焦燥
ヴェルダン・スタール。
彼はエイルの親友だ。エイルよりも少し年上で、腕っぷしが強い。母親似のエイルとは違って、どちらかといえば父親似である。
受け継いだ血の影響なのか、ヴェルダンは年齢の割にどこか大人びている印象を受ける。
彼らは気が合うらしく、どちらから誘うでもなく、日常でも学び舎でも、自然と行動をともにするようになっていった。
エイルはヴェルダンのことを大切に思っていて、彼のことを信頼している。もし、誰かに背中を預ける必要があるとしたら、彼が適任だと思っている。
だが、親愛と同じくらい、少年は親友に対して、劣等感や嫉妬といった仄暗い感情を抱いていることを、彼自身は否定できない。
はたして、ヴェルダンは自分に背中を任せてくれるだろうか? そうは思えない、とエイルは密かに考えていた。
実際にはそんなことはなく、ただの少年の思い違いなのだが……。
少年の複雑な想いは、ヴェルダンへの執着を強くした。が、細かいことに言及する行為を嫌い、疑うことをあまり知らないヴェルダンは、エイルの異変をただ懐っこい程度にしか考えていなかった。
親友の声が聞こえてほっとしたのもつかの間、エイルはある事実に気がついてしまった。
……雑音?
つまり、僅かではあるが、妨害を食らっている。通話を乱すなにか、何者かがこの付近に存在するということだ。
エイルの背中を冷たい汗がつたう。
親友の様子がおかしいことに疑問を抱いたヴェルダンがエイルに呼びかける。
「……おい、返事がないぞ? どうした? エイル?」
エイルは、小声でヴェルダンに頼みを伝える。
「……あのさ。今から、僕のところに来れるかな?」
「今から?」
ヴェルダンの面食らった声が聞こえた。それから、彼は言った。
「お前、今日は誕生日だろ? こんな時間になにをしているんだよ? 今、どこだ?」
「穴の底。……それ以上はわからない」
「危険なのか?」
「たぶん」
「うーん、待てよ……」
なにかを考え込むヴェルダン。
頼む、応えてくれ……!
エイルは必死に願った。
「明日じゃ駄目か? 日が昇る前に行くからさ。穴の底なら、大きな獣も寄ってこないだろ?」
「それじゃ困る!」
今のエイルは必死だ。思わず、大きな声で反対してしまった。
自分が置かれた状況を思い出すと、少年は慌てて、手で口を押さえる。
少年は用心深く周囲の気配を探った。
……なにも来ない。よかった……。
少年は自分の迂闊さを反省しつつ、ほっとした。
まずい状況だ。ヴェルダンは乗り気じゃない。身の危険を伝えたら来てくれると思ったが、彼は、自分が夜の森が怖くて震えている、程度にしか思っていないのだろう。楽観的な判断を下されてしまった。
ヴェルダンには、この場所の恐ろしさが伝わっていない!
ヴェルダンが自分と同じ年齢の頃には、すでに彼は夜の森を平然と駆け巡っていた。そんな成長の差が、彼らのすれ違いを加速させているのだ。
それと、エイルは思い至らなかったが、ヴェルダンはエイルの強さを信頼していた。だから、そこらの大型の獣程度が親友を傷つけることなどできないだろうと確信をしていた。
しかし、今は、ヴェルダンが想像しているよりも、もっと危険な状況なのだ。
「なあ、エイル……」
ヴェルダンがエイルを諭すように切り出した。
「今日は親父が帰ってこないみたいなんだ。なんか、仕事で忙しいのかな? でも、おかしいよな? だから、俺だけでも家に残っていたいからさ……わかるだろ? 家を空っぽにしたくないんだ」
ああ、そうだ。今日は、ヴェルダンにとっても特別な意味を持つ日なのだ。
加えて、申し訳なさそうに言われてしまうと、いっそう立場が悪い。
「それは、わかってるけど……」
食い下がりたいが、エイルにこれ以上強く言い出す勇気はない。
そこで、少年は頼みの綱を持ち出した。
「ねえ、ヴェルダン。僕のお願いだ。聞いてくれないか?」
僕のお願い。ヴェルダンはその言葉に弱い。
きっかけは、なんだったのだろう。エイルは憶えていない。だが、いつからか、ヴェルダンは、エイルが僕のお願い、と言うと、必ず少年の頼みを聞いてくれるようになった。
とうとう最後の切り札を使ってしまった。これで駄目なら、もう望みはない。自分ひとりでなんとかするしかなくなる。
「あー……」
ヴェルダンが困ったように頭を掻いている様子が、連絡石越しに伝わっている。
すまない、ヴェルダン。本当に、ごめん。
エイルはそれだけ必死だった。
やがて、ヴェルダンが呟くように言った。
「……考えておく」
その言葉を最後に、連絡石の魔力が途切れた。
親友は、少年の頼みを受け入れてくれたのか? それとも、拒絶したのか? エイルにはわからない。
ただ、今は祈るしかなかった。
――!!!
突如、唸り声が聞こえた。今度は、はっきりと。気のせいなんかじゃない!
それは、通路全体を揺るがす、恐ろしい咆哮だった。
エイルは肌が粟立つ思いをした。
なにかがこちらに近づいてくるのがわかる。
足音はしない。気配もしない。ただ、とてつもなく嫌な予感が心の内で大きくなっていく、その奇妙な感覚でわかった。
訓練で鍛えたエイルの五感が全力で危機を訴えている。
それは徐々に近づいてくる。もう手遅れだ。相手は自分をはっきりと認識している。
……ヴェルダンの助けは期待しない。
エイルは覚悟を決めた。
通路の明かりが一斉に消える。
……!!
暗闇だ。太陽の魔法のおかげで、自分の近くだけはかろうじて明るい。
……が、それすらも、通路を這う闇に呑み込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。
そっと懐に連絡石をしまうと、エイルは両手でしっかりと剣を構えた。
完全な闇の中で、いっそう濃い影が揺らぐ。
なにかが、そこに、いる――。
エイルは唾を呑み込んだ。
来い。
強く、短い、口笛をひとつ吹いた。
これは挑発だ。
影がぬうっと正体をあらわした。
ああ、神様――。
姿を見せたのは、一匹の大きな虎のような獣だった。
ただの獣ではない。
その瞳は、煮えたぎる憎悪の炎を宿している。
悪魔の瞳を持つ存在。人はそれらを魔の者と呼ぶ。
エイルと魔の者が同時に咆哮する。
互いを敵と認めた証だ。
命を懸けた戦いが始まった。