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たとえ貴方が地に落ちようと - 第90話 償いなんて求めてないと思います
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たとえ貴方が地に落ちようと  作者: 長岡更紗


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第90話 償いなんて求めてないと思います

 一日が終わり、寝室で休もうとした時のことである。

 セヴェリがギターを抱えて、ちょいちょいとサビーナを手招きしていた。


「どうされました? セヴェリ様」

「授業の時は知らない曲ばかりでつまらなかったでしょう。今から個人授業をしてあげますよ」


 ポロロロンと優しいギターの音が鳴る。歌を聞くだけでも楽しくはあったのだが、サビーナのためだけになにかを弾いてくれるのかと思うと、やはり嬉しくなった。サビーナはワクワクしながら椅子に腰を下ろす。


「セヴェリ様、この短期間でよくあんなにたくさんの曲を弾けるようになりましたね」

「実は学生時代に少しやったことがあるんですよ。父にあまりいい顔をされなかったので、続けられなかったんですけどね。なにかリクエストはありますか?」

「えーと……特に思い浮かばないので、お任せします」

「では、月光祭でよく演奏される曲をメドレーしましょうか。今宵はちょうど満月ですし」


 対面に座っているセヴェリは、二人の間の窓を見上げた。そこからは大きな月が、ポッカリと白く浮かんでいる。

 それを見た後、セヴェリは優しい笑みを浮かべながらギターを弾き始めた。そのアンゼルード特有の音楽に、サビーナは目を瞑る。

 故郷では誰でも知っている音の調べが、ひどく懐かしい。


 今日は月光祭だったんだな。

 今年の演舞は、誰がしたんだろ……


 本来なら、その役目はデニスとリカルドだった。サビーナは最前列に席を陣取って、それを見ているはずだったのだ。


 デニスさん、演舞が決まった時、すっごく喜んでたのに。

 今頃、どんな気分でいるんだろう……


 そう思うと耐え切れなくなり、立ち上がると窓の外の満月を見上げた。ギターは調べを変え、明るくも優しい曲になっている。

 青白い光を放つ大きな満月は、当時のことを思い起こさせた。

 デニスと手を繋いで祭りを周ったこと。

 彼の盛大な勘違いからお礼に髪留めをもらったこと。

 人混みにも関わらず、派手に告白されたこと。

 その告白のせいで驚くほど胸が苦しかったことを思い出すと、サビーナの胸は突き刺すような痛みに襲われる。

 デニスはおそらく、この月を見てはいないだろう。それとも鉄格子のついた窓くらいはあるのだろうか。どんな環境に彼がいるのかすら、わからない。わからないのだが──


 同じ月を、見てくれてるといいな……


 そう願って、サビーナは空を見上げ続けた。曲はさらに優しい調べへと変化させていて、柔らかな歌声も聞こえ始める。

 ふと振り向くとセヴェリがこちらに気付き、今にも消え入りそうな笑顔をサビーナに向けて歌っていた。


 セヴェリ様は、歌もお上手なんだな。


 低過ぎない、柔らかな低音が耳に心地いい。

 そっと目を閉じると、あの日の夜のことが鮮やかに頭に浮かんで来た。

 白く大きな満月が月見草を照らし、夜のどこか寂しげな風がゆっくり吹き抜けていたこと。

 その中で、サビーナはセヴェリと甘く優しく儚いキスを交わしたこと。

 初めてまともに交わしたキスの相手が、彼で良かった。あんなロマンチックなキスを演出してくれる人は、そうはいないだろう。

 サビーナはセヴェリに感謝した。お陰で素敵な思い出となって、心の宝箱に仕舞うことができたのだと。

 サビーナはゆっくりと目を開け、己の唇に指を当てた。あの時の感触を思い出すように。

 あの時の感情は、どんなものだっただろうか。自分でもよく覚えていなかったが、優しく触れられた唇は忘れられない。


 結婚式の日の口付けと同じ、ほんの少しだけ触れた唇は柔らく、温かなものだった。


 思い出しながら泳がせた視線は、自然とセヴェリの歌う唇へといってしまい、思わず顔を逸らす。

 サビーナの部屋での接触事故を、月見草の中での出来事を、村のみんなに祝福された結婚式を、明確に脳で再生されてしまったからだ。

 

「……どうしました?」


 音楽が途中で途切れて、そんな声が耳に届く。

 まさかキスしていたことを思い出していたとは言えず、サビーナは顔を背けたまま俯いた。

 するとセヴェリは少し戸惑うかのように間を置いてから、絞り出すように声を出す。


「デニスのことでも考えていたんですか?」


 的外れな答えに思わず顔を上げると、彼は胸が潰されたように苦しげに眉を寄せ、しかし口元はいつもと変わらず微笑んでいる。


「いえ、あの……」

「私もデニスのことを考えていたのですよ。デニスは私のせいで捕らわれてしまい……どう償っていいのか、わかりません」


 苦しげな顔と声は、彼が心の底からそう思っているのがよくわかる。しかしサビーナはそんなセヴェリに首を振って見せた。


「きっと、セヴェリ様の償いなんて求めてないと思います。デニスさんは、自分のすべきことを貫き通しただけですから」

「己の利を考えない男ですからね。自分のためだけに行動することなど、そうないんですよ。誰かのため、というのがまず先立つ。だから騙されやすいのですが」


 セヴェリが苦笑している姿は、手の掛かる生徒を慈しんでいるようにも見えた。

 セヴェリにとってデニスという男は、きっと特別な存在なのだろう。

 幼い頃からの互いを、熟知している間柄なのだ。よく女の子に虐められていたというデニスをセヴェリは助けていたらしいし、大人になってからのデニスはその恩を返すために、セヴェリに尽くしている。

 デニスが『誰かのために』と思う筆頭は、間違いなくセヴェリであると言っていい。

 彼がセヴェリをどれだけ大切に思っているか、サビーナはよく知っている。それこそ嫉妬をしてしまうくらいに、デニスはセヴェリのことを考えている。

 だから彼はあの時、こう言ったのだ。


 ──セヴェリ様がサビーナのことを好きなら、俺は身を引く。


 当然のように言ってのけたデニスが、実に彼らしいと思う。

 あの時、デニスが自分のためだけに動いていたなら、どうなっていただろうか。


 脳内でこんこんと考えていると、再び弾き始められていたギターは、いつの間にかアルペジオに変わっていた。

 祭りで使われる曲ではない。故郷を偲ぶ旋律のそれは、一音一音が溶けるようにサビーナの心に入り込んでくる。

 その曲が、あの後のデニスの行動を思い起こさせた。

 彼が、己のためだけにとった行動を。


 グンと抱き寄せられ、奪われるようにして重ねた唇。

 ほんの一瞬だったが、心臓が止まったかのように苦しくなったのを思い出す。そしてそれと共に、体の中だけでは抑えきれない感情が溢れ出した。

 当時の記憶と想いが、サビーナの体を震わせる。


 どうしてあの時、デニスさんとキスができて嬉しいって、言えなかったんだろ……っ


 自分の気持ちを伝えられなかったことを、激しく後悔した。

 もう二度と、彼に会えることはないだろう。

 気持ちを伝えることで、もしかしたらデニスを余計に苦しませることになったかもしれない。それでも、伝えておきたかったと思った。初めて抱いた気持ちを、彼に知っていてほしかった。


 今さら、だ……。


 サビーナの右目から、ポロリと涙が滑り降りた。

 セヴェリは(はじ)く弦を徐々に弱めている。やがて音が途切れると、ギターを壁に立て掛けて目の前にやってきた。

 そしてサビーナの涙を掬うようにして指で吹き上げてくれる。優しいその手つきに、サビーナの涙は余計に溢れ出てきてしまった。

 心を強く保たなければと思うほどに、誰かに頼りたくて、誰かに縋りたくて仕方がなくなる。

 両手をサビーナの頬に当てたセヴェリは、涙が溢れるたびに何度も何度も親指で拭ってくれる。

 そんなセヴェリの顔をじっと見つめていると、次第に涙は落ち着いてきた。彼の優しさは、サビーナに安心感を与えてくれていた。


「すみませんでした、もう大丈夫です」


 そう言うと、セヴェリは一瞬悲しげな顔をした後、サビーナを両腕で優しく包んでくれる。そして耳元で囁くようにこう言われた。


「あなたを幸せにしたい。誰より……」


 いきなりの言葉に、サビーナの心臓は鷲掴みされたようにギュッと痛みを発する。

 彼は、責任を取ってくれようとしているのだ。サビーナがセヴェリを幸せにしようと、奮闘しているのと同じように。こんな状況になってしまった己の責任を感じて、セヴェリはサビーナを幸せにしてくれようとしているだけに違いなかった。

 そこに、サビーナへの気持ちなど、本当は存在しなくても。


「サビーナ。私ではいけませんか?」

「駄目です」


 セヴェリの気持ちが理解できたサビーナは、即座に答えた。抱き締められているため顔は確認できないが、彼の腕はサビーナを強く締めつけている。そして、彼はもう一度言った。


「あなたを、振り向かせてみせます」

「……」


 その言葉と抱かれた腕の心地良さに、サビーナはなにも言えなくなった。しかし、心は泣いているかのようにしくしくと痛み続ける。

 心と体のちぐはぐさが、サビーナの頭を混乱させる。


 セヴェリ様には幸せになってもらわないといけないのに……

 私がセヴェリ様を頼っちゃ、絶対駄目……っ


 もしも今、セヴェリの優しい思惑に嵌ってしまえば、きっと一生後悔することになる。

 一時的な虚偽の幸せを手に入れたところで、追手に掛かる恐怖が消えるわけではない。もしも体を許して子どもができてしまっては、サビーナはそれをきっかけに全てを投げ出して逃げてしまうかもしれない。

 そう、セヴェリに子どもを押し付けて、彼を守ることさえも放棄して、この村から姿を消すことだって有り得てしまう。実の母親と同じように。

 そうなれば、セヴェリを待つものは地獄でしかないだろう。それだけは避けなければいけない。

 それなのに。

 サビーナは振り払わなければいけない腕から、抜け出せられなかった。

 この腕の中にいつまでもいられたなら。なにも考えずにいられたなら。優しさに甘えられたなら。

 今まであったことをすべて忘れられたなら、どれだけ幸せか。

 そう思えば思うほど、胸が嘆くような悲鳴を上げてくる。息ができず、ただセヴェリの胸に顔を押しつける。


「私は、サビーナを愛していますよ」


 穏やかな声が、サビーナの耳に飛び込んできた。

 脳を掻き混ぜられたように目の前がグルリと回り、足に力が入らなくなる。

 気を失いそうなほど酸欠になって、しかしそれでもサビーナは力の限りセヴェリを押し出した。


「サビーナ?」

「やめてくださいっ!!」


 ドンと押し出されたセヴェリは一歩後退し、押し出したサビーナはその反動でドスンと尻餅をつく。

 足に力が入らず、踏ん張りが利かなかったのだ。


「サビーナ、手を」

「やめてください!! やめてください!! やめてくださいっ!!」


 差し出された手を拒絶するように、サビーナは頭を抱えて(うずくま)った。セヴェリの手は、目の前から徐々に遠ざかっていく。


「私の言うことが、信じられませんか?」

「やめて、くだ、さ……」

「調子のいいことを言っているのはわかっています。けれどもう、過去は忘れて二人で一緒に生きていきましょう」


 なんという居心地の良い言葉だろうかと、陶酔しそうになった。しかしサビーナは、己の胸に剣を刺すようにして、現実に引き戻す。

 サビーナは座り込んだまま、真っ直ぐにセヴェリを見上げた。


「セヴェリ様は、過去を忘れられるのですか?」

「サビーナと一緒なら、忘れられます」

「私は……忘れられません……忘れちゃ、駄目なんです……」


 殺してしまったクラメルの騎士達のことを。捕らえられたデニスのことを。

 すべてを忘れて何事もなかったようになど、暮らせるはずもなかった。

 サビーナの言葉を受けて、セヴェリは考え込むように眉間に皺を寄せている。


「そう……ですね。私のために犠牲になった者を、忘れるわけにはいきませんね……」


 二人はデニスに思いを馳せて見つめ合った。

 悲しいくらいの切ない瞳は、雪山に取り残されてしまった子山羊のようだ。

 しかしセヴェリは一度強く瞬くと、その双眸は光を伴うものへと変わっていた。


「けれど、諦めませんから。私があなたを幸せにするまでは」

「セヴェリ様……」

「絶対に諦めません」


 己に言い聞かせるように断言するセヴェリに、サビーナは胸を痛める。

 この責任感の強さが、彼の幸せを遠のかせてしまっている。

 それがわかっているというのになにも答えられず、徐々に蝕まれているかのような心の痛みがサビーナを襲う。


「大切に、しますから」


 強い語調の真摯な態度から、今でも十分に大切にされていることがわかる。サビーナはその言葉を聞いて、もう一度ボロボロと涙を零し始めた。

 嬉しさと悲しさと切なさと申し訳なさと。

 色んな感情が渦巻いて処理し切れないでいるサビーナの頭を、セヴェリはいつまでも優しく撫で続けてくれた。

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