第54話 王城の影、揺らめく灯
部屋の空気が一瞬で張りつめた。
二人の視線がぶつかり合う中、ついにフィリシアが口を開く。
その声は静かだが、否応なく場を制する力があった。
「……もういい。今は言い合っている場合じゃない。」
彼女の視線が二人の間を往復し、やがてわずかに鋭くなる。
「どうやらあなたたち、すでに符釘を作っている連中と接触したことがあるのね?」
アッシュは短く息をつき、頷いた。
「……国境で、連邦の士官と共に動いた時、下っ端を一人捕らえた。
そいつはもとは王国の竜輔士だったが、今はその連中に仕えていた。……あの時、王国の内部にも関係者がいると疑っていた。」
フィリシアの眉がわずかに寄る。
「そう……それなら納得できるわ。魔獣を操る実験をしているのなら、最終目的は竜族の支配。
あの箱の中身こそ、その鍵。しかも王国が関わっているとしたら……それが国外に出て、再び戻ってきたのは偶然じゃない。」
彼女は視線を上げ、表情を引き締めた。
「でも、なぜそんな回りくどいことを? もし王国内部の誰かが主導しているなら、箱は国内に留めればいい。
……国外に流したのは、何かを試しているのか、それとも注意を逸らすためか。」
アッシュの表情が暗く沈む。
「……セドリックに会う機会があれば、聞くしかないな。あいつは何か知ってる。」
重苦しい沈黙の中、リメアがそっと頭をもたげた。
<……退屈。外に行きたい。>
リゼリアは思わず吹き出し、リメアの額の鱗を撫でた。
「今はダメよ。しばらく我慢して。」
アッシュは眉を寄せて振り向く。
「なぜ俺に直接言わない。」
リメアは小首を傾げ、尾をぱたんと打つ。
<だって、アッシュはいつも「ダメ」って言うもん。>
リゼリアは笑いをこらえきれず、肩を震わせた。
「だって、『どうせ許してくれない』って言ってるわ。」
アッシュは言葉を失い、さらに眉をひそめる。
フィリシアはその様子を見て、かすかに微笑み、そしてため息をついた。
「私が手を打つわ。……でも、しばらくは外出禁止。代わりに食事を用意させる。」
そう言いながら、彼女の視線がリメアに止まり、表情が一変する。
「……成長してるのね。」
アッシュのほうに向き直り、慎重な声音で続けた。
「このままだと、もう『リザード』とは呼べなくなるわ。」
言葉を区切ると、今度はリゼリアに目を向ける。
「……それにしても、あなた。今、彼女の言葉がわかるの?」
リゼリアは瞬きをし、さらりと笑った。
「まあ、少しだけね。」
軽やかな口調だったが、それ以上の説明はしない。
ただリメアの額にそっと手を置き、話題を流した。
フィリシアは小さく眉を寄せる。
「繫名者」でなければ理解できないはずの龍語を、人間の彼女が聞き取れる――
その違和感が、胸の奥に刺さる。
部屋の燭火が揺らぎ、筆の擦れる音だけが静かに響く。
フィリシアは一巻の報告書を机に置き、声を落とした。
「これはエミールが持ち込んだ記録よ。
アエクセリオンの遺体……本来は王家の墓所に送られるはずだったのに、最終的に北方へ運ばれた。」
「北方……?」
アッシュの眉が鋭く寄る。
指先が机を強く押し、白くなるほど力がこもった。
「……埋葬されたんじゃないのか?」
リゼリアは目を伏せ、震える声で呟く。
「埋葬、じゃない……。」
スカートの裾を握りしめ、怒りを押し殺すように続けた。
「利用するつもりよ……彼を。」
アッシュの瞳は漆黒に沈み、唇が硬く結ばれる。
言葉はなかったが、胸の奥で荒れる感情が痛いほど伝わる。
長い沈黙のあと、掠れた声が漏れた。
「……でも、アエクセリオンはもう死んでる。」
「死んでても、利用される。」
リゼリアが顔を上げる。その瞳は涙を含んで光っていた。
「……そんなの、あなたは黙っていられるの?」
アッシュの息が止まる。
理性が「戻るな」と告げるのに、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「死者を弄ぶなんて、許せない。」
リゼリアの声は震えていたが、決意に満ちていた。
「あなたが言えないなら、代わりに私が言う。」
アッシュの瞳が見開かれ、二人の視線が交錯する。
その間に張り詰めた何かが、今にも裂けそうだった。
「……じゃあ、俺にどうしろと言うんだ。」
掠れた声が低く漏れる。
胸の奥で、怒りと絶望がせめぎ合う。
リゼリアは唇を開きかけたが、何も言えずに閉じる。
アッシュの指は机を握り締め、白く変わる。
――沈黙。
「……もうやめましょう。」
フィリシアが小さく息を吐き、静かな声で割り込む。
彼女は書類を閉じ、話題を切り替えた。
「今夜、王城で舞踏会が開かれるわ。
私以外の貴族、使節、そして竜騎士たちも全員出席する。……エミールもね。」
アッシュがわずかに眉を動かし、黙って彼女を見る。
リゼリアも視線を落とし、指先でスカートの裾をいじった。
「つまり、王城中の視線が大広間に集まるということ。」
フィリシアは二人に向き直り、意味ありげに微笑んだ。
「……もし外に出たいなら、今夜がいちばん安全な時間よ。」
その一言で、重苦しかった空気が少しほどける。
リゼリアの瞳が輝き、待っていたかのように手を叩いた。
「やった! ようやく外の空気が吸える! ねえ、城下町に行きましょう?」
<城下町?>
リメアがぱっと顔を上げ、瞳をきらきらさせる。
<おいしいもの、ある?>
フィリシアは苦笑し、肩をすくめた。
「……いいけれど、気をつけて。くれぐれも目立たないようにね。」
アッシュはしばらく黙って二人を見ていたが、やがて小さく息をつく。
「……気晴らしには、いいかもな。」
殿外の鐘が鳴り、夜の空に重く響いた。
華やかな舞踏会の幕が上がろうとしている。
だが、その光の裏で――
もう一つの夜が、静かに始まろうとしていた。