第56話 夜風に交わる誓い
アッシュはリゼリアの手を掴んだまま歩き続けていた。
賑わいの声が次第に遠のき、路地には風の音だけが残る。
リゼリアがふと立ち止まり、軽く手を振って笑う。
「……さっきは助けてくれて、ありがと。」
彼女はそっと手を引き抜く。掌には、まだ彼の体温が残っていた。
アッシュは険しい顔のまま、低い声で言った。
「王国には『聖女教』なんてない。……教国のことは詳しく知らなかったが、あそこまで横暴とはな。」
リゼリアは肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「だって私は魔女よ。狙われて当然でしょ?」
アッシュは眉をひそめ、しばらく彼女を見つめた後、口を開く。
「……お前をそう呼ぶのが、俺だけじゃなかったとはな。」
リゼリアは一瞬きょとんとしたが、すぐに唇を吊り上げた。
「なに? 《《魔女》》って呼ぶのはあなただけの特権だと思ってたの?」
アッシュは答えず、ただ真っすぐに見つめ返す。
その眼差しは、灯のように静かに燃えていて、彼女の胸の奥をざわつかせた。
リゼリアは視線をそらし、わざと軽い調子で問いかける。
「聞かないの?」
「何を。」
「私と教国の関係。」
笑ってはいたが、その声にはわずかに硬さが混じっていた。
アッシュの口角がわずかに動く。だが、次の言葉は冷たかった。
「……お前がさっき言った『アエクセリオンの死と教国の関係』。それは――お前自身が関わっているからか?」
言葉が落ちた瞬間、空気が鋭く裂ける。
リゼリアは一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「……もしそうだと言ったら、どうする?」
アッシュはしばし沈黙し、やがて低く問い返す。
「リゼリア。お前はいったい、何を考えてる。」
リゼリアは足を止め、横目で彼を見た。
一瞬、彼女の瞳に怯えのような光がよぎる。だがすぐに唇を吊り上げ、冗談めかして言う。
「急にそんな真面目なこと言うなんて……びっくりした。告白でもされるのかと思ったわ。」
アッシュは無言で見つめ続ける。
黒い瞳に射抜かれるようで、リゼリアは息を整えようとしたが、笑みが少しだけ崩れた。
「……はぐらかすな。」
彼の声は低く、抑えきれない焦りと、言葉にできない執念が滲んでいた。
リゼリアのまなざしがわずかに揺れ、冗談の色が消えていく。
そして静かに問い返した。
「じゃあ、私からも聞くわ。――『リメアを東へ連れていく』って考え、どこから来たの?」
アッシュは少しの間を置いて、掠れた声で答える。
「……アエクセリオンの遺言だ。」
指先が震える。視線はリメアに落ちた。
「……リメアには戦場から離れて、生き延びてほしい。それが、あいつの望みだと思った。」
【でも、いや。】
リメアが口を開いた。銀青の瞳が真っすぐに光る。
【あたし、アッシュと戦いたい。ひとりで生き残っても、意味がない。もし他の竜が危ないなら、助けたい!】
アッシュは目を見開いた。
胸の奥で何かが音を立てる。
リメアはリゼリアに向き直り、低く鳴いた。
アッシュには言葉の意味は分からない。だが、二人の間に流れる意思だけは伝わってくる。
リゼリアは静かに頷き、目を細めた。
そしてアッシュを見据え、穏やかだが鋭い声で言う。
「ノアディス。あなたが本当に恐れているのは、戦場じゃない。――リメアがアエクセリオンのように、あなたの目の前で倒れることよ。」
アッシュの喉が詰まり、指先が強張る。
「……それだけは、絶対に嫌だ。」
リゼリアの瞳が微かに光る。
「だったら逃げないで。リメアを連れて逃げるだけじゃなくて、竜たち全部を《《解放する》》の。
それこそが、アエクセリオンがあなたにリメアを託した理由。」
アッシュは彼女を見つめた。驚きと戸惑いが胸を渦巻く。
脳裏を、血に染まった戦場と、アエクセリオンの最後の姿がよぎる。
けれどその光景の向こうに、リメアの瞳が重なった。
恐れではなく、ただまっすぐな願い――「共に在る」という意志。
胸の奥が痛いほどに締めつけられる。
呼吸が乱れながらも、彼は必死に感情を押し殺す。
「……お前の言葉は、魔女の呪いのようだ。」
吐き出した声は冷たく震えていた。
重い沈黙が落ちる。
リメアがそっと近づき、鼻先でアッシュの手を押した。
淡い銀に青の光を宿した瞳が、優しく彼を映している。
アッシュは息を詰め、やがてその頭を撫でた。
鱗の感触が掌に伝わり、胸の痛みが少しだけ和らぐ。
リゼリアはその様子を黙って見つめ、微かに笑うと背を向けた。
夜の闇がその表情を隠す。
遠く、城下町の灯が風に揺れている。喧噪はもう届かない。
「……戻ろう。」
アッシュが静かに言った。
煌めきとざわめきを背に、三人は再び王城への石段を登っていく。
夜は深く、彼らの言葉も感情も、闇の奥に溶けていった。