第六十六話:芦屋冥道の章2:闇の門を開く者
宮中を揺るがす大事件が起こった日の夜、
冥道は独り、陰陽寮の一隅で、長き写経と呪式を終えた巻物を焼いていた。
「もう……こんなものに意味はない」
かつて、自分が信じてきた道。
呪の理を正しく学び、精緻に積み重ね、努力で真理に辿り着くという信念。
だが、何もかもが──遅すぎた。
安倍晴明はすでに宮廷随一の陰陽師となり、帝の信任も、都の民の尊敬も、その身に集めていた。
冥道のもとにも、忠義に厚い門弟たちはいた。だがそれも、影のように晴明の存在に隠れていく。
冥道を糾弾し、恐れ、排除しようとするものも多く現れ始めた。
冥道が育て、慈しんだ弟子が何者かの手により、命を落としたこともある。
裏で動いていたのは『元老院』。
かの老人たちにとって、安倍晴明は良い駒だったのだろう。
そして、冥道は邪魔と判断された。
冥道を取り巻く環境は、まさに生き地獄のようだった。
「何故だ!何故この世界は俺に牙を剥く!」
冥道は、物言わぬ姿となった愛弟子を抱き締めながら、天に向かって慟哭する。
「“才能”と“血”か……。俺には、そのどちらも足りぬというのか……」
闇が囁く。
“ならば、正道など捨てろ。すべての理の外にあるもの──異界の力を手に入れよ”
その声に、冥道は……応えた。
陰陽の境界を越えた呪式。
禁じられた式神の召喚。
命を対価とした力の媒介。
幾度も躊躇したはずの手が、今は迷いもせず筆を運び、血を混ぜ、呪を編む。
月夜の下、冥道は禁忌の書を開き、最初の“扉”をわずかに開いた。
異界の気が、現世に滲む。
空気が震え、草木が枯れ、周囲の小動物たちが次々と昏倒する。
だが冥道の目は、ただ静かに前を見つめていた。
「俺は、世界に選ばれなかった。ならば、俺がこの世界を選び直す」
その言葉の先に、かつての彼の面影はなかった。
やがて冥道のもとを去る者も現れた。
彼の異変に気づいた弟子が、涙ながらに止めようとした夜、冥道は言葉なくその者の魂を封じた。
愛しき者の想いが晴明に向いた日から、冥道の心は“救い”を探していた。
けれどその救いは、もはや光の中にはなかった。
冥道の呪式は次第に異界と結びつきを深め、
彼は“異界の理”を己の内に組み込むことで、人のまま妖の力を得ていく。
このとき、すでに彼は人ではなかった。
“道を外れた者”──
いや、“道を捨てた者”。
芦屋冥道は、完全に「邪道」へと堕ちた。
あるいは彼は、誰よりも純粋だったのかもしれない。
純粋で、陰陽道というものにたいして、純白だったのだろう。
白は転じて黒となる。
堕ちた彼が次に目をつけたのは、「癒しの巫女」と呼ばれる白鐘篝。
──その話は、また次章へと繋がる。