第六十七話 死と再生の導き
街の奥へ歩みを進めるほど、霧の帳はゆっくり薄れ、森の奥に響いていた細かな音が遠ざかっていく。
それでもまだ、小川のせせらぎや湿った苔の香りはこの指先にわずかに残っていた。
歩くたびに光の粒子がふわりと舞い上がる。
さっきまでいた森の幻境と同じ世界の秒針がそのまま続いているみたいだった……。
「ねえ、ララちゃん……」
霧を撫でるようにお姉ちゃんの声が届く。
私にだけ向けられる、いつもの柔らかな微笑み。
私は頷き、石畳の路地へ踏み入った。
舗石の下に眠る大地から微かに感じる清らかな気配の鼓動――聖なる理の息吹に違いない。
――霧に沈む大樹の都『ブッシュドノエル』。
その生活には祈りと信仰が寄り添い、魔石と精霊の願いが空気の中に溶け込むように漂っていた。
形式的。でも、周囲の人々の所作は驚くほど静謐。
この街では『振る舞い』そのものが結界の一部のように機能している感じがする。
前に出たニアが、たゆたう霧にそっと指を伸ばす。
その瞳の奥に宿る鋭い感応。それは、森で見せたものと同じ――。
彼女が触れた空間に走る鋭く短い振動。
穢れの残滓はまだ沈みきっていない――それは、その揺らぎの合図。
広場へ続くアーチを抜けると、霧に包まれた清閑な噴水が現れた。
周囲の木造建築はどれも深い祈りを抱いたような意匠で統一され、軒先の風鈴が淡く鳴る。
水面には、天冥の樹を象った古い刻印。
太古の梢の記憶が、この地に息づき続けている証のようだった。
「この街は、霧に守られているみたいだね」
控えめに響くお姉ちゃんの声と共に、私の背に重なる温かな手。
先の見えない不安が募るなか、ここだけが柔らかく守られているような安心感――そんな感覚が、私の心を満たしていく。
通りを渡ると、古い紋章が刻まれた壁が目に入った。
渦を描く線と小さな球――、それはまるで魔石と精霊の調和を象る紋のよう。
触れれば何かに共鳴してしまう。
そんな気がして、伸ばしかけた手を私はそっと止めた。
そのとき、背後から低い声がかかった。
「旅の人……? ようこそ」
振り返ると、灰銀の髪を肩に垂らした女性が立っていた。
薄い外套、静かな青灰の瞳。
手にしているのは、魔導器とも祈祷具ともつかない板状の器具。光の流れが自然と霧へ溶けていく。
霧と魔導の境界を歩く者――そういう印象がふと思い浮かんだ。
「案内してくれるの?」
お姉ちゃんが尋ねると、女性は小さく頷いた。
「フィリエル。外来者の応対をしている。記録の登録と……必要なら研究街の案内もできる」
名はフィリエル。
感情を表に出さないのに、柔らかい雰囲気を持っている。
深い霧に微睡む光の筋も、まるで彼女を中心に気配を鎮めて呼吸をしているかのようだった。
見た目と性格のギャップから女性というよりも、少女? といった感じさえする。
凄く不思議……。
本人の説明では、彼女は “ 天冥の樹 ” を守る巫女のひとりで、古代語の詠唱を使い、記憶と魂の回廊を読む者らしい。
街で出会ったその少女――フィリエルに案内された私たちは訪問登録を済ませた。
登録を終えると、彼女が言った。
「この街には、穢れを扱う者たちがいる。彼らは古い理に基づく浄化を守る者。……もし干渉があるのなら、彼らの記録が手助けになる」
「記録……か」
ニアが小さく呟く。
「そこから探るしかないな」
その瞬間、霧の震動に呼応するように振れる黒い影。
息を潜め、こちらを見つめる視線。
冷たい視線が背筋を撫で、空気が張りつめる。
その凛とした気配に、思わず息を飲む。
影はほんの一瞬、確かにこちらを刺すように見つめていた。
そのあとすぐに、霧の中へ滑るように消えている……。
――次の試練の予兆かもしれない。
「街の……監視役?」
お姉ちゃんの囁きに、私の胸が少しだけ強く鳴った。
今は、まだ気付かないふり……が、正解。
周囲に警戒しつつ慎重に行動しよう。
何事もなかったかのように、フィリエルは静かに歩を進める。
「まず中央の書庫へ。クラウディア――彼女が封環の記録を管理している。外来者には厳しい……。けど、理由あってのことだから……。最近、街の結界に……小さな歪みがあるらしい。でも、フィリエルにはよくわからない」
霧を透かした噴水が、星のような光を返す。
その光を見つめ、私は小さく息を吸った。
『分かった。行こう』
――そして、クラウディアの待つ書庫へ。
巫女の少女に導かれて歩くたび、霧が静かに形を変え、街の輪郭が短く振れる。
それはまるで、生きた街が紡ぐ記憶が何度も上書きされていくかのような変化の欠片。
白い層の向こう側に聞こえた誰かが記録を綴る音――。
思わず足が止まり、私は振り返る。
けれど、そこにはただ霧が漂っているだけ。
気配はどこにもない。
「大丈夫……図書館は、もうすぐ」
その言葉に背中を押されるように歩みを戻す。
足音が霧に吸い込まれていく。
いつものように明るく話すお姉ちゃんも、この街ではどこか声を抑えていて——。
ざわめく心の奥で、静寂に包まれた街の境界がゆっくりと広がっていく感覚。
霧の都の深層は、ここから始まる。