第46話 竜は嵐へ向かう
戦いはまだ終わっていなかった。
海獣の触腕が船縁に絡みつき、木材がぎしりと悲鳴を上げ、今にも裂けそうだった。
アッシュは剣を抜いて前に出る。
鋭い刃が一条の触腕を断ち切り、鮮血が甲板に飛び散る。火薬と潮の匂いが入り混じり、息苦しいほど濃く漂った。
だが、リメアは退かない。
逆に咆哮をあげて再び飛びかかる――鱗が炎と朝光を受けて輝き、瞳には純粋な戦意が宿っていた。
八腕の巨獣は怒号のような咆哮を放ち、海水を武器のように巻き上げ、触腕を重い風切り音とともに振り下ろす。
甲板が激しく震え、縄が「バン」と音を立てて切れた。
「魔導弩――撃て!」
フィリシアの声がすべての音を圧した。
幾本もの光の矢が空を裂き、海獣の巨体に突き刺さる。
だが岩のように分厚い外殻には焦げ跡しか残らず、致命傷には至らない。
リメアはその触腕の一本に食らいつき、翼を大きく打ち下ろす。
その勢いで怪物を半身、船から引き離し、水煙の中で再び吐息を放ち、触腕を焦げ断たせた。
アッシュはその隙を逃さず、目を細めて船縁に飛び上がり、閃光のような剣技で別の触腕を連続して断ち切る。
熱風と潮霧に囲まれた一瞬、彼の脳裏をかすめたのは――
彼女は、本当に守る者であろうとしている。
「リメア!」
アッシュが低く叫ぶ。
竜影が振り返り、青い瞳が混乱の中で彼と交わる。
そこには戦火のような光が燃えていた。
海獣が低い咆哮を上げ、血潮と波が混じり合って腥い赤の潮流となる。
巨口が再び大きく開かれ、甲板ごと船を呑み込もうと迫る。
その瞬間、アッシュとリメアはほぼ同時に飛び出した。
白い霧のような吐息と剣光が重なり、炎と刃が空気の中で交錯する。
それが一気に海獣の開いた巨口へ叩き込まれる。
刺すような白光が霧を裂き、耳をつんざく爆音とともに血と焦げた煙が海浪に散った。
海獣は苦悶の声を上げ、八本の触腕を乱れ振るい、脇の波峰を打ち砕いて水の壁を巻き起こす。
船がひっくり返りそうなほどの衝撃。
だが最終的に、その巨体は残骸を引きずりながら深海へと沈み、赤く泡立つ海だけを残した。
甲板は静まり返り、波が船体を叩く音だけが響く。
水夫たちはその血色の海面を呆然と見つめ、激しく上下する胸を押さえていた。
リメアは翼を振って甲板に戻り、荒い息を吐く。
アッシュは一歩近づき、彼女の首に手を添え、低く言う。
「……よくやった」
その囁きに、リメアの瞳から戦意が静かに消え、代わりに誇らしげな光が灯る。
「……本当に、これでいいと思ってるの?」
リゼリアが近づいてきた。声は海風のように冷たい。
「さっきまで『戦場から遠ざけたい』って言ってたじゃない。今は逆に、一番危ない場所に押し出してる」
アッシュは一瞬、言葉を失い、眉間に皺を寄せた。
何かを弁明しようとしたが、声は出なかった。
リメアが低く鳴き、そっと彼に身を寄せる。
その瞳は弱さではなく、頑なな願い――「仲間として、共に戦いたい」という光を宿していた。
空気が一瞬、張り詰める。
海風だけが甲板を駆け抜けた。
リゼリアはアッシュを見つめ、複雑な感情をその瞳に宿したまま口を開く。
「……あなたは、いつも彼女を戦場から遠ざけようとする」
声がふっと柔らかくなる。
「でも竜は、生まれた時から嵐へ飛び立つものなのよ」
彼女は唇をかみ、思わず心の内を漏らすように続けた。
「ただ……本当に飛んでいってしまう時には、誰かに引き止めてほしくなるの」
アッシュの息が微かに詰まった。
胸の奥を何かに撃ち抜かれたように、喉が強ばる。
だが彼は黙ったまま、リメアの首に添えた手に力を込める。
残光のような余韻が彼の目に映り、暗い色が裂け目から波打つように覗いた。
フィリシアは三人を見つめ、しばし沈黙した後、命じる。
「……残骸を片付けて。進路を続けなさい」
波濤はうねり、遠くの空はまだ灰色に沈んでいる。
本当の嵐は、まだもっと遠くに待っていた。