第55話 聖堂前、交わる刃
夜の帳が降り、城下町は灯に満ちていた。
市井の喧噪は王城の厳めしさとはまるで別世界。呼び込みの声、楽の音、子どもたちの笑い声が折り重なって響く。
リメアは嬉しさを隠しきれず、あちこちへと駆け回る。飴の屋台で目を丸くし、角の曲芸に気を取られ、尻尾でりんご籠をひっくり返しかけて、店主を慌てさせた。
リゼリアは手綱を引きながら笑って謝り、ついでに蜜漬けの果実を袋ごと買ってリメアに渡す。
「ゆっくり。走り回るな」
アッシュが低くたしなめる。
言い終えるより早く、リメアは果実をくわえて目を細め、リゼリアは悪戯が成功した少女のように笑った。灯に照らされたその瞳は、いつもより明るく見えた。
アッシュは二人の少し後ろを歩く。歩調は自然と半拍ほど遅くなる。
――あまりに無垢で、遠い昔になくしたもののようだ。
だがこの静けさが、脆すぎることも、彼は知っている。
広場を抜けたところで、アッシュはふと足を止めた。
前方に白い小さな聖堂がそびえ、尖塔は夜空を指している。入口には銀白の聖女の聖徽が掲げられ、灯に照らされた像は慈しげでありながら、近寄り難い威厳を帯びていた。
リゼリアは立ち止まり、しばし見上げ、口の端を冷たく上げる。
「この世界は、人と竜と聖女の三つで守られてきた――はずなのに。彼らの言い分では、神の化身は聖女だけ」
声は低いが、棘を含んでいた。
「竜も、魔物も? 全部呪いに変えられる」
「……国には、それぞれの信仰がある」
アッシュは静かに言う。
「誰もがあなたみたいに寛容じゃないのよ」
リゼリアの眼差しが冷える。
「セラフィア教国は昔から他派を異端と断じる。布教だけじゃない、圧もかける」
彼女はふと横顔を向け、何気ない調子で探る。
「――アエクセリオンの死、教国が絡んでると思う?」
アッシュは眉を寄せ、短く沈黙してから低く返した。
「……そんな簡単に背負わせられるなら、楽でいい」
風が過ぎ、蝋の灯が揺れる。聖堂の影が石道に長く伸び、越え難い裂け目のように横たわった。
リメアは目を細め、低く鳴く。
【……ここ、きらい】
アッシュは首のあたりに手を置き、聖徽に一瞥をくれてわずかに眉をひそめる。
その時、甲冑が擦れる音が鳴った。
聖堂の扉から、ひとりの女騎士が姿を現す。長身、金茶の髪を高く束ね、剣のように鋭い目。白の甲冑は月光を返し、胸甲にはセラフィアの聖徽。
腰の剣が抜かれる音が冷たく響いた。
「……《《魔女》》リゼリア」
名を切り捨てるように言い放つや、影がはじけ、鋒はまっすぐに走った。
だが、刃が落ちる前に、一つの影がリゼリアの前に割って入った。
金属の衝突音が夜気を震わせる――アッシュの剣が、白い閃きを受け止めていた。
刃が交わった瞬間、白甲の女の目がかすかに揺らぐ。
フードの陰に見えた鋭い顔、その輪郭に、彼女は息を呑み、表情を崩す。
「あなた……!」
押し殺した声には、驚きとも憤りともつかない色が混じっていた。
アッシュは冷ややかに目を細め、剣圧を押し下げる。
「大通りで、何をする気だ」
周囲の民が悲鳴を上げ、後ずさる。場の空気が一気に張り詰める。
女騎士はわずかに顔色を変え、素早く剣をおさめた。
そして一歩前に出て、通りに高らかに宣言する。
「我はセラフィア教国・聖女騎士セイフィナ。――聖女の加護、この地の民にあれ」
剣を胸に横たえ、祈りの形を示す。
人々は何も言えず、たちまち蜘蛛の子を散らすように去っていった。
セイフィナはすぐに向き直り、氷刃のような視線を投げる。
「魔女。聖の庇護の前に、退きなさい」
その時、彼女の目がぴたりと止まった。
「……それは――《《竜》》?」
リメアに釘付けになる。憤怒と嫌悪の色が閃いた。
アッシュは目を伏せ、リゼリアへ小さく問う。
「知り合いか」
リゼリアは目を伏せ、口元を引き結ぶ。すぐには答えず、ややあって、低く。
「……まあ、そうね」
セイフィナは再び剣を抜き、清冽な声で突きつけた。
「魔女、聖女騎士の裁きを受けなさい!」
アッシュは鼻で笑い、剣を収めると、逆手でリゼリアの手首を取った。
「戯言だ。他国で勝手はするな」
言葉と同時に踵を返し、リゼリアとリメアを促して足早にその場を離れる。
背後で、セイフィナの視線が焼けつくように三人の背を追った。