第47話 セラウィン港にて
数日後、セラウィン国の港がついに水平線に姿を現した。風を孕んだ帆が膨らみ、船体が揺れながら湾へと入っていく。
甲板にはなお戦いの焦げ跡と亀裂が残っていたが、船は無事に目的地へ辿り着いた。
港町の空には湿気を帯びた光が差し込み、空気には潮と強い香辛料の香りが混ざっている。
岸辺には各地からの商船が次々と着岸し、縄の軋みと板の擦れる音が途切れることなく響いていた。
異国の布や果実酒、黄金色に乾いたスパイスが並び、露店の鍋からは魚を焼く音がジリジリと立ちのぼり、熱気と共にスパイシーな香りが広がっていた。
喧噪と色彩に満ちたカスティアとは対照的に、ここはより秩序立っている。
細い路地は鮮やかな布で覆われ、子供たちがその下を走り回り、商人のラクダが鼻を鳴らして行き交う。
長旅の疲れを忘れさせるような、南方都市ならではの生命力が町中に満ちていた。
埠頭では人々の声が飛び交い、水夫たちは荷を下ろし、護衛たちは警戒を緩めない。
フィリシアは馬車の手配を命じ、「王都まではあと二日かかる」と説明し、港町で一夜を過ごすことを決めた。
宿に到着すると、従者が丁重に鍵を差し出す。
部屋数に限りがあり、結局アッシュとリゼリアは今回も同室となった。
フィリシアは少し眉をひそめ、何気ない口調で言う。
「船の中では部屋が足りなかったから仕方なかったけれど、今はもう別々にできますよ」
だがリゼリアは肩をすくめ、当然のように返す。
「気にしないわ。普段キャンプしてる時なんて部屋なんてないし」
アッシュも淡々とした声で続ける。
「魔女がどこで寝ようが、俺には関係ない」
その一言に、空気がふと微妙に揺らいだ。
夜、皆でテーブルを囲み食事をとった。
従者が焼き肉とスープを運ぶ中、アッシュは別に野菜と果物の皿を注文し、それをリゼリアの前に差し出した。
さらに、自分のパンを分けて彼女に渡す。
リゼリアは微笑みながらそれを受け取る。その動きは自然で、まるで日常の一部のようだった。
フィリシアは視線を伏せ、スプーンの先でそっと器の縁を叩く。
口には出さなかったが、心の中にはほんのわずかな痛みが走った。
「婚約者」であるはずの自分よりも、目の前にいる二人の方がずっと親密に見えたのだ。
責める言葉すら、彼女には浮かばなかった。
会話が一度途切れた食卓の空気を破るように、フィリシアが視線を上げる。
アッシュが何気なくリゼリアを「魔女」と呼んだのを聞き、その顔に僅かな疑問が浮かんだ。
「アッシュ……どうしていつも彼女のことをそう呼ぶの?《《魔女》》というのは、私たちにとって良い意味ではないのよ」
リゼリアは少し目を見開き、軽く冗談で返そうとしたが、アッシュの低い声がそれを遮った。
「――あの歌声のせいだ」
言葉を区切り、視線を落とす。
揺れる酒の水面を見つめながら、彼は続けた。
「戦場で……歌声が響いた。あの時、アエクセリオンは……あの後、制御を失った」
フィリシアは息を呑み、目を見開く。
「それって……リゼリアさんが、竜王の死に関係しているってこと?」
アッシュはすぐには答えず、むしろ問い返した。
その声は静かだが、鋼のように固い。
「真実を追っていたんだろ? あの戦場に、《《魔女》》の存在を誰も見ていなかったのか?」
「……魔女の歌声? そんな話、私は聞いたことがないわ」
フィリシアは戸惑いながら答える。
「でもそれが本当なら、余計に分からない……あなたたちは、なぜ今も一緒にいるの?」
リゼリアの瞳は笑っているようで、その奥に何かが隠れていた。
彼女はゆっくりとアッシュに顔を向け、口元に微笑を浮かべる。
「だって……彼は『いつ殺すかを、自分で選びたい』だけだから、でしょ?」
軽い口調だが、それはまるで心の奥をえぐる刃だった。
彼女はアッシュの答えを待たず、続ける。
「今は、まだ『利用価値』があるから、生かされてるだけよ」
「……利用価値?」
フィリシアが唇を引き結び、思わず聞き返す。
アッシュの声は低く、だが明確だった。
「彼女の歌は……竜を暴走させることも、魔獣を従わせることもできる」
フィリシアの目が見開かれる。
その言葉の重みに、思わず息を呑む。
「それって……まるで魔獣使いじゃない!」
「違う」
アッシュは首を横に振る。
その声は冷たく、断固としていた。
「魔獣使いは、魔獣を服従させるだけだ。
でも彼女は――言葉を通じて、魔獣と意思疎通ができる」
一瞬、食卓に沈黙が落ちた。
フィリシアは震える息を整えながら、言葉を紡ぐ。
「……信じがたい話だわ。どうやってそんなことが?」
リゼリアはただ目を細め、謎めいた笑みを浮かべて答える。
「だって、私は――魔女だから」
空気が一瞬にして凍りついた。
フィリシアはそのままリゼリアを見つめた。
まだ真実を探そうとするように、瞳が揺れていた。
だが、アッシュはただ静かにため息をついた。
もう慣れていたのだ。この女は、何もかもをこの一言で終わらせる。
――魔女。
この呼び名は、彼が最初に口にした時から、彼女自身に武器として使われている。
フィリシアは気付いた。
アッシュは軽く呼んでいるようで、実はその力を――存在を最初から認めていたのだ。
そして自分は……その当たり前の輪の外にいた。
短い沈黙が、三人の間に広がった。
揺れる蝋燭の灯が、彼らの影を長く、時に短く、揺らしていた。
フィリシアはスプーンを置き、表情を整えて言った。
「なるほど……それほどの秘密なら、大事に扱わないとね」
彼女は静かに目を上げ、アッシュとリゼリアの間に流れる空気を感じ取りながらも、顔には出さずに続けた。
「明朝、護衛と馬車の準備をします。王都まではあと二日。
そこに着けば、エミールも直接会いに来るでしょう。
箱のことも、真実も――その時に、はっきりさせましょう」
そう言って彼女は席を立ち、丁寧に二人へ一礼し、従者と共に去っていった。
広間にはアッシュ、リゼリア、そしてリメアだけが残った。
リゼリアは顎に手を添え、キラキラした目でアッシュを見つめながら、からかうように言った。
「……さっきのあなた、真実を暴こうとしてたっていうより、私のこと庇ってたように見えたわよ?」
アッシュはちらりと彼女を見て、淡々と返す。
「魔女。調子に乗るな」
だがそう言いながら、彼は自分の最後のパンをそっと彼女の前に滑らせた。
リゼリアは何も言わず、口角を上げながらそれを受け取ると、ゆっくりとひと口かじった。
その足元から、ひょいとリメアが鼻を伸ばしてきた。
青い瞳が食べ物をじっと見つめている。
リゼリアはそれに気づき、パンを半分ちぎってリメアに渡す。
リメアは嬉しそうに喉を鳴らし、しっぽをぱたぱたと動かした。
アッシュはそれを見ても、何も言わなかった。
ただ、目線を逸らしながら、まるでそれが当然の光景のように受け入れていた。