第21話
ボールを止めた左手の平が、熱い。
神経の奥底に、焼きごてを当てられたような奇妙な感覚が残留している。
放課後の校門を出て、俺は早足で歩いていた。
夕暮れの通学路。
茜色に染まる空の下で、俺は何度も自分の左手を握りしめ、そして開く動作を繰り返していた。
(あの感覚……)
先ほどグラウンドで起きた出来事を反芻する。
時速百キロを超える硬球。死角からの飛来。
それに対して俺は、常人には知覚すらできない速度で捉え、反応していた。
あの瞬間、俺の脳内で弾けたスパークは、VRゲーム『ギャラクティック・フロンティア』の感覚そのものだった。
「……早く」
乾いた唇から、焦燥が漏れる。
早く帰りたい。
早くあのヘッドギアを被り、あの世界へ「ログイン」したい。
確かめなければならない。
この身体に起きている異変が、ゲームの中の感覚と同じなのか確かめたい。
俺は足を速めた。
いつもの大通りではなく、ショートカットのために裏道へと折れる。
古い商店街の裏手から、公園の脇を抜けるルートだ。
人通りは少ないが、今の俺には好都合だった。
誰とも顔を合わせたくない。
誰とも話したくない。
ただひたすらに、あの電子の海へダイブしたいという欲求だけが、俺の足を突き動かしていた。
***
錆びついたジャングルジムと、ペンキの剥げたベンチ。
住宅街の狭間に忘れ去られたような小さな公園に差し掛かった時だった。
視界の隅に、人影が映り込んだ。
「…………?」
最初は、ただの通行人だと思った。
だが、その立ち姿に既視感を覚え、俺は無意識に足を緩めた。
公園の入り口付近、一本の大きなケヤキの木の下。
夕闇に沈みかけた薄暗い場所に、一人の少女が立っていた。
肩まで切り揃えられた艶やかな黒髪。
真面目さを体現したような、かっちりとした制服の着こなし。
「夏川……?」
クラス委員長、夏川玲奈だった。
こんな場所で何をしているのか。
普段の彼女なら、寄り道などせずに真っ直ぐ家に帰っている時間帯のはずだ。
声をかけようとして、俺は口を閉じた。
彼女の様子がおかしい。
誰かと対峙している。
その相手は、薄汚れた灰色のパーカーを着た男だった。
フードを目深に被り、猫背で、ゆらゆらと頼りなく揺れている。
年齢は三十代くらいだろうか。
服装はだらしないが、体格はひょろ長い。
「……あの、すいません。私、急ぎますので」
風に乗って、夏川の硬い声が聞こえた。
いつもの凛とした響きの中に、隠しきれない怯えが混じっている。
彼女は一歩、後ずさりをした。
だが、男はそれに合わせるように一歩、距離を詰める。
「待って……待ってよ……」
男の声は、湿って粘りつくような不快な音だった。
呂律が回っていない。
酔っ払いか?
いや、それにしては空気が異様すぎる。
「君、きれいだね……きれいだ……」
「え……?」
「あそこに行かないと……俺が、バラバラになるんだ……」
支離滅裂な言葉。
焦点の合っていない瞳が、夏川の顔ではなく、その背後の虚空を見つめているように見えた。
ヤバい。
直感が警鐘を鳴らした。
あれは、関わってはいけないタイプの手合いだ。
普通なら、見なかったことにしてその場を去るか、あるいは警察に通報するのが正解だろう。
だが。
俺の足は、思考よりも先に地面を蹴っていた。
面倒事に巻き込まれたくない。
早く帰ってゲームがしたい。
そんな理性的な判断を、身体の芯から湧き上がる衝動が上書きしていく。
昨日のゲーム内での出来事。
NPCの少女ユイを助けた時の、あの感覚。
目の前で誰かがトラブルを抱えている状況を、俺は見て見ぬふりをできない。
「やめてください!」
男が夏川の腕を掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。
「おい」
俺は二人の間に割って入り、男の手首を掴むことなく、腕で払いのけた。
思ったよりも軽い手応え。
男はバランスを崩し、よろよろと数歩後退した。
「……アキナシ、くん?」
背後で、夏川が息を呑む気配がした。
俺は肩越しに彼女を一瞥する。
いつも俺を「ゲームばかりしているダメ人間」と睨みつけてくる委員長の瞳が、今は驚愕と安堵で見開かれている。
「大丈夫か、夏川」
「え、あ……う、うん。大丈夫、だけど……」
彼女の声が震えている。
無理もない。
こんな路地裏で、得体の知れない人間に絡まれれば、誰だってすくみ上がる。
「誰だ……お前……」
男が、低い唸り声を上げて顔を上げた。
フードの下から覗く瞳は、白目の部分が充血し、瞳孔が散大しているように見えた。
生気がない。
まるで、出来の悪いアンドロイドのような不気味さ。
「邪魔、するな……」
「アンタ、様子がおかしいぞ。それ以上変なことするなら警察を呼ぶぞ」
俺は極力冷静なトーンで告げた。
だが、男に言葉は通じなかった。
「バグが……」
「あ?」
「お前みたいなノイズが……僕の『接続』を邪魔するんだ……!」
男が激昂し、奇声を上げた。
その挙動は、人間というよりは、プログラムが暴走した機械のそれに近かった。
不規則で、予測不能な動き。
男の右手が、パーカーのポケットに突っ込まれる。
「消えろぉぉぉッ!」
絶叫と共に抜き放たれたのは、銀色に鈍く光る刃物だった。
包丁だ。
夕日を反射し、切っ先がギラリと輝く。
「きゃあぁッ!!」
夏川の悲鳴が、鼓膜を突き刺した。
彼女は腰を抜かしたのか、その場にへたり込んでしまう。
距離は二メートル。
男は包丁を逆手に持ち、狂った獣のように突っ込んでくる。
――普通なら。
ここで、思考が停止する。
恐怖で足がすくみ、心臓が早鐘を打ち、死のイメージが脳内を埋め尽くすはずだ。
ただのゲーム好きの高校生に、刃物を持った暴漢に対処する術などあるはずがない。
だが。
「…………」
俺の視界は、逆に冷え切っていた。
恐怖?
焦燥?
いいや、そんな感情ノイズは一切ない。
カチリ。
脳髄の奥で、またあの音がした。
スイッチが切り替わり、世界が変質する音。
蝉の声が遠のき、風のそよぎが止まる。
色彩が彩度を増し、情報の解像度が極限まで高まる。
男の動きが、スローモーションに見える。
振り上げられた右腕の角度。
包丁の刃が放つ輝き。
体重移動による重心の偏り。
筋肉の収縮。
遅い。
あまりにも、遅すぎる。
「春夏冬くん、逃げ――!」
夏川の叫び声が、スロー再生されたレコードのように間延びして聞こえる。
俺は逃げなかった。
逃げる必要性を感じなかった。
一歩、俺は男の懐へと踏み込む。
振り下ろされる刃の軌道が、赤いラインとなって空中に描かれる。
その未来を、俺はただなぞるように受け入れる。
心臓の鼓動すらも制御下に置かれた静寂の中で、俺の身体は動こうとしていた。