第36話
視界を埋め尽くしていた情報が、粒子となって霧散していく。
『ログアウトします』
無機質なシステム音声と共に、意識が急速に引き戻された。
プシュッ……。
ヘッドセット『Cerebrum-07』のロックが外れる微かな音が、静寂な部屋に響いた。
「……ふぅ」
俺は重いヘッドセットを外し、デスクの上に置いた。
途端に、現実の音が鼓膜を叩く。
エアコンの低い駆動音。
窓の外、遠くの道路を走るトラックの走行音。
そして、自分の荒い呼吸音。
つい数分前まで感じていた、鋼鉄の四肢を操る全能感はどこにもない。
アビスウォーカーを蹴散らし、宇宙空間を疾走していた『ナイトハウンド』の力は消え失せ、そこにいるのは、ただの高校生の肉体だけだった。
重い。
重力という鎖が、全身に絡みついているようだ。
俺は椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。
見慣れたシミのある天井。
ここには、命を狙う怪物もいなければ、背中を預ける仲間もいない。
平和で、退屈で、そして少しだけ寂しい「現実」だ。
ベッドへと移動しようと立ち上がった、その瞬間だった。
ギュルルルルル……!
腹の底から、雷鳴のような音が響き渡った。
同時に、強烈な空腹感が俺を襲う。
「……ッ、またか」
俺は机に手をつき、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
胃袋が内側から雑巾絞りされているような、猛烈な飢餓感。
指先が微かに震え、冷や汗が背中を伝う。
「……腹が、減った」
思考するよりも先に、本能がそう訴えていた。
補給が必要だ。
今すぐに。
俺はフラつく足取りで部屋を出た。
深夜二時過ぎ。
廊下は真っ暗だ。
俺は無意識のうちに、足音を消していた。
踵を浮かせ、体重移動を滑らかに行い、床板が軋む箇所を自然に避ける。
ステルスミッションで培った技術が、こんな日常の場面で発揮されていることに苦笑しながら、俺は一階の台所へと向かった。
台所に入り、冷蔵庫を開ける。
ブォン……というコンプレッサーの音と共に、庫内の白い光が暗闇に浮かび上がった。
その人工的な光が、やけに眩しく感じる。
俺は迷わず、扉ポケットにあった1.5リットルのコーラのボトルを掴み取った。
キャップを捻る。
プシュッ、と炭酸が抜ける小気味よい音。
そのままボトルに口をつけ、一気に煽った。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……!
黒い液体が喉を駆け下りる。
強烈な炭酸の刺激と、甘ったるい糖分が、乾いた身体に染み渡っていく。
脳が歓喜の声を上げるのが分かった。
急速に血糖値が上昇し、思考の霧が晴れていく。
「……生き返る」
俺はボトルの口を離し、大きく息を吐いた。
やはり、コーラは効く。
続けて、棚にあったポテトチップスの袋を開ける。
塩分と油分。
今の身体が渇望しているカロリーの塊だ。
俺はキッチンカウンターに寄りかかり、薄暗い台所でスナック菓子を貪り食った。
咀嚼音が、深夜の静寂に響く。
行儀が悪いことは承知の上だが、この背徳感もまた、夜食の醍醐味だ。
人心地ついたところで、俺はジャージのポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。
そういえば、ゲームに夢中で一日中放置していたことを思い出す。
画面をタップする。
ロック画面が点灯し、通知センターに一件のメッセージが表示されていた。
受信時刻は、数時間前。
差出人の名前を見て、俺は眉をひそめた。
『レオン』
ゲーム仲間の名前だ。
かつて、別のFPSゲームでクランを組んでいた腐れ縁。
反射神経とエイム力は化け物クラスで、何より性格が面白かった彼は最終的にストリーマーとして成功した。
あいつが、俺に何の用だ?
嫌な予感しかしない。
俺はポテトチップスをつまむ手を止め、メッセージアプリを開いた。
***
件名:緊急
本文:
アホのアキトへ
開催されるEスポーツの公式大会に、ウチのチームから欠員が出た。
食あたりだそうだ。
間抜けな話だろ?
助けてください。
ちなみに、チームメンバーには可愛い女の子(Vチューバー)もいます。
P.S
どうせ夏休みで暇だろ?
最高の思い出作ってやるよ。
レオン
***
「……なんだこりゃ」
文面を見て、俺は苦笑とも溜息ともつかない表情を浮かべた。
相変わらずだ。
人を「アホ」呼ばわりしておいて、次に「助けてください」と来る。
プライドが高いのか低いのか分からない、この支離滅裂なノリ。
だが、不思議と不快ではなかった。
命のやり取りをする殺伐とした『ギャラクティック・フロンティア』の世界から戻ってきた直後だからだろうか。
レオンの文面が、妙に心地よく、ホッとする。
「Eスポーツの大会、ねえ……」
俺はメッセージの下に添付されていたURLをタップした。
大会の公式サイトが表示される。
『Operation: Labyrinth ストリーマー大会イベント』
どうやら、近々リリース予定の新作VRゲームのお披露目を兼ねたイベントらしい。
ジャンルは「VR脱出系シューター」。
閉鎖された迷宮都市に潜入し、物資を回収して生還する。
対人戦(PvP)もあり、NPCのモンスターもあり。
死ねば装備を全ロストする、ハードコアな仕様。
「……脱出系シューターか」
俺は画面をスクロールしながら、口元の端を吊り上げた。
ついさっきまで、似たようなこと――もっと過酷な「脱出」をやってきたばかりだ。
物資回収、脱出、生存。
今の俺にとって、楽しめるジャンルのゲームだ。
可愛い女の子もちょっと気になる。
それに、レオンとの連携も久しぶりだ。
久々に騒がしくゲームをプレイするのも、悪くないかもしれない。
俺はコーラの残りを一気に飲み干すと、返信画面を開いた。
フリック入力で、短く打ち込む。
『バカのレオンへ 分かった。参加するよ』
送信ボタンを押す。
既読はつかない。
今は配信中か、寝ているのだろう。
俺は空になったペットボトルをゴミ箱に放り投げた。
カラン、と乾いた音が深夜の台所に響く。
どうやら今年の夏休みは、仮想と現実の両方で、退屈する暇はなさそうだ。
満たされた胃袋と、心地よい疲労感を感じながら、俺は自室へと戻る階段を上り始めた。