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「そういえば……さっき、ルカが初めて歩いたんです」
私がぽつりとそう言うと、女将さんたちが一斉にこちらを振り向いた。
「えっ、ほんと?」
「まぁ、もうそんなに大きくなったのねぇ!」
思わず私も頬がゆるむ。さっきのことを思い出して、胸がじんわりと温かくなる。
「しかも……そのとき、レオン団長の方に向かって歩いていって……“パパ”って」
「……パパ!?」
声を揃えた女将さんたちの目が、みるみるうちに潤んでいく。
そして数秒後――
「なにそれ、尊い!!」
「それ、もう完全にお父さんじゃないの!」
「も~! エルナちゃん、あんたたち、もう一緒になっちゃいなさいよ!」
あまりの勢いに、私は思わずたじろいだ。
「え、えっ? ちょ、ちょっと待ってください……!」
言いかけた言葉が途中でつかえてしまう。
そのとき、ひとりの女将さんが、ふっと笑った。
「……言われたんでしょ?」
「な、なにをですか……?」
ごく自然に返したつもりだったけれど、自分の声が少し裏返っていた。
「とぼけたってダメよ。団長さん、前に私たちに言ってたもの。“ちゃんと気持ちを伝えたい”って」
「えっ……そんな……」
頬が一気に熱くなる。知られていないと思っていたのに。
けれど女将さんたちは、どこまでも優しい目で私を見ていた。
「ルカちゃんも懐いているし、レオン団長が父親なら、ルカちゃんだってきっと幸せよ?」
「子育ても家事も協力的で、気遣いも完璧。エルナちゃん、すっごく愛されているからね?」
「それでいて王都騎士団長で、侯爵様で……そんな人、そうそういないってば」
本気の説得に、私はそっと視線を逸らした。
ふと目に映ったのは、おやつを食べ終えたルカとアルトが、レオン団長に絵本を読んでもらっている穏やかな光景だった。
団長の膝の上で夢中になってページをのぞき込むルカと、その隣で体を預けるように寝そべるアルト。
まるで穏やかな親子のひとときのような、優しい光景が、食堂の隅のソファで静かに広がっていた。
――本当の家族になってしまえばいいのに。
その言葉に、胸の奥にゆるやかな波紋が広がる。
平気なふりをしても、ほんの少しだけ、何かが揺らいでいた。
「女将さんたち。俺を薦めてくれるのはありがたいんですが……エルナの気持ちが一番です。俺はただ、こうしてそばにいて支えられるだけで、それだけで充分なんですよ」
――ここでも、私のことを守るように言ってくれるなんて。
レオン団長って……どこまで優しいの?
◆◇◆
それから数日後のこと。
定休日の昼下がりの陽射しは、やわらかくて気持ちよかった。
爽やかな風も吹いていて、今日はルカと外に出るにはぴったりの日だ。
アルトはというと、朝から食堂の隅で丸くなっていた。
体調が悪いというほどではないけれど、なんとなく元気がない。
呼びかけても、ちらりとこちらを見るだけで、また鼻先を前足にうずめてしまう。
「……昨日の果物、食べすぎたんじゃないの? それとも、眠いのかしら? 珍しいわね」
思わず独りごちた。
そういえば昨日、女将さんたちが順番に来て、アルトにとあれこれ果物をくれていた。
みんな、アルトが嬉しそうに尻尾を振るもんだから、つい調子に乗ってたっぷりあげてたっけ。
……きっと、あれが原因だ。
「今日はゆっくり休んでてね。お留守番をお願いね」
私はそう声をかけて、ルカをベビーカーに乗せて外へ出る。
ユリルやトミー、レオン団長――いつもなら傍らにいてくれるはずの人たちは誰もいない。
「明日は王都騎士団の大切な行事があって、俺もトミーもユリルも本部に詰めっぱなしだから、来られない」
そう言っていた団長の言葉を、ふと思い出す。
――大丈夫よ。すぐそこの公園まで行くだけだもの。
商店街を抜け、公園へ向かう途中のことだった。
見知らぬ人に、ふいに声をかけられる。
「すみません、このあたりに《聖フレア教会》ってありますか?」
「あ、はい。ここをまっすぐ進んで、二つ目の角を右に曲がると、小さな十字路が見えます。そこを左に入って、坂を少し下るとすぐですよ……」
ほんの数分、立ち話をしただけのはずだった。
――けれど、ふと横を向いたとき。
そこにあるはずのベビーカーが、跡形もなく消えていたのだった。