逃げた先
――お前たちは逃げ出した。
魔王軍に攻めこまれてすぐ聖王国へ亡命した父と母を、戦後トレシア首長国の新政府は受け入れなかった。
国土を守るべき立場にありながら真っ先に逃げ出した裏切り者である、との理由からだ。
仕方なく聖王国にとどまったものの余所者扱いされ続け、ここでも臆病者と蔑まれる始末。
べつに見返したかったわけではない。
そのつもりがあるなら、疾うの昔にやっていた。
父や母を恨んでもいない。
亡命したのは一人娘を案じてだと理解していたから。
目立たず騒がずひっそりと。
世界にさほど貢献もせず、大それた行いもせず、いずれ歳を重ねて死に至るまで世の片隅で過ごす気でいた。
その、つもりだったのに――。
マロゥとどんなふうに別れて、どの道を通ってきたかアウララは考える余裕がなかった。
来る。奴が来る。きっともう、すぐそこまで。
恐怖に駆られて走り続け、息が上がってきた。
苦しさから足を止め、大きく何度も呼吸を繰り返してから、不意に辺りを見回す。
(なん、で……? ワタシ、ここ……)
混乱しながらも、自分はただひとつの場所――今の自分が縋れる唯一のところへ向かっていたはずだ。
けれど、違う。
むしろ逆方向へ進んでいた。
うっすらと霧が漂う裏路地。
方向感覚を鈍らせるとともに、人除けの効果で辺りに人は誰もいない。
かつ、かつ、と。
これ見よがしに鳴らされた靴音に、アウララの心臓が驚きに跳ねた。
「どこへ行こうというのかね?」
落ち着いた感じの柔らかな声音にもかかわらず、自らの靴音を消し潰すような威圧感。
霧の中から現れたのは、シルクハットが特徴的な中年紳士だった。
ステッキを片手首に引っ掛けて、冷徹な笑みをアウララへ向ける。
見た目上、人以外の要素はない。
だからこれまでずっと、彼のことは人間だと信じて疑っていなかった。
恐怖で気が遠くなるのを堪え、アウララは声を絞り出す。
「ウプト、オマエは……、魔族……」
口にしたととたん、腰から力が抜けていった。膝を折り、口を押さえて吐き気を堪える。
「おやおや。今さら知ったかのような態度だが、君は薄々気づいていたろう? だからわざと証拠をいくつも残してきた。違うかね?」
「知らない……。ワタシはついさっきまで、オマエを信じて疑っていなかった……」
「ほう? では無意識に、か。そして何がきっかけかは不明だが、洗脳が解けてしまったのがついさっき、と。ふふふ、まったく――」
ウプトは手にしたステッキをくるりと回し、
「腹立たしい!」
ガキンッ、とステッキを地面に突き刺す。石で舗装された道が砕け、欠片がアウララの顔をかすめた。
「おっと失礼。つい興奮してしまった」
ウプトはこれ見よがしに肩を竦める。
「いやはや、人の心を操るのは難しい。君は無理に自分の心を偽っていたから、かなり深いところまで術式を食いこませることができたのだけどねえ」
「魔法で、ワタシを操っていたの……?」
「ふむ、『操る』というのは語弊があったかな。君は私の言葉を正しいと認識し、協力するのが当然だと思い込んでいたにすぎない。さすがに他者を思うまま操る魔法など、少なくとも今の世には存在しないからね」
ただ、とウプトは片眉を吊り上げる。
「君は実に扱いやすかった。心の奥底に押しやった欲望をちょっと刺激してあげたら、とても素直に従ってくれたからねえ」
「違う! ワタシに欲望なんて――」
あるはずがない。
ただ平凡に暮らしていけるだけの稼ぎがあればよく、ひっそりと死んでいくのが自分の望みだった。
「ああ、それだよ。欲望に無自覚だから――いや、欲望を無理に隠そうとするから綻びができる。君はね、悔しかったのさ。見返してやりたいと強く思った」
「ち、違――」
「違わないさ。では訊こう。学業成績を凡庸に抑えながら、宮廷魔法研究所に入ったのはどうしてかね? 平凡にただ暮らしたいなら、国内最高の研究機関に所属するのは矛盾していると思わないかなあ」
「そ、れは……」
「いずれ何らかの功績を上げて、故郷の連中や聖王国で君たち親子を虐げてきた者たちを見返したかったのだろう?」
「ぁ、ぅ……」
「まだあるぞ? 君に好意を寄せる他の研究室長と、つかず離れずの距離を保っているのはなぜだろうね。答えは簡単。いずれ利用したいと考えていたからさ」
自らの卑しさを暴かれ、アウララは髪を掻きむしる。
「どうやら覚えていないようだけどこのやり取り、実は二回目だよ?」
そのときはこうして心を抉られ、まんまと洗脳されてしまったらしい。
「もっとも、使い道のなくなった君をもう一度洗脳しようとは思わないけれどね」
ウプトはにたりとした笑みを浮かべる。
「最後に聞かせてはもらえないかな? 今、どんな気持ちなのかね? 故郷を蹂躙し尽くした憎き相手にこき使われた心境を、訊いてみたいものだね」
抉られる。壊される。悔しさと情けなさでいっぱいになった。
「もう、終わり……」
涙で視界がかすんでいく。
父と母の顔が頭に浮かび、心の底から申し訳ないと謝った。それでも――
「あはははっ! 終わりよ! ワタシも、オマエも!」
アウララは笑った。
恐怖を跳ねのけるように叫ぶ。
「だって悪いことをしたんだもの! 報いは当然受けるべきだわ」
「悪いことをしたのは君だけだ。私は我らの摂理に反せず活動しているのだから。『弱者は存分に利用する』というね」
ウプトがテーブルナイフをどこからともなく取り出した。
投げつけたのは一本だけなのに、いくつにも増えてアウララへ飛んでいく。
自分は死ぬ。それはいい。
ついさっきまでは無自覚だったが、自分はどうやらいろいろ布石を打っていたようだ。
(きっと、あの人なら気づいてくれる)
いや、おそらくはもう気づいている。
至高と謳われたその頭脳なら、自分が魔の手先だったとも知っているに違いない。
だから安心できる。
死ぬのは怖い。怖いけれど、自分は悪いことをしたのだから当然だと受け入れた。
ただ――。
(魔族に殺されるのは、悔しいな……)
諦念の中、ぎゅっと目をつむって身を強張らせた。
「……?」
しかし、まったく痛みが襲ってこない。
恐る恐る目を開くと、「ひっ!?」と変な声が出た。
目の前――空中に、無数のテーブルナイフが固定されている。鋭い刃先が自身の各所へ向けられているものの、そのすべては黒い霧のような紐のような妙なものに囚われていた。
「なぜ、貴様がここにいる……?」
ウプトの質問は、アウララの背後へ投げかけられたものだ。
またも恐る恐る、しかし期待も抱いて振り向けば。
「ひぃっ!?」
白目を剥いて息絶えたウプトがそこにいた。
そしてその頭を鷲掴みにしているのは、
「へえ、面白いな。姿どころか声や口調まで、こいつとまったく一緒じゃないか」
黒髪黒目の青年だった――。