第22話
世界が、停止した。
否、正確には俺の知覚速度だけが、加速していた。
目の前には、銀色の刃。
狂気に満ちた男の顔。
口元から絞り出される絶叫の飛沫。
そして、背後で硬直する夏川玲奈の、引き攣った表情。
それら全てが、ゼリー状の空間に封じ込められたように、緩慢な動作で展開されている。
(……ああ、やっぱりだ)
死の凶器が眼前に迫っているというのに、俺の思考は氷のように冷徹で、そして異常なほどにクリアだった。
恐怖?
焦燥?
そんな感情は、浮かんでこなかった。
脳内で、パチパチと神経が接続されていく音がする。
視界に赤いラインが走る。
それは幻覚ではない。
俺の脳が、相手の筋肉の収縮、重心の移動、そして凶器の角度から瞬時に演算し、視覚情報として出力した「未来予測図」だ。
――『脅威』
――『行動予測:右斜め上からの袈裟懸け』
――『推奨対処:近接制圧』
脳裏に浮かぶシステムメッセージじみた思考。
俺は思わず、口元を歪めた。
笑ってしまいそうだった。
遅い。
遅すぎる。
『ギャラクティック・フロンティア』での体験に比べれば、この男のナイフなど、止まっているも同然だ。
雑魚モブ。
今の俺には、そうとしか認識できない。
(……不思議だ)
俺は、一歩を踏み出した。
スローモーションの世界の中で、俺の身体だけが、水を得た魚のように滑らかに駆動する。
***
男の腕が振り下ろされる。
その切っ先が俺の鼻先を掠める軌道を描く。
俺は首をわずかに左に傾けた。
最小限の動き。
ヒュッ、と風切り音が鼓膜を撫でる。
紙一重。
だが、絶対に当たらないという確信があるからこそできる、究極の見切り。
男の目が、驚愕に見開かれていくのが見えた。
刃物が空を切り、男の体勢が前のめりに崩れる。
大きな隙。
そこへ、俺は身体を滑り込ませた。
インファイト。
(直接、拳を叩き込む)
思考と同時に、肉体が自動的に最適解をなぞる。
俺の左手が、伸びきった男の手首を下から掬い上げるように捉えた。
強く掴むのではない。
相手の力のベクトルに逆らわず、添えるようにして軌道を外へと逸らす。
同時に、踏み込んだ右足で地面を砕くように踏ん張り、腰を回転させる。
生み出された運動エネルギーを、右肘一点に集約させる。
「がッ……!?」
ドゴォッ!!
鈍く、重い衝撃音が路地裏に響いた。
俺の右肘が、男の鳩尾に深々と突き刺さる。
コンパクトな一撃。
だが、その威力は人体の急所を的確に攻撃した。
男の肺から強制的に空気が吐き出され、苦悶の声すら上げられずに身体がくの字に折れ曲がる。
まだだ。
終わりではない。
俺の身体は、すでに次の動作へと移行している。
鳩尾に入れた右手を戻しながら、今度は男の右腕を絡め取る。
関節の可動域を無視した方向へ捻り上げるアームロック。
バキボキッ、と嫌な音が鳴った。
「あ、ぎゃああああっ!!」
カラン、と乾いた音がアスファルトに転がる。
激痛に耐えかねた男の手から、包丁が零れ落ちたのだ。
俺はそのまま男の身体を地面へと叩きつけた。
受け身も取れず、顔面から地面に激突する男。
俺はその背中に片膝を乗せ、捻じり上げた右腕をさらに締め上げる。
「う、うぐ、あああ……!」
男が涎と涙を垂れ流しながら呻く。
だが、俺の心には憐れみも、恐怖も、罪悪感すらも湧いてこなかった。
あるのは、ただ純粋な「達成感」だけ。
(……できた、できてしまった)
俺は、自分の両手を見下ろした。
震えはない。
心拍数は上がっているが、それは恐怖によるものではなく、スポーツの後のような心地よい高揚感だった。
イメージ通りだ。
脳内で描いた「動き」が、何一つ劣化することなく現実の肉体で再現された。
「は、はは……」
乾いた笑いが漏れた。
凄い。
凄すぎる。
もっとだ。
もっと動ける。
身体の奥底から、得体の知れない全能感がマグマのように噴き上がってくる。
それは、一種の酩酊状態にも似た、甘美な快楽だった。
***
「……あ、き……なし……?」
震える声が、俺の意識を現実へと引き戻した。
ハッとして顔を上げる。
夏川玲奈が、腰を抜かしたままこちらを見ていた。
その瞳は、大きく見開かれている。
助かった、という安堵。
自分を襲った男が倒されているという事実への驚愕。
そして何より――。
目の前にいる「春夏冬秋人」という存在に向けられた、驚き。
普段の教室で見る、背中を丸めてゲームの話ばかりしている冴えない春夏冬秋人。
その彼が、刃物を持った暴漢を一瞬で、しかも魔法のように鮮やかに制圧してしまった。
そのギャップが、極限状態の彼女の脳を揺さぶっていた。
「すごい……」
夏川の唇から、吐息のような言葉が漏れた。
「アキナシ……今の……何、したの……? 格闘技でもやってたの?」
怯えていない。
まるで映画のヒーローを見上げるような、畏怖と憧憬が入り混じった瞳。
今の俺は、彼女の目にどう映っているのだろうか。
返り血こそ浴びていないが、暴力を行使した直後の俺だ。
だというのに、彼女の瞳どこか熱を帯びているように見える。
その時。
ウゥゥゥゥゥゥ――……!
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
パトカーだ。
誰かが通報していたのか。
近づいてくる赤い回転灯の光が、路地裏の壁を赤く染め上げていく。
公園の入り口付近にも、野次馬が集まり始めている気配がする。
「何があったんだ」「誰か倒れてるぞ」「刃物だ!」というざわめき。
その現実的なノイズが耳に入った瞬間、俺の中にあった熱狂的な高揚感が急速に冷めていく。
「……ぐっ」
代わりに押し寄せてきたのは、立っているのもやっとというほどの、泥のような疲労感だった。
ズキン、と頭の奥が脈打つ。
頭蓋骨の中身が、熱を持って膨張しているような不快感。
膝が笑う。
筋肉の疲れではない。
神経と脳が、無理をしたという感覚。
強烈な虚脱感に、俺はその場に座り込みそうになった。
「ア、アキナシ……? 大丈夫?」
夏川が、心配そうに声をかけてくる。
俺は重たい頭を振ると、深く、長く溜息をついた。
動かなくなった膝の下の男から退き、よろめきながらもなんとか体勢を立て直す。
警察が来れば、事情聴取は免れない。
正当防衛とはいえ、相手を怪我させてしまったし、夏川も証言が必要になるだろう。
親への連絡、学校への報告。
数え切れないほどの「現実の手続き」が、俺を待ち受けている。
これから警察の事情聴取だのなんだのが待っていると思うと、気が遠くなる。
だがそれ以上に、この身体のダルさが恨めしい。
俺は夜空を見上げた。
一番星が、白く輝き始めている。
あの星の向こう側、電子の宇宙が俺を待っているというのに。
「今日はもう、ゲームできそうにないな……」
俺の呟きは、サイレンの音と野次馬の喧騒にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
ただ、夏川玲奈だけが、立ち上がった俺の背中を、信じられないものを見るような目で見つめ続けていた。