第六十八話 大書庫アーカ・ルミナ
白い揺らぎが、ひっそりと流れていた。
ティラミスの蒸気とは異なる、どこか冷たく澄んだ霧。
揺らぎは優しい光を纏いながらブッシュドノエルの街路をゆっくりと外遊し、魔導灯の明滅を柔らかく包み込んでいる。
緩やかな石畳の道を進む私たち。
露で濡れた足元は滑りやすく、魔力で足元を安定させながら慎重にフィリエルの後ろに付いて行く――。
「気を付けて、ララちゃん。ここの石は、歩く者から魔力を吸うように加工されているらしいよ……」
「……吸う?」
「そう、ただの石じゃないみたい。街そのものが “ 循環炉 ” として動いているって街の人に聞いた」
お姉ちゃんはそう言いながら、手袋越しに足元の石をなぞった。
霧の粒子が彼女の指先で微かに光り、青白い符が一瞬だけ浮かんで消える。
「魔術に長けた大陸ならではの技術?」
「……正確には少し違う。この地では絶えず浄化の魔流にさらされる。ここではあらゆるものが自然のなかで同じ性質を帯びていく……」
フィリエルが私の問いに答えてくれた。
それでも、直ぐに理解するのには難しい。
もう少し分かりやすく教えてもらおう。
「どういうこと?」
「森で汚れた靴や床をよく見てみるといい……」
「うわぁ、ララ凄いぞ! ピカピカ!」
ニアがはしゃぐのも分かる。
新品のような光沢を放つ靴。
磨かれたかのように綺麗な舗装された道。
そのどれもが、まるで聖なる力に満ちているかのように清らか。
「この石や大気は、生きる者の魔力を微量に吸う。代わりに、自分の性質を施した魔力を吸った者に戻すという性質を持っている」
フィリエルの言葉の意味が理解できた……気がする。
ここでは浄化の魔流も生きているに違いない。
ティラミスの機構仕掛けの街とは違う生活の基盤――『魔術』。
街灯も噴水も、風に揺れる花さえも、微弱な魔力の循環に従って規則正しく動いている。
その律動の中にいると、不思議と心が穏やかになる。
だけど、同時にどこか “ 閉じた世界 ” に足を踏み入れたような圧迫感――。
ニアが、私の腕に小さく触れた。
深く先の見えない視界の中に透明な光の粒が瞬き、精霊の姿がぼんやりと浮かび上がる。
いつもと変わらぬ穏やかさを保った瞳の底。
確実に感じる濁りの色。
ニアの穢れにこの地を巡る浄化の魔力が一体どのように作用するか……。
謎は霧のように深まるばかり。掴みようがない……。
「……ニア?」
呼びかけても、返事がない。
ニアはただ、霧の奥に伸びる高い建物をじっと見上げていた。
そこにあったのは、街の中央に佇むブッシュドノエルの象徴――大書庫『アーカ・ルミナ』。
霧の中に浮かぶ塔のような建造物。
外壁には古い魔術紋章と金属の刻印が散りばめられている。
光を集めるための魔晶窓が幾層にも重なり、霧を透かして淡く輝いていた。
「ここが、リエージュの知の中枢……」
私は息を呑んだ。
重苦しい空気に言葉が溶けて消えていく。
読書好きの私の好奇心を擽る高揚感。
ニアの穢れを浄化するという使命感。
錯綜する私の想いだけがこの場所に留まっている。
ティラミスでは科学と魔導が交差していた。
でも、この国では『知』そのものが、信仰に等しい。
私たちの目的は、浄化の力と穢れの真相を掴むこと。
ほんの少しだけ――その核心に近付けた気がした……。
霧の奥から足音が響いた。
軽やかな音階を奏でる足取り。
振り向くと、ひとりの女性がこちらに歩み寄ってくる。
長い冥色の髪を後ろでまとめ、手に数冊の古書を抱えていた。
「旅人……? 珍しい」
静まり返った空間に彼女の澄んだ声が鈴のように響いた。
私は思わず頭を下げた。
「フィリエルに大書庫まで案内してもらったところ……」
「そう。フィリエルに。フィリエル、ご苦労様」
「うん。クラウディア……。後は任せた」
フィリエルにクラウディアと呼ばれた女性は微笑んで、書庫の扉へと視線を向けた。
霧を裂くように、重厚な扉がゆっくりと開いていく。
内側から溢れる柔らかい魔光が、私たちの足元を照らした。
――その光の奥に、待っている何か。
期待と不安。
それぞれが想いを胸に、知が眠る書庫へと足を踏み入れて行く。