるところがあるのか、現実にいる人にそんな感情を持ったことがなくて」
これは本当だ。今までに特別な意味で好きになった人はいない。
おそらくは、怖さもあるのだ。サビーナの実の母親が、サビーナを産み捨てて出て行ったことを知っているから。
好きな人ができたその先を考えると、憧れはあるのにどこかで踏みとどまってしまう。
「本当に? 希少ねぇ。まぁでも良かったんじゃない?」
「え? なにがですか?」
キアリカの言わんとしていることがわからず、サビーナは首を傾げた。彼女はこちらを見て、気の毒な人間を見るかのように肩を竦めている。
「リックさんに、セヴェリ様を惚れさせるように言われたんでしょう?」
「はい」
「好きな人がいるのにそんなことをしなきゃいけなかったら、つらいじゃない」
「ああ……確かにそうかもしれないですね」
セヴェリを騙そうとしているというだけでもつらいというのに、そんな心労まであっては身が持たなかっただろう。確かに好きな人がいなくて良かったと言えるかもしれない。
「けど、大変な役目を押し付けられちゃったものね。心底同情するわ」
「うう、本当にどうやって惚れさせたらいいものか……教えてください! キアリカさん!」
「私に聞かないでよ。そんなテクニックがあれば、とうに行使してるわ」
キアリカの言い分に、サビーナは目を広げた。彼女の物言いでは、行使したい相手がいるということだ。つまりそれは、キアリカに好きな人がいるということになる。
「え……、だ、誰にです? 」
「……ヒミツよ」
「というかキアリカさんなら、ウインクひとつでみんな悩殺できそうだけど……」
「サビーナ、私のことを誤解してない? 自分で言うのも何だけど、私は普通の女の子よ」
「キアリカさん、二十六歳じゃありませんでしたっけ……」
「うるさいわね、年はいいの! 心は乙女だって言いたかったんだから!」
キアリカはそう主張したが、彼女は断じて『普通の女の子』の部類には入らないだろう。
わずか二十一歳で女性初のオーケルフェルト騎士隊班長の座を手に入れ、その手腕と美貌から『強勇の美麗姫』という二つ名まで付けられている。普通の女の子ならばこんな二つ名を付けられるはずがない。
「そういうわけだから、どう惚れさせたらいいか、なんて聞かないでよね。リックさんにはサビーナの悩みを聞いてやってほしいって頼まれちゃったけど、本当に話を聞くくらいしかできないわよ」
「リックが、そんなことを?」
「ええ。横暴だからわかりにくいと思うけど、あれでもサビーナのことを心から心配しているのよ」
「えー……」
「わかってあげて。ああいう態度しかとれない人なんだから」
少し悲しい口調に、サビーナの心は痛む。
これだけリックバルドのことを理解していながら、なぜ別れるはめになってしまったのかと。
聞いてもいいものだろうかとサビーナが視線を投げかけると、キアリカはそれに気付いてフと寂しげに笑った。
「なに?」
「キアリカさん……どうしてリックと別れちゃったの?」
「あら。リックさんから聞いてない?」
「はい……。聞いたけど、教えてもらえませんでした」
「そう」
キアリカはやはり寂しげに笑い、そして苦もなく教えてくれた。
「他に好きな人ができたんですって。あっさり振られちゃったわ」
「え……っ! ええ!!?」
てっきり振ったのは、キアリカの方だと思っていた。こんな器量好しで完璧な女性を振るなど、理解できない。
一気に頭に血が上り、思わずサビーナは立ち上がった。
「ごめんなさい、キアリカさん! うちの兄が馬鹿な真似を!! とりあえず殴ってきます!!」
「ちょ、いいのよ、サビーナ。落ち着いて、座って!」
「だって、こんなの素敵なキアリカさんを差し置いて、別の女をなんて……酷い、許せないっ」
あんまり腹が立ったのと悔しいのとで、涙が滲んできた。
そんな言葉を言われた時のキアリカの気持ちを想像すると、胸が痛くてたまらない。
「ありがとう……気持ちは嬉しいけど、落ち着いて。もう終わったことなのよ」
手を握られてハッとし、急速に頭が冷めていく。そうだ、もう一年以上も前に終わったことなのだ。今さらサビーナが蒸し返しても、どうにもならない。
「そう、ですね……もうキアリカさんにも好きな人がいるんですもんね」
そういうとキアリカは実に気まずそうに横を向いた。その額にはタラリと冷や汗が流れているようだ。その姿を見てサビーナは疑念がよぎる。
「……え、まさか、キアリカさん?」
「な、なにかしら?」
「まさか、今でもリックが好きとか、言いませんよね……」
キアリカは『ギク』っと音が出そうなくらい、肩を硬直させた。どうやらまさかの図星のようだ。
キアリカを振ったリックバルドも理解できないが、そんな兄を未だに好いていてくれるキアリカも理解できない。
「うそぉ……なんであんな酷い男のことを今も……」
「しょ、しょうがないでしょ! 諦めがつかないんだから!」
キアリカは悔しそうに少し冷めた料理を見つめた。
誰よりも悔しいのは彼女なのだろう。サビーナには人を好きになった経験すらないので、その気持ちは想像するしかなかったが。
「……もしリックさんが、その好きになった人と付き合ったりしてたなら……諦めがついたかもしれないわよ? でも彼は、私と別れてから今まで誰とも付き合ってないの」
「そう言えば……そうですね」
「もしかしたらリックさんは告白して振られたのかもしれないし、告白せずに諦めたのかもしれない。どっちかはわからないけど、それならまだ私にもチャンスはあるんじゃないかって、そう思ってしまうのよ」
キアリカが吐露した言葉に、サビーナは沈黙するしかなかった。
彼女の気持ちはわかる。確かにキアリカにチャンスはまだあるかもしれないとも思う。しかしあのリックバルドがキアリカを振っておいて、好きな人とやらになんのアクションも起こさなかったとは考えにくかった。
一体リックバルドは、その好きな人とどうなったのか。それを知らないことには、キアリカになにも言えない。
「……なんか変な話になっちゃったわね。私がサビーナの話を聞く予定だったのに」
「い、いえ」
「デザートでもたのみましょうか」
そう言ってキアリカは予定通り、五種の木の実とアップルクランブル バニラアイス添えを頼んだ。サビーナはラウリル風ショコラオランジュのムースケーキを頼み、それを堪能した。
二人は今度はシェアをせず、デザートの感想を言い合って過ごした。
もう、恋愛話が出てくることは、なかった。